呼吸のような世界

不朽林檎

硝子越しの時間で

 夕刻、晴人は散歩に出ることにした。彼の寝起きする二階の部屋から、恐ろしく紅く、美しい夕焼けが見えたので、それを近くの河原から眺めてやろうと思ったのだ。誰にも会うつもりはない。部屋着の上にコートを羽織り、携帯電話だけを持って部屋を出た。

 季節は秋本番、空は藍にちかく、夕陽が建物や標識や、晴人の足下に長い影をつくった。風は冷たく、通り過ぎる公園の常緑樹を揺らした。緑の葉さえ、いまは夕陽に染まり、えも言われぬ深い色に見えた。

 晴人は眼鏡をはずしてみる。小学校高学年ごろから下がり始めた視力は、いまや0.3にも満たない。先まで鮮明に見えていた落ち葉の輪郭が一瞬にして滲む。

 正直に言って、近視は不便であった。晴人は自分の眼鏡をかけた顔が好きでない。なぜか生真面目で、気難しいふうに見えるから。加えて、裸眼では様々な作業に支障が出る。だから常にかけるようになったが、これがまた煩わしい。

 しかし一方で、いまではもう、その状態に随分と慣れてしまった。時々、眼鏡をかけていることを忘れていることがある。気づかずに顔を洗ってしまうこともあるほどだ。好きでなかったはずの眼鏡は、いまや彼の身体の一部となっている。

 しばらく立ちどまり、滲んだ景色を眺めた。何かを見ようとしているときは、非常に不便なこの目も、こうしてぼんやりとしているときは、悪くない。そう思う。


 世界は、少しばかりぼやけているほうが美しい。


 彼女がいなくなったとき、心の底からそう感じた。栞。肩の下くらいまで伸びた髪と、目を細めて微笑む顔が美しい少女だった。晴人は彼女の名前が好きだった。大切な記憶をいつまでも残しておけるように。そんな祈りのような、彼女の名前がとても好きだった。

 彼が高校一年生だったころ、彼女のほうから告白してきて、交際することになった。二人の交わりは慎ましく、微笑ましいものであった。

 デートを重ね、彼らは着実に近づいていった。そして、彼が初めてキスをした日の翌日。月曜日で、朝から冷たい雨がふっていた。彼は上機嫌で学校に向かった。彼女の笑顔を期待して。

 しかし、彼女は来なかった。代わりに、彼女の机に一輪挿しが置いてあった。

 後から聞いた話によると、交通事故であったらしい。彼女はまったくもって正しく通行していたが、信号無視の車に撥ねられた。打ち所が悪く、ほとんど即死だった。

 彼はないた。哭きに泣いた。喚き散らして、何もかも投げ出してしまいたかった。学校も一週間ほど休んだ。これには、彼の両親も大いに心を痛めた。彼は、そのまま朽ちていってしまいたかった。何も、見たくなかった。


 眼鏡をかけて、再び歩き出す。世界が輪郭をとりもどす。河原はすぐそこだった。この川は浅く、こちらから見て左から右へ、漣をたてて流れる。緩やかで音もない流れを、陽が照らす。きらきらとオレンジが反射して、目に刺さるように鮮やかだ。

 彼は土手の上から、しばし川面を眺めた。それからゆっくりと階段をおりた。辺りに人の姿はない。ぐっと背中を伸ばし、深く息を吸って、吐いた。もういちど眼鏡をはずしてみる。光の群れがひとつになって、筋のように見えた。


 栞が死んでから一週間が経ち、ひと月が経った。彼は依然として哀しかった。しかし一方で、彼女無しに生きられる自分がいることを発見した。哀しみは深く、彼を苦しめ続けたが、その輪郭は日を追うごとに曖昧になっていった。

 彼は焦った。哀しくて泣きたくて、彼女のために哀しんでいたかった。彼は眼鏡をかけるように、彼女との記憶を思い出した。それらはいつだって美しくて甘酸っぱくて、彼を穏やかな気持にし、涙させた。

 一年が経って、それもうまくいかなくなった。彼女との記憶は、ただひたすらに幸福な日々と化し、彼を慰めるばかりだった。

 嫌だった。こうなっても生きていられる自分が。彼女を、過去に追いやってしまう自分が。

 そんなとき、由紀という少女に出会った。彼女は彼のクラスメイトで、とても優しくて穏やかな人だった。授業中、同じグループになったことをきっかけに、二人はよく話すようになった。やがて恋仲に発展した。

 由紀と絆を深めるほど、彼の心には黒い何かが溜まっていった。あるとき、とうとう耐えきれなくなった彼は、由紀に栞のことを打ち明けた。彼女は黙って聴いてくれた。話し終わると、彼女は唐突に彼を抱きしめた。温かくて優しくて、彼は静かに涙を零した。

 それでも、黒い何かは消えなかった。けれど、彼のなかで少しずつ美化されていくのを感じた。


 背後から聞き慣れた声がした。振り返ると由紀がいた。

「なにしてるの?こんなとこで」

 彼女は長い髪を揺らしながら近づいてくる。白い肌が陽に照らされて色づいた。

「夕陽が綺麗だったから、見に来たんだ。由紀こそ、なんでここに?」

「私は、ちょっと大学に用があったから、その帰りだよ」

 彼女が隣にならぶ。二人の間を冷たい風が吹き抜けた。

 あれから更に月日が流れ、彼は二十歳になった。由紀と同じ大学に進み、いまだに恋仲を維持している。心の黒い何かは、もうあまり気にならなくなっていた。栞のことを、忘れたわけではなかった。ただ、時間の積層は、まるでショーケースのように彼女を切り取った。それだけのことだ。

 由紀が腰を折り、小さな石を拾い上げた。

「えいっ」

 彼女が放った石は弧を描いて三、四度跳ね、波紋を残して水中に消えた。彼は微笑んだ。

「上手だね」

 彼女は照れて笑った。岸際近く、左から何かが流れてきた。ぼやけて、よく見えない。

「そういえば、なんで眼鏡はずしてるの?」

「なんとなく、かな」

 眼鏡をかけてみたが、やはりその正体は判然としなかった。紙切れのようでもあったし、ゴミ袋のようでもあった。ただ、それは静かな流れのなかを漂い、左から右へと流れていく。彼はそれを、輪郭をとりもどした世界の中で、静かに眺めていた。

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