第141話 記憶の欠如
「…じゃ、これが朝の分な。」
「…はい。」
私は今、花に囲まれた店内でタロウさんと口づけを交わしている。
どうしてこんな事になったのかはよく分からない。なぜか昨日の夜からタロウさんが私に接吻をするようになってきた。彼も私を求め出したという事だろうか?ふふふ、それなら嬉しい限りです。花に囲まれてのファーストキスを彼としたいと思っていた私の夢は叶いました。とても幸せです。
ただ一つ疑問なのは昨日の記憶がほとんど無い事です。朝、タロウさんの車に乗ってからの記憶が抜けてしまっています。健忘症なのでしょうか?これが続くようなら一度病院に行かないといけませんね。
かろうじて覚えているのは楓さんが我が好敵手になった事と、どら焼きが消失していた事だけです。楓さんのような美しい方が好敵手になるのは不安ですが、タロウさんを想う気持ちは誰にも負けません。必ず彼の心を射止めてみせましょう。
いつものように学校近くのコンビニまでタロウさんに送ってもらう途中、彼との会話に花を咲かせる。やはりとても心地良い。この時間がいつまでも続けばいいのに。そしてその途中で彼が気まずそうな顔をして口を開く。
「あのさ…牡丹に言わなきゃいけない事があるんだよね…」
「なんでしょうか?」
「…怒らない?」
「わかりません。」
「ですよねー…えっと…昨日さ、楓さんにも告られたって言ったじゃん?夜に美波にも告られたんだよね…あはは…」
「……」
やはり美波さんもタロウさんの事が好きだったのですね。それは仕方ありません。彼のような方に恋心を抱かない方が無理があります。でも私は負けません。必ずや彼の心を射止めてみせます。
「まさかさ、美波にまで告られるとは思わなかったんだよな…」
…何だろう、胸がモヤっとするような…変な気分になる。そういえば昨日も車に乗ってからこんな気持ちになって記憶が無くなったような…
「もちろん断ったよ…?ただ、2人と同じように待つって事になったんだよね…そう言うわけだからーー」
「何で他の女の話をするんですか?」
「え?」
「今一緒にいるのは私なんですよ?それなのにどうして他の女の話なんてするんですか?ねぇ、どうしてですか?ねえ、どうして?」
「ち、違うよ!!ちゃんと牡丹に報告をしなきゃって思って!!」
「あなたは私だけを見ていればいいんです。」
「あ、はい。」
「ここで接吻をしてくれれば今回の事は水に流します。」
「こっ、ここで!?いや…人目につくじゃん…?」
「……」
「待って!!その剪定バサミどっから出したの!?わかったからそれしまって!!やめ…!!!アーーーーー!!!!!」
*************************
ーーキーンコーンカーンコーン
…あれ?なぜ私は学校にいるのでしょうか?先程までタロウさんと一緒に登校していたはずなのに…?また記憶が抜けてしまっている…やはり一度病院に行った方が良いかもしれない。でも今は予鈴も鳴った事だし授業に集中しないと。明日から中間考査が始まるし頑張らないと。
だが相変わらず学校の居心地は悪い。男子達からのいやらしい眼差しには嫌悪感しか覚えない。タロウさんと同じ生き物だとは到底思えない。というか、タロウさんに充電を頂いてないからもう充電が切れてしまっている。完全に依存しているのは困ったものですね。
はぁ…早く会いたい。
そんな事を考えているとあっという間に放課後になってしまった。タロウさんの事を考えてると時が過ぎるのは早いものですね。
「お母さんのお見舞いに行かないと。」
私は家へ帰る前にお母さんの入院している病院へと寄った。具合もだいぶ良くなったみたいで来週には退院できるらしい。お母さんは『家に戻っても牡丹は帰って来なくていいから旦那の所に居なさい』と言ってくれた。私の恋を応援してくれるお母さんの気持ちが私はとても嬉しかった。
時刻はいつもと同じ午後9時前。そろそろ彼がやってくる時間だ。この時間をどれだけ待ち望んだか。早く会いたい。
そう思っていると店の戸が開く。もちろんタロウさんだ。あぁ…やっと会えた。
「お疲れ牡丹。」
「お疲れ様ですタロウさん。」
「じゃあ帰ろうか。」
「はい。」
「あ、それと…はい、これ。」
タロウさんが手の平を隠すように甲を見せながら私の方へ手を差し出す。何かを持っているようだ。なんだろう?
私が手を出すとタロウさんは私の手にそれを乗せてくる。私の手に有ったのはどら焼きだ。それもドラ吉のどら焼きだ。
「こっ、これはドラ吉のどら焼き…!どうして…!?」
「昨夜悲しそうな顔してたから昼間に買いに行っといたんだよ。」
…本当にこの人は。私の心をもっとあなたに依存させるつもりなのですね。
「ありがとうございます。とても嬉しいです。」
「おう。家にも30個入りの置いてあるからいつでも食べれるよ。」
「ふふふ、本当にあなたは優しいですね。もっと好きになってしまいました。」
「…そっか。それは照れるな。じゃ、じゃあさ、お願いしてもいい?」
「お願い…ですか…?なんでしょうか?」
「えっとね、剪定バサミを持ち出すのはやめよっか…!いやさ、危ないじゃん?特に運転してる時は!」
「すみません、何の話をされているのでしょうか?」
「え?」
「剪定バサミというのは店にあるこれの事ですよね…?これが運転されている時とどのような結びつきがあるのでしょうか…?」
「お、憶えてないの?」
「昨日から記憶が無くなっている部分があるんです。昨日の朝の水やりと、今日の登校中の車内の記憶が無いんです。」
「えっ!?アレ憶えてないの!?」
「はい…私、何かご迷惑をおかけしたのでしょうか…?」
「…ウウン、ナニモヤッテナイヨ。」
「そうなのですか?よかった…てっきりご迷惑をおかけしたのかと思いました。」
「ダイジョウブダヨ。」
「安心致しました。ではタロウさん、夜も接吻をして頂けるのですよね?」
「…それはしっかり憶えてるんかい。」
「では愛情たっぷりで濃厚なのをお願いします。もう充電が完全に切れてしまいました。あなたで私を満たして下さい。」
「わかりましたよお姫様。」
彼に抱き寄せられ、私たちは唇を重ねる。私の要望通り激しく濃厚で愛に溢れた口づけが数分間、花の香りに包まれながら行われた。
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