風の国 終
何も見えない。
何も聞こえない。
何もできない。
何も見たくない。
何も聞きたくない。
何もしたくない。
隙間から覗く現実が私の心を砕きにくる。
木に包まれた私は身をよじって抜け出そうとするが、それは叶わなかった。
外に広がる光景は私の理想だったもの。
今となっては見る影も無くなっている。
胸を渦巻く憎悪と殺意。
自分でも分かっていた。
この国はあくまで理想であり、叶うことのない幻想。
崩れれば何もなかったかのように空に消える儚いものだと。
でも、私はその中で死にたかった。ぬるま湯の世界でなんの後悔もなく死にたかったのに、あの女––––––––エスカがそれを阻んだ。
それが憎いかと言われれば憎い。その気持ちに嘘はないはずなのに、心の奥底で気づいてしまっている感情がある。
安堵。
一つ、小さな息が漏れた。
殺意でも憎悪でもない安堵のため息だ。
それと共に全身の力も抜けていった。
結局、私は守り人としても人としても中途半端に壊れていた。現実を認めず、幻想に囚われて、挙げ句の果てに自分をも守れず、この空から地面に向かって落ちるのだ。
この木は風の
この国自体はとっくに壊れているはずの国だから地面に落ちるよりも早く空気に溶けていくだろう。
残念ながら私はこの国と一緒に空気に溶けるなんてことはない。体が砕けるのを待つだけだ。痛みを感じる間も無く死ぬだろう。
もう体を浮かす力も残っていない。
もう死ぬんだと改めて考える。死ぬことが怖いなんて思ったこともなく、ただこの国を去った人たちの帰る場所がなくなってしまうことが何よりも辛い。
誰よりも私は国民を愛し、誰よりも私はこの国を愛していた。
守るべきものを守り人として守り続けた。
この愛情に嘘はない。
「悔しいなぁ……」
ポツリと出てきた私の本音。
この愛情が正しいものなのか、それすらも分からない。結局、私は人間ではなく守り人だ。自分でも分からない存在。ただの化け物。人から向けられる愛情なんてものはあったのだろうか。
この国に人がいなくなったことが何よりもの証拠だ。
結局私はそんなものだ。
きっと風達からも呆れられていたのだろう。
私のいる地面が崩れていく。
不自然な浮遊感が体を包み込み、そしてすぐに重力に沿って落下していることに気付いた。
私を縛っていた木々は空に溶けていき、私の身一つになった。遠くに見える私の国が次第に小さくなっていく。
静かに目を閉じて最期を待つ。長くて短い人生だ。すでに半分死んでいたものなのだから静かに逝こう。
『重めぇ』
『ちょっと女性に対していうべきことじゃないと思うよ?』
『女の敵ね!』
しかし、待てども待てども地面が私を砕くことはなく、子供のような話声と全身を駆け巡るいくつもの『風』を感じるだけだった。
幻聴というわけではない。
それは何度も聞いて、感じたことのある『風』たちの声だった。
「なんであなた達が……」
力はもう残っていないはず。
『さあね! でもあなたとまたお話ができるなんて最高じゃない。こんなところで死んでもらっちゃ困るわ!』
『お前が死にそうだから助けてやったんだ。感謝しろ』
『なんで君はそんなに生意気なんだろうね』
可愛らしい女の子のような声。
生意気ながらも優しさに溢れた声。
落ち着きながらも力強い声。
この声はいつまで経っても成長せず、いつまで経っても私の大事な友達だった。
風たちに運ばれて空を降りていく。
上を見ればそこにあったはずの国は無く、雲一つない大きな空が浮かんでいた。
下を見れば遠く遠く続いていく草原が広がっていた。
『ねえ、もし暇なら私たちと一緒に世界を回らない?』
無垢な少女のように何も曇りのない暖かな柔らかい声で風は提案してきた。
「いや……私は……」
守り人だから。
そう言おうとして言葉を詰まらせた。
風の国はもうない。守り人として守るべきものはもうこの世にはないのだから私は守り人と言えるのだろうか。
……私は一体、何なんだろう。
『なんか難しく考えてる顔してる』
『あーもう面倒くさい! 風の吹くまま気ままに行けば良いんだよ!』
『そうだね。難しく考えすぎてもうまく行くことなんて少ないんだから、今回ばかりは君に同意するよ』
風たちはそう言ってくれる。
けれど、私は私たらしめた守り人という存在ではなくなってしまった。私が生きる意味がない。
「私は……もうあなたたちと隣を歩く資格がない……」
守り人ではない。
風との会話ができているのは守り人としての能力であり、守り人でなくなった私は風たちと話す資格は本来ない。
私は守るべき国が無くなった時点で死ぬべきだったのだ。
国民が誰もいなくなった時点で風の国は死んでいた。
私はそこで共に空に溶けるべきだった。
それなのに、過去の理想に縋って縋って、最後には自分の手ではなく、エスカという私と同じ守り人によって終わった。
何も私は出来ていない。
私は何も自分で始めることが出来なかった。
私は何も終わらせることができなかった。
私は……私は……
『友達と話すのに資格が必要なの?』
ある風が言ったその言葉は、私の心の何かを砕いた。体の奥にある何かに風が触れた。
『馬鹿だ馬鹿だと言われたことが多いけど、今のお前よりは馬鹿じゃない自信があるぞ』
呆れたように風が言う。
『全く同感だよ。僕たちは友達じゃないか』
大人ぶった子供のような声が言う。
ああ……そうだ。私が何者であろうとなかろうと、守り人であった私が全て無になるわけではない。
確かに私は風の国の守り人だった。その事実は私を私たらしめる理由として十分だった。
きっと今の私は何者でもない。何者でもないのであれば、これからの私が私を作る。何者である必要は今はない。
もう、私は守り人ではないのだから。
「……うん。そうだね。行こうか。風の吹くままに」
私は顔を上げて、うまく動かない口角を不器用ながらに引き締めた。
『いいわね! そうこなくっちゃ!』
『よーし! まずはこっちだ!』
『本当に何も考えずに進んでる……』
「いいよ。私たちは風。自由に気ままに行こう」
私は旅の一歩を歩き出す。
何者でもない者の覚悟の一歩は軽く、まるで風になっているかのようだった。
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