第5章  Disclosure  第3話

 話は文佳に飛ぶ。

 八木ちゃんの、声が聞きたい。

 電話してみよう。

 携帯にかけたが、出ない。

 今日山本くんと約束あるから、夜はかけれないんだけどなー。


「ただーいまー」

 祐介、帰宅第一声である。

「おかえりー」

 クロゼットの前に祐介が現れる。

「なにやっちょるん?」

「服の片付け」

 毬子は、絵を描くのも藤花亭に行くのもひと休みして、これやった方がいいかなあ、とかねて微かに思っていた、箪笥とクロゼットの片付けを始めたのである。断捨離という言葉は、まだこの頃はないか。

 床が服でいっぱいだ。

 サテンでシャンパンゴールド色のドレス、パステルピンクの春物のスーツ。ブルーのキャミソールワンピース。いろいろ。質はピンからキリまで。フリルなどの飾りはないものばかりだ。

「職場からいっぱい服持って帰って来たからね」

 もっとも、今やる気になったのは、由美のことで悶々としているのからの現実逃避目的である。

「そういや今朝なんで、由美さん家に電話したんじゃ?」

 現実逃避したがっている毬子の心理を知らん顔して、核心を突く祐介。

「もうすぐ藤井家とのカラオケあるから参加しないかって。絢子さんが呼びたがってたの。昨夜も電話したけど出なかったから」

「なるほど」

「あんた帰って来たってことは今何時なの?」

「もうすぐ4時」

「ちょっと夕飯の買い物行ってくるわ。今日は家に居るでしょ。食べよう」

 言って毬子は立ち上がった。パンパン、と手を叩く。サテンのアイボリーのキャミワンピが膝から落ちた。


 と言って、スーパーへ行き、帰宅してできた夕ご飯はハッシュドビーフとサラダだった。あと、母親から分けてもらったぬか床で漬けたキュウリ。

「元気ないな」

「そお?」

「由美さんのことそんなショックやった?」

「そりゃ……」

 わかるなら突っ込むなよ! と息子に八つ当たりするわけにもいかず。

 弟ならそれが出来たんだけどなあ……

 更に元気がなくなる毬子である。


 話は再度札幌に飛ぶ。また時計台の前。

 戸惑い気味な表情の文佳。

「来てくれてありがとう」

 またも後から現れた山本は言う。

 またススキノの方へ歩く午後5時40分。


「八木ちゃんに不満があると言えばあるよ。たとえば、こないだ東京行った時、八木ちゃん家の最寄り駅のそばにカラオケボックスがあるんだけど、そのカラオケ屋の周りが朝早くから消防車でいっぱいだったことがあって、真相わかったら教えてもらう予定だったのに、あたしから連絡取らなきゃ教えてくれないんだもん」

 居酒屋で注文を終えて、話し始める文佳である。


「おす」

「おす」

 水曜日午後7時、短い言葉だけ交わして、おてんば屋という居酒屋に入る。例の、バルサンを炊いて大騒ぎを引き起こした居酒屋である。

「予約の岩渕ですけど」

 というとすぐ個室に通された。6人くらいは入れそうな部屋。

 席にかけてすぐ。

「ビール」と由美。 

「ライムサワー」と毬子。

 それから食事のメニューを見始め、店員は個室を去っていく。

「……こっちは目撃者もいるんだから、シラ切っても無駄だからね」

 毬子は思い切って強気に出た。

「……どういうこと?」

 由美は不思議そうな顔をする。

 そもそも驚いたのは毬子の方である。なのに目撃者をおさえてあるなんて、意味が分からない。

「ひと月くらい前に、アスカと祐介が、渋谷のラブホ街で建物から出てくるあんたと三村さんを見たって言うのよ。あの電話の朝、あいつ登校前でさ、受話器落っことしてるあたしからどこへかけて誰が出たか聞いたらその話白状したわ。誰にも言えないで黙ってたんだって」

