第286話 彼の想い
小木津に連れられて私とタロウさんは常陸駅近くにあるバーへとやって来た。
店内は落ち着いた雰囲気。客層も若い客を中心としてはいるが、割と幅広い世代がいる。だが身なりを見る限りは経済力や社会的地位のありそうな面々だ。スーツを着てる私と小木津は当然ながら場違い感は無いが、タロウさんのTシャツにジーンズ、リュックサックといった組み合わせはどう考えても浮いている。事実、他の客からの蔑んだ目や嘲笑が聞こえる。胸糞悪いわね。小木津がワザとこの状況を演出してタロウさんに恥をかかせようとしてるのが見え見え。早く撤収しないと。タロウさんにこれ以上嫌な思いはさせられない。
「…タロウさん。」
ーー楓が慎太郎の袖を引き、小声で話しかける。
「…こんな事になってしまいすみません。一杯だけ飲んだらすぐに店を出ましょう。」
ーー楓が申し訳無さそうな顔で慎太郎に謝る。だが慎太郎は楓に軽く微笑む。
「…大丈夫ですよ。俺に任せて下さい。」
そうだった。タロウさんはそう言う人だった。自分よりも私たちを優先する。小木津が私の同僚だから私の立場を案じて我慢をしてくれているんだ。やっぱり私が何とかしないと。
ーー楓は慎太郎の行動に嬉しくもありながら不安でもあった。慎太郎にこれ以上嫌な思いをさせないようにどうにかしないといけない。楓はそう思っていた。
ーー小木津に連れられカウンター席へと楓と慎太郎は誘われる。楓を挟んで左右に慎太郎と小木津が着席する。
「どうですか?良い店でしょう?普通の人間はこの店には入れませんよ。特に身なりの悪い輩はね。ハハッ。」
小木津がタロウさんを小馬鹿にしたような口調でそう言う。私はそれにイラっと来たのでビンタをして店を出ようと右手を動かした時にタロウさんに手を掴まれる。私は彼の方を見ると私を見て笑っていた。その表情が意図している事を察して私は右手の力を緩めた。
「お客様、お鞄をお預かり致しましょうか?」
カウンターに立つ初老の男性が私たちに対して言ってくる。こういう店ならそうなのだろう。私たちは持っていた鞄を初老の男性に預ける。
「マスター、今までリュックサックで来た客っていましたか?」
「いえ、申し訳御座いませんがお客様方が初めてで御座います。」
「そうですよね。ハハッ。」
…もういいや。ぶっ飛ばして帰ろう。それで訴えられても、クビになっても構わない。
私は平手では無く、拳を握り締めて小木津の横っ面に渾身の右ストレートを放とうとするがまたタロウさんに手を掴まれ阻止される。私は再度タロウさんの方を振り向くが変わらずニコニコしているだけだ。私は大きく息を吐いて握った拳の手を緩めた。
「マスター、ウイスキーをお願いします。芹澤先生も田辺さんも同じものでよろしいですか?」
「私はマンハッタンでお願いします。」
お前と同じものなんて頼みたくもないわ。
「あ、すいません。私は酒が苦手なので他に何か飲み物ってありますか?」
そのタロウさんの返答に小木津が笑い出す。
「ブハハハハ!!バーに来て酒が飲めないって!!田辺さん!!ナイスジョークですね!!ミルクでも頼みましょうか!?」
小木津が腹を抱えて馬鹿笑いをしている。覚えてなさいよ。明日出社したら絶対に張り倒してやる。
「お客様、ジンジャエールでは如何でしょうか?」
マスターと思われる初老の男性がタロウさんに提案をしてくる。
「すみません、それでお願いします。」
「かしこまりました。」
マスターがお酒を作り始めると小木津がタロウさんに話しかけてくる。
「田辺さん、芹澤先生と友人という事は田辺さんも東大なんですか?」
「いえ、私は茨城中央大です。」
「え?茨城中央大?へぇ…ハハッ。」
私は殴りたくなる衝動を抑える為に深呼吸を繰り返す。何度も何度も繰り返す。
「僕はケンブリッジ中央大学なんですよ。知ってるとは思いますが世界最高峰の大学です。」
