ノアの飛ぶ舟

堀河竜

マグメイル編

第1話 酒場のウェイトレスとパイロット

水平線が地上より丸く見えていた。


隆々と沸き立っている大きな雲がまるで一つの巨大な壁みたいな雲が青い空に浮かんでいる。


下に広がる海は太陽の光を照り返していて鋭く輝く。


波が細かい模様を作っているはずだが、目をこらしても海は青一色だった。


その海と空を縫うように、一機の水上機が飛んでいた。


悠々と飛行機雲を引いていたが、小さな島の街に向かって、ゆっくりと海上へと高度を落とす。


街から伸びている浮き桟橋に機体を停めると、パイロットは「アメリカ」という看板が目立つ店へ向かっていった。




「知らねえな。他を当たんな」


その酒場「アメリカ」でのことだった。


店主が見せられた写真を返しながら答えるが、カウンターの客は突き返す。


「もっとよく見てくれ。奴隷を売ってる商人なんてどこにでもいる訳ないんだ」


「写真が古すぎて手掛かりになんねえよ。それよりここは酒を飲む場所だ。賞金稼ぎの案内所じゃねえ」


客の男は眉をひそめて奥歯を噛む。


頭を掻きむしって、仕方なしに店主に告げる。


「ウイスキーだ、なんでもいい」


「あいよ」


ボトルがグラスに傾けられ、ウイスキーが満たされていく。


その間に店主はウイスキーの代金分でもう一度写真を見る。


一人の女性とその子供と思われる五人が写っているが、もう何年も前の写真のようで人探しの手掛かりにはなりそうもない。


店主も端から諦めていて、ウイスキーを注ぎ終わると匙を投げた。


「やっぱり知らねえや」


酒と一緒に渡された写真を見て、男はため息を吐く。


カウンターに出てきたウイスキーに口をつけ、不味そうに眉を寄せた。


店主はその不満顔に言う。


「あんたの方には見覚えあるぜ。東でその名を馳せた、ニール・マクワイアだろう」


店主はそう言って、新聞の一面を客に見せる。


少し長めの金髪を掻き上げていて、吊り目が目立つたまご型の顔で、茶色のジャケットとデニムパンツを着た男。


その人物が赤い水上機の前で、満面の笑みでVサインしている。


そんな写真を新聞で見て客は言った。


「誰だこいつは」


「惚けるな。あんな形をした機体なんて見たことないし、赤い色の水上機とくれば大体見当がつく」


「……あの機体がそんなに珍しいのかよ」


男は呆れたように嘆息していたが、店主は得意げに続ける。


「ニールは二年前に17歳でエアレースデビューしたが、賞金を一稼ぎしたと思ったらきっぱり辞めて旅に出ちまいやがった。どういう理由か知らんがファンを置いてく勝手なやつだぜ。愛想悪くて我儘って噂で、何より有名な割にずっとチビ――」


