第4章 MARIKO 第3話
毬子はさっき撮った写真をもとに、更に2時間絵に向かう。
今回描き始めて一番のが出来た。
扉の横に縦に看板があり、「浅草小此木ジム」というジムの名前が大書きされている。建物が密集している地域で、壁の切れ目から淡いブルーの自転車の後輪が飛び出している。
中は、コンクリート打ちっ放しの、真ん中に四角いリング。
リングの外で縄跳びをする祐介。
若い左目の腫れたコーチに、
「あと200回な」
と言われてちっ、と思うも、表面上は文句を言わず、縄跳びを続ける祐介。
午後6時40分。
藤花亭行くか。と毬子は決めて立ち上がった。
桜の季節はピンク色になる歩道も、今は鮮やかな緑色。曇りがちな空が赤く焼け始めている。
やがて目的地にたどり着き、自動ドアがガラララッと開く。
「いらっしゃい、おー、毬ちゃん、そのエプロンは何のためなん? 自炊してないだろう」
と言った隆宏は今日は、真っ白いタオルでねじり鉢巻きをしている。
エプロンをしたまま来てしまったことに今気づいた毬子は、
「はははっ。絵を描くのにね。
今は毎日でもここのお好みが食べたい気分。今日祐介居ないしね。ミックスとビール」
「ありがとう。祐ちゃんボクシング?」
「そう」
これらのやり取りをしながら、カウンターの中の藤井夫妻は、具材を混ぜたり、これから出すコップにビールを注いだりしている。
毬子はエプロンを外してくるっと巻き、カウンターに置きつつ椅子に掛けた。
自動ドアの音がした。
「いらっしゃいませー」
「いらっしゃいませー」
「こんばんわー」
夫婦の声に迎えられて頭を軽く下げながら入ってきたのは八木だった。後ろに、髪をかなり短くしている八木の友人らしい男性がいる。彼は頭を下げるにとどめる。2人とも私服で、ポロシャツにチノパン姿(色は、八木がブルー、友人がうぐいす色)。
「八木さんいらっしゃい。今日はお友達も一緒で?」
「はい、前に話した、高校時代のバンドのエンターテイナーってこいつなんすよ。今月の終わりににうちの姉が結婚するんで、新婦のリクエストでバンドを再結成することになって」
「じゃあ座敷ですか? あれ、今月終わりって、何日で?」
「お願いします。良かった、開いてた……」
と言って更に続けたた日付けはりんだの結婚式と同じ日であった、
「おー、りんだちゃんと同じ日かー、めでたいねえ」
「中学の後輩で少女漫画家やってるのが結婚するの」
と藤井夫妻と毬子もつられて盛り上がった後。
「よろしくお願いします」
と、八木の友人が言いながら出した名刺には、大手スポーツ新聞社の名前と肩書、「矢沢勝則」という名前。
「あ、俺ここに名刺渡してなかったわー、あったかな……」
「いいですよ。何にします?」
「豚玉、あとビール」
「僕も」
何が語られるのか、気になる夫婦と毬子である。
「ほいで、マチコ先輩ギリギリに広島に帰ると? ワレも準備始めちょるん違うのかね」
と八木の声が聞こえる。
矢沢氏の方は言葉少なだ。
スポーツ新聞社、激務で疲れてるんだろうな。
「東京にいるのがわしらと及川と……ハチは? どこだっけ?」
「ハチは静岡。久住は群馬」
重い口が開かれた。
「最低でも東京で1回は練習できるん違うか?」
「すいませんミックス1つ」
「おまえ新ネタつくっちょるか?」
「ネタつくっとる暇ないっちゅうの」
矢沢氏は俯いた。
そのうち、プレスリー爺さんというあだ名の常連の禿げ親父(カラオケでプレスリーが十八番だから、こんなあだ名になった)をはじめ、他にお客がカウンターにも座敷にも入ってきて、八木の声を聞いていられなくなり、毬子も中学生たちをモデルに絵を描いたら会心の出来だった、見せて、という話になってしまった。
午後9時、
「ただーいまー、やっぱりここにいた、あ、八木さんこんばんは」
と祐介が現れた。挨拶を受けた八木は座敷から会釈した。
「お疲れー、祐ちゃん」
「イカ玉ちょうだい。あとウーロン茶」
「練習してきたか?」
見上げる毬子。まだ祐介は隣に立っていて、額の汗を右手で拭いながら注文した。拭ってから座る。
「まだ基礎体力が足らんってさ」
「まあ、プロデビューできるのは17歳からやて、そこにある漫画にも書いてあるけえ、焦るな焦るな。祐ちゃん3月生まれじゃけえ、3年近くある」
と、隆宏が指さす先にあるのは「ろくでなしBLUES」全42巻である。毬子が手を出さなかった作品で、藤花亭で見つけると、ここで読んだものだ。中学生やりんだも由美も、みんなここで読破済みである。読んでいないのは香苗と絢子くらいだろうか、趣味に合わないらしい。
もっとも香苗は、ほとんど本や漫画を読まないが。
「はははっ、大将の言う通り……ろくブル久しぶりに貸してー」
と言って毬子は、隆宏が指さしてた方角へ歩く。
「殴られるにも体力要るんと違うか?」
と隆宏が口を挟んだ。
八木のテーブルからは、
「てをつーないだらいいって……」
「稲葉の真似昔も受けたことねえじゃろ」
座敷で八木たちの相談がかすかに聞こえる。
有線からは宇多田ヒカルの「CAN YOU KEEP A SECRET?」が流れている。
祐介がイカ玉を食べたら帰ることにしよう。と思ったら、ほとんど食べ終わろうとする頃祐介は口を開いた。
「なあなあ、カラオケ行かねえの大将? 香苗ねえの就職祝いしちょらんし」
「ああ、そろそろええねえ……やっちょらんかったっけ就職祝い」
2家族合同カラオケである。年に3回くらいの割合で行われる恒例行事だ。香苗や明日香は新ネタの練習の場にしており、大人3人はこのカラオケで新しいヒット曲を知ることが多い。
藤井家は、商売をやってて、子供たちをなかなか遠くへ連れてってやれないので、せめてその代わりにと香苗が小学校5年生くらいの頃から始まった。
ちなみに、子供3人が小さい頃の夏には、頻繁に区民プールへ行っていた。大人は、毬子ひとりのこともあれば、3人のこともあった。毬子ひとりで3人の世話をするのは正直大変であった。
「7月に入ってからか」
「ほじゃねえ」
「今年まだ1回もやっとらんやん。やろうやろう」
「え、そうだっけ?」
「そうかもしれんのう」
隆宏が一度、タオル鉢巻を外して考える顔になる。
その時、扉ががらっ、
「ただいまー」
「あーアスカおかえりー。定例カラオケやるって」
「えらい遅くないか」
「うんわかった」
父親の心配げな声をよそに、アスカは言う。
「んじゃそろそろ帰る? 祐介」
「おお」
「じゃあお疲れさまでーす。八木ちゃんもお疲れさまー」
店を出ていく七瀬親子に、厨房から藤井夫妻が手を振った。
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