人が視線だけで意思を伝えることのできる動物は、ある種の海棲哺乳類や高等猿類。

そしてイエイヌだけだと言われている。

餌を隠した二つの箱を置いて、戸惑う犬に目線で正解を教えるという実験がある。

犬は人の目線の意味を理解して、餌にありつくことができるという。

犬と遺伝的にそれほどの差異がない狼にはできない芸当らしい。

 そもそも犬は狼の一ブランチから派生したと考えられている。

その狼の末裔まつえいは極地から赤道直下に至るまで人が住む所であればどこにでもいる。

人に寄り添い仲良く一緒に暮らしている。

そのことは人間と相互に共感しあえる犬独自の特殊な性質に原因があるらしい。

 人と犬はおよそ一万から一万二千年前に出会ったと考えられている。

かつて、動物行動学でノーベル賞を受賞したコンラート・ローレンツは、人が狼の子供を取らまえて家畜化の方向へ導いたと考えた。

しかし現在では<後に犬となる狼>の小さな群れが、自ら進んで人の集団の中に入り込んでいったものと考えられている。

そうした狼達は最初の頃、人の集団周辺で残飯をあさったり。

人が行う狩りに協力して分け前をもらったりしていたのだろう。

おそらくはローレンツが描いたような、少女と幼い狼の出会いもあったろう。

 犬になる素質を備えた狼は、人の生活圏に出没し次第に彼我の距離を縮めた。

当然のことながら、最初の内はそうした狼を見て、人々も強い脅威を感じたに違いない。

不用意な接触があれば、互いに傷つけ合い殺し合うこともあったろう。

同時に<後に犬となる狼>が、双方にとって危険な肉食獣が迫った時に警告を発する。

人の狩猟について来て意外な局面で役に立つ。

そうした経験も、着々と積まれていっただろうことは想像に難くない。

 <後に犬となる狼>と生活圏を共にした記憶が、何世代にも渡り人の集団に刻まれていった。

このことは確かなことだ。

ことは一朝一夕では成らなかった。

だが人擦れした狼の有用性は、やがて人の持つ当たり前の常識と成ったに違いない。

 <後に犬となる狼>が人の集団に入り込むにつれ。

人々は彼らがイノシシやウサギなどとは全く違った生き物であることに気付いたに違いない。

嫌も応も無く両者の付き合いが密に成ってくると、一部の狼が人の心情を推しはかれる。

逆に人もそうした狼の気持ちがある程度理解できることが分かってきたことだろう。

やがて<後に犬となる狼>と人は、互いに互いを必要とする新たな時代を迎えることになる。

 人との共生を選んだことで、オオカミ(Canis lupus)は、ワンワンと吠え身体にブチのあるイエイヌ(Canis lupus familiaris)へと、大きく変化を遂げていくことになる。

 今はまだとんでも科学の域を出ない。

だが犬の誕生にちなんだ興味深いある仮説が提唱されている。

一万年ほど前に人の大脳の体積が少し減って犬のそれが増加した事実がある。

仮説は犬と人の大脳の体積の増減は両者の相互補完が原因だと説明したのだ。

まあ、珍説といえる。

一万年前、人は知性を推し進めるため感情のある部分を捨て、代わりに犬がそこを補ったのだそうな。

そうした仮説を、両者の大脳体積の変化から導き出したのだから、学者の想像力も大したものだ。

仮説を唱えている学者に言わせれば、人と犬による感情の相互補完は今でも続いているらしい。

 更には広げた大風呂敷に付け足して、感情の相互補完は人と犬の共進化というべき現象であるとまで主張している。

だが、それはどうだろう。

人の知性の進化にイエイヌが大きく関わっている? 

猫派の人間にとっては大いに異論のあるところだろう。

しかしながら、人と犬のつながりは他の家畜と一線を画している。

その論考については確かだろう。

 イギリスでは産業革命以降、農村から都市へ急速に人口が流入した。

その時期に人とともに移動した動物は、鶏でも豚でも牛でもなく犬だったそうだ。

単純に考えて、都市では犬以外の家畜の飼育が難しかった。

それで説明が付くことだと思う。

だが犬は都市において、使役にも食用にも用をなさない動物だったのだ。

そんな家畜が家の中にまで入り込んだ。

 人は貧しい食事を分かち合いながら犬と共にあり続けた。

この歴史的事実は大層興味深い。

 

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