「チビじゃねえ!」


男は店主に噛み付かんばかりに抗議するが、店主は笑みを浮かべたまま言う。


「やっぱりニールじゃねえか」


男もといニールはバツが悪そうに口を尖らせ、味が悪くて高いだけのウイスキーに口をつけた。


「どうしてこの町に来たんだ? 負けるのにチビって逃げ出してきたのか?」


「ちげえよ。どうしても探したい人がいるんだ」


写真を見るニールの目は、遠い過去を見ているようだった。


店主はそれを見ながら怪訝にグラスを磨いている。



背後のステージでピアノが穏やかな音色を奏で、女性歌手が恋人に囁くようなメロディを紡いでいた。


漆塗りの酒場が持つ温かみと暗い雰囲気にジャズの音色が加わって、この店だけが夜に包まれていた。



用を終えたニールがステージも気にせず、代金を置いて席を立つ。


ついでにメモ紙も一緒に差し出した。


「メフィスト・マクワイアってやつが来たらここに連絡をくれ」


「うちに来るとは思えないがね」


終始取り付く島もないマスターに、ニールは店を出ようとした。


「無駄足踏んだな」とため息をついていたが、突然誰かに手を掴まれた。


「待って」


見ると、まだ成長期の途中の幼い少女が手首を掴んでいた。


黒髪をサイドテールで流していて、釣り上がった目には哀愁を孕んでいる。


褐色の肌は生まれつきのようで日焼け跡がなく、この店で働いているのか、Tシャツとショートパンツの上にエプロンを着ていた。


「そのメフィストに会ったらあなたはどうするつもり? 手を組むの? それとも殺すの?」


少女はニールと店主の話を聞いていたようだった。


ようやく尻尾を掴んだ。


これまで奴隷商人をシラミ潰しするしかなかったニールは、そう確信して微笑んだ。


「メフィストは俺の兄弟だが、汚い商売をしているのなら殺す覚悟もある。奴隷商売をやめさせに行くんだ」


「商売は一人でやってる訳じゃないの。簡単にはやめさせられないわ」


「わかってる。でもそのために遠くから来たんだ」


少女はニールの腕を掴んだまま動かなかった。


まるで瞳の色を確かめているかのように真っ直ぐニールの目から視線を外さない。


カウンターで飲んでいる客たちが乾杯し、グラスを鳴らす音がジャズの中で響いた。



その時、ステージ側のテーブルで、ずっとニールの顔を見ていた一味がいた。


その一味はニールが不味いウイスキーを飲んでいた時からしげしげと見ていたが、ようやく合点がいって、勢いよく立ち上がる。


「思い出した! お前はこの前俺たちの飛行艇をぶっ壊した正義被れじゃねえか」


「なんだと!」


黒服で身を包んだガラの悪い連中が、溢したワインも気に留めずにニールの元へどかどかやってくる。


それを見たニールは、少女の腕を掴み返して自らの背後へ寄せた。


「おい、この間はよくもやってくれたな。てめえのおかげでローン持ちだ」


「取っ捕まえててめえのプロペラにくくりつけてやる。どんな回り方するか見物だぜ」


ニールは少女の手をジャケットのポケットに突っ込ませ、中に入っているものを掴ませた。


S字に曲がっている金属の棒。


それが何の道具かは、飛行艇が集まる店で働いている少女にとってわからないはずもなかった。


ニールは連中の脅しに返答する。


「なんだいつかのごろつきか。喧嘩ならやめといた方がいい。俺は目だけはいいんだ」


「言うじゃねえか。だが大人しく聞いといた方がいいぜ。今日は腕利きのペテロを雇ってきてる。いくらお前とはいえ太刀打ちできねえぞ」


連中が指を差すところには、赤髪と吊り目が特徴の男が仁王立ちしていた。


ペテロは自信満々で勇猛果敢な様子だったが、ニールの表情は変わらなかった。


「誰?」


自慢げな立ち振る舞いが崩れるペテロ。


「『紅色の使徒』と呼ばれるこの俺を知らんのか!」


「知らねえし、こんな奴等の相手してるだけでたかが知れるな」


「きさまっ!」


ニールの視界にペテロとやらの拳が迫ってくる。


連中もそれに加わって喧嘩が始まった。


ニールは次々に攻撃を繰り出されるが、反撃を全くしない代わりに避けていく。


何度かパンチをもらっても捕まらないように逃げ続けた。


ステージではいつもの騒動と言わんばかりにジャズが流れ続けていた。


 騒動が繰り広げられている間に少女は外に出て、クリムゾンレッドで珍しいシルエットの水上機へ来ていた。


話を盗み聞いていたので機体の特徴は知っている。



それに機体自体も独特だ。


機首付近に小さい翼、その後ろにあるのは後退翼と呼ばれる主翼があり、そしてその主翼には巨大な垂直尾翼が着いている。


普通の飛行機と違って、前ではなく後ろ向きにエンジンとプロペラがあり、その機体が大きなフロート一つと補助フロート二つで海に浮いていた。



少女はニールに渡されたものを持って水上機のフロートから主翼へ駆け上がった。


そのやけに太いクランクハンドルをエンジンのクランク軸へ差し込み、エンジンを回して起動させようとする。


しかし少女の片腕の力ではびくともしなかった。



少女はハンドルを両手で掴み直し、体重まで使った全力でエンジンを回す。


顔を真っ赤にして力を入れ続け、ようやくハンドルに勢いが付き始めた。


エンジンが回る低い音が聞こえ始め、それが勢いにつれて高くなっていき、周囲に甲高い音が響いていく。


少女がつまみを捻って点火すると一気に轟音へと変貌し、プロペラは回り始めた。



音を聞いて、ニールも店を飛び出してきた。


連中も追ってくるが、ニールは桟橋から赤い機体に飛び乗って操縦席に上る。


少女を降ろしている間もなく、ニールはベルトをするより先にスロットルを上げて、機体を桟橋から出した。


「待てこのチビ野郎!」


主翼に飛び乗ろうとして海に落ちた一人が、赤い機体に向かって叫んだ。


しかしそれも空しくエンジン音に掻き消され、ニールたちは連中を置き去りにして空へと飛んだ。

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