「小木津さんは優秀なんですね。」
「ケンブリッジですからね。ま、田辺さんもなかなか凄いじゃないですか。茨城中央大なら高学歴ですよ。国立中央大の中では一番下ですけど。ハハッ。」
ーー楓が深く息を吸って深く吐くという動作を繰り返す。そうする事で最高潮に達しているイライラを必死に堪えている。
「お仕事は何をされてるんですか?」
ーー楓が小木津の言葉に大きく反応する。そう、それが一番楓の中で嫌な展開だったのだ。
「家庭教師をしています。」
「え?家庭教師?家庭教師ってあの家庭教師ですか?」
「そうですね。」
ーー少しの沈黙の後に小木津が大笑いを始める。
「ブハハハハ!!ちょっと待って下さいよ!!家庭教師!?家庭教師って!!学生のバイトじゃないですか!!ブハハハハ!!」
ーー小木津が大笑いをする事で周りの客も楓たちに注目し始める。
「田辺さん、あなた何歳ですか?」
「34です。」
「え?34!?…俺より下かと思ったよ。まぁそんな事はどうでもいいや。田辺さん、少し情けないと思いませんか?いい歳して何してんですか?家庭教師って。そんなのは大学生がバイトでやるような仕事ですよ?その歳で定職にも就かずにフラフラしている。そんなのが多いからこの国はダメになるんですよ。恥ずかしくないんですか?僕からすればなんで芹澤先生があなたのような人間と知り合いなのか理解に苦しみますね。僕たちの年収知ってますか?一年目から1000万ですよ?あなたの年収は知りませんが僕たちとは住む世界が違いすぎる。芹澤先生、あなたもこの人との関係は絶つべきだ。なんのプラスにもなりませんよ。百害あって一利なしとはこの事だ。さ、田辺さん、もうお帰り下さい。あなたはこの店に相応しい人間では無い。ここにいるべき人間は人生の勝者だけです。敗者は身の程を弁えて大衆店に行って下さい。」
ーー楓が立ち上がり小木津の方へ向いて右手を振り上げようとする。だが慎太郎がその手を掴んで止めようとするが楓は振り払い、右手を振り上げる。そして右ストレートを放とうとした時だった。
「芹澤先生?」
ーー小木津の後ろの方から自身を呼ぶ声がした為に楓はその手を止める。そして声のした方を見ると、楓の知った顔がいた。
「早川…社長…?」
「やっぱりそうだ。お久しぶりですね、芹澤先生。」
私を呼んだのはギルギックインシュアランスの社長である早川京子さんだ。ギルギックインシュアランスは茨城に本社を置く東証一部上場企業である保険会社。早川さんはその創業家一族である。東京本社にいた時のパーティーで彼女と何度か話をした事があるからよく覚えている。まさかここで会うとは思わなかった。それも今のこのタイミングでは会いたくなかった。
「ご無沙汰しております。」
「まさか茨城であなたに会えるとは思わなかったわ。これーー」
「ーー早川社長。」
私が話している間に小木津が割り込んで来る。
「初めまして。この度御社の例の案件を担当させて頂く事になりました小木津と申します。まさかこのような場所でお会い出来るとは思いませんでした。よろしくお願い致します。」
「ああ…秘書に任せていたので誰が担当なのかはわからなかったわ。それに今は芹澤先生と話していたのよ。人の会話に割り込むのはどうなのかしらね。」
早川社長に窘められた小木津は少し焦ったように謝罪を始める。
「も、申し訳御座いません。以後気をつけまーー」
「ーーあら?田辺先生じゃありませんか?」
ーー早川が小木津の言葉を遮り、楓の後ろへと目をやる。
「あ、早川さん。お久しぶりです。」
「お久しぶりですね!今日は久しぶりに会う人ばかりだわ!嬉しくなっちゃう!」
え?知り合いなの?ちょっと接点がわからないのだけれど…
「お知り合いですか?」
私は2人に尋ねる。すると2人とも笑って頷く。
「早川さんの息子さんと娘さんが教え子なんですよ。」