 ここまで聞いた由美は、しばらく驚きを隠さなかった。

「って、アスカちゃんと祐介? なんで?」

「そこから説明がいるのか。あのふたり最近付き合ってるのよ。あんた知らなかったっけ?」

「知らない知らない。そーか、あいつらオトシゴロなんだね……」

 ちょうどその時、有線からスターダスト・レビューの「シュガーはお年頃」という曲が流れ始めた。なんつー古い曲をなんつータイミングで、と由美は思う。音楽ライターという職業柄知っている曲だ。

「話をそらすなよ。あんただって、藤花亭じゃなくこっちでしかも個室おさえたあたり、白状する気はあるんでしょ」

「……始まりは律っちゃんの愚痴でさ」

 なんとなく理解はできなくはない。律子の人間関係と言ったら、姉である自分と夫である三村くらいでこの2人に依存してるから、三村のストレスもかなり溜まるのだろう。酷い時は買い物にも出ていかない。生協注文して取ってると言ってたか。嫁いだ時は知らない人ばかりだった取手、そのままなのだろうか。対人恐怖なのかもしれない。

 だからと言って、不倫の免罪符には、なるかならないか意見は割れるところだろうか。

 三村だって誰かを頼ったり、受け止めてもらいたいことがあるだろう。

 とはいえ、学生時代もろくに友達がいなかった律子で、依存が深くなることは予想できなかっただろうか。

「あと、あいつが終電乗れなかった日のホテル替わりね。男として見てないと言ったら嘘つけって言われるだろうし……でも情熱がないんだ最初から」

 由美はヤケのように言って、いつものメンソールの煙草をくわえた。

「情熱のない不倫なんてそんなのあるの?」

 驚いて真顔で聞き返す毬子。不倫の経験がないから余計謎になる。

 女の若さ目当ての不倫とも言い難いし。

 むしろ律子の方が若いし。

 由美から返事は返ってこない。もともと由美が聞き役に回ることの多い関係性なのだ。下手なインタビュアーである。

 由美はインタビューのプロだし。

「律子の内気さに辟易してるのは同情も共感もするけど、だからと言ってあんたと不倫というのは……」

「申し開きはできません。律ちゃんを深く傷つけそうでごめんなさい」

 由美は咥えた煙草を口から外して頭を下げた。そして続けた。

「とにかく祐介とアスカちゃんに見られてたってのは予想外だったわ」

「この話に想定内のことなんかひとつもないわ」

 と毬子はこの頃流行った言葉を口にする。

 話が一段落したところで、コンコン、と音がした。

「失礼します」

 シーザーサラダ、ほっけ、たこ焼き、イカリング、鶏の唐揚げ、などなど様々な料理が運ばれてきた。

 毬子がグレープフルーツサワー、由美がウーロンハイを注文すると店員は出ていく。

 店員が出ていくと由美は口を開いた。

「とりあえず三村に話す。あんたが律ちゃんに話すかは自由ね。三村から聞きたいだろうけど」

「あの時は驚いたって言っといて。

 あと、どっちが誘ったにせよ、傷つく人間が出るのはダメ」

「三村はあたしに頼りたい気持ちを、恋愛と勘違いしているのかも」

「どういうこと?」

「律っちゃん相手だといつも頼られるところでなくちゃいけないから、プレッシャーだと言ってた気がする。律っちゃんあの性格だし」

 うーん。とうなって考え込む毬子。

 由美は恋してる感じがしないので、情熱がないというのは本当らしい。始めた頃はあった情熱が醒めたのかもしれないが。

 恋愛よりも友情っぽいな。

 友情でベッドインしてしまうのって、腐女子が漫画にハマる際にそんな風に見える話だけど。男同士で。

 しかし、夫に若くない愛人がひとりだけ、って深刻に夫婦仲が冷え込みそうな話だな、と最近4コマ漫画で読んだ話を思い出して考えた。亡くなったダイアナ妃なんてそんなケースじゃないさ。