あ、なるほど。納得。
「田辺先生は凄いのよ。2人とも東大に行かせてくれたんだから。」
早川社長が私にそう言ってくると、小木津が早川社長の機嫌を取ろうと口を挟んで来る。
「流石は社長の御子息と御令嬢ですね。やはり頭の出来が一般人とは違うという事でしょう。」
「あなたはそう思うの?」
「当然です。世界で三本の指に入る東京中央大学に合格されたのですから。御子息、御令嬢は特別な存在なのだと思います。」
「そんな事ないわよ。高校の偏差値は35。高校三年の時の子供達の偏差値も32というとんでもない状況だったんだから。それで田辺先生は現役で子供達を東大に入れてくれたのよ。それでもあなたは子供達が特別な存在だと思うのかしら?」
「さ、30…」
ーー小木津は言葉が出なくなる。
凄い…どうやって合格させたのかしら。仮に小木津が言うように特別な子であったとしても、とてもそんな状況から現役で合格させるのは無理よ。
「特別なのは田辺先生よ。本当にあなたには感謝しても仕切れないわ。改めてお礼を言わせて下さい。ありがとうございます。」
「やめて下さい。小木津さんの言う通り司くんと亜里沙ちゃんが特別だったんですよ。私はきっかけを与えただけです。」
「ね、この人は本当に謙虚なのよ。」
早川社長が笑顔で私に話をふってくる。でも嬉しいな。タロウさんを認めてくれる人がいると嬉しくなる。
「私は本当にあなたには感謝してるのよ。だから困った事があったらなんでも言ってね。必ず助けになるわ。」
「ありがとうございます。」
「だからね、あなたを悪く言われるととても腹が立つのよ。それもそんな社会的地位や収入、学歴、そんなものでしか人を測れないような無能者にね。」
早川社長が小木津を見ながらそう言い放つ。早川社長の雰囲気を察して小木津にも焦りが生まれる。
「ゲゼッツに連絡を入れてあなたのような人間が担当なら顧問契約を打ち切ると下神谷さんに伝えておくわ。」
「そ、そんな!?待って下さい!?」
「さっきから気になっていたのだけどあなたまだいたの?私は田辺先生と芹澤先生と話をしているのよ。あなたと会話していないのだけれどね。」
「くっ…!!」
ーー小木津がマスターから奪い取るように鞄を取って店から退出した。
「典型的な勉強しか出来ない無能者ね。」
早川社長が笑いながらそう言っているのを見て私も正直すかっとした。タロウさんをあれだけ馬鹿にされあイライラはとれる事は無いけど、少しは気分が晴れた。
「早川さん、ありがとうございます。助けられちゃいましたね。」
「ふふ、言いましたよね?あなたを悪く言われると腹が立つのよ。助けたわけじゃないわ。」
「わかりました。そう言う事にしておきます。」
「本当はもう少し話をしたかったけどこれから用があるの。ごめんなさいね。あ、芹澤先生。」
「はい?」
「あなたがここにいるって事は転勤になったの?それとも出張?」
「転勤です。」
「それならあなたが担当になってくれないかしら?それとも手一杯?」
「早川社長の頼みでしたら大丈夫ですよ。」
「ありがとう。それじゃあ明日、下神谷さんに連絡を入れておくわ。ねぇねぇ。」
早川社長が私を手招きするので彼女に近づく。すると小声で私に話しかけてくる。
「…芹澤先生が転勤して来たのって彼が理由かしら?」
早川社長が凄く楽しそうな顔で私に聞いてくる。
「…はい。」
「…彼、カッコいいものね。あなたとなら凄くお似合いだと思う。頑張ってね。応援してるわ。」
「…ありがとうございます。」
早川社長はそう言って店を出て行った。
「俺たちも帰りましょうか。」
「そうですね。」
タロウさんは変わらずニコニコとした表情で私にそう言った。でも、何だかその顔が私にはとても悲しい表情に思えたのだ。
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