 その後、絵の話や仕事の話をして、午後11時に解散した。


 サッポロは。

 冗談には笑ってくれる。

 でもふとした拍子に沈んだ表情を浮かべる文佳。

 どう思ってるんだろうと山本はわからない。


 更にその翌々日は信宏と藤花亭でえある。


「ちょっと飲み歩き過ぎかな……」

 と思いつつ、いつもの通りを通って藤花亭到着。

 行動半径は500メートル以内だけど。

「何か今日信宏くんから予約入ってるけど、毬ちゃんでいいの?」

「はいあたしです」

「じゃあお座敷ね」

 サンダルを脱いであがって、しばし待つ。


「おす」

 座敷で発売されたばかりの漫画雑誌を読んでいた毬子に声がかけられる。

「おす」

「何か話進んだ?」

「注文させてよ。全然進んでないの姉ちゃん周りだけ」

 というと信宏は、ミックスとウーロンハイを頼んだ。毬子も豚玉とビールを頼む。


「ビルの屋上に置く看板を描けば良いわけ?」

「そういうこと。バスケをイメージした画像がいい」

「ラフ画像何点か見せないといけないわよね」

 直接会うか、FAXか、ラフ画をスキャンしてメールに添付して送るか。

「具体的なサイズは?」

 というとさすがにビルの看板らしく大きい数字が出てきた。600センチ×1000センチ。シートで貼り付けていくとのこと。

「となるとどこで作業すんの。作業場あんの?」

「あー、そーか……」

「あと画材は? あたし油絵はやったことないよ。アクリル画なら高校の美術の授業でやったけど」

「任せる。油絵の質感欲しい気もするけど」

「勘弁してよ」

 その時信宏は、毬子が小さなメモを片手に喋っていることに気づいた。

「姉ちゃんてメモ魔だったっけ?」

「メモ魔になったのよ。どこにネタがあるかわからんからね」

「なるほど」

「今回はメモ重要でしょ。あんたも下調べ不足じゃないの? 作業に必要な情報をもっとちょうだいよ」

「看板制作のベテランな会社があるんだ。そこと仕事するから、そこの担当者に近いうちに会わせるよ。何か完成したカラーイラスト持ってるといいかも」

「なるほど」

 その時持参する絵を塗るのはコピックでいいけど本当に仕事するならアクリル画かな……などと考えていた毬子である。2021年なら完全に、タブレットで見せるだろう。


 当面はその会社のひとに見せるイラストを描けばいいわけか。投稿用原稿用紙でいいか。できるだけ大きい方がいいはず。

 それとも、パソコンを新調する?

 サイズのことが不安ではあるけど。


 押上はそうして夜が更けていったが、八木は同じ押上で、1本の電話を受けていた。

「はい」

『八木ちゃん? やっとつかまったー』

「……」

『少しは声を聴きたいと思ったっていいじゃん!』

 それか……

「ごめん、手が離せんくて……」

『どういうつもりなの?』

「……」

 何に対して「どういうつもりなの?」かわからない八木である。

『わかった。それにしてもカラオケ屋の件と今回でよくわかった』

「何が」

『それは会ってから言う。来週休みの日札幌に来て』

「マジか! 先週広島行ったばかりじゃ……」

『いい?』

「……ハイ……」

 文佳の声音にはNOを言わさない何かがあった。

『だいたい八木ちゃんはいつもあたしにばかり連絡させてばっかで……』

 このまま文佳がまくしたてて、八木は電話を切るタイミングを計るのに30分かかった。


 来週は木曜に休みが取れている。サマーバーゲンが始まる時期だが、あとで埋め合わせするつもりである。

 職場から直接空港へ行くことになった。職場が日本橋であることに感謝したい気持ちである。羽田空港まで乗り換えなしで行ける。

 そして前日になった。

 仕事が終わって、ロッカーに入れておいたボストンバッグを出し、京急線直通都営浅草線のひとになる。職場ではすれ違うひとの目を引いた。

 文佳は実家暮らしだから泊めてもらうわけにいかない。急な話でもホテルを取るしかなかった。予定外の出費に舌打ちする。


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