酒井小言

第1話

 吉田家の長男達也は、父邦彦、母紀子、妹春子の家族四人で高尾山に登っていた。五月の連休始めの行楽日和とあって、高尾の山は登山客に溢れていた。邦彦は身の引き締まった、いかにも健康そうな体つきをしていた。紀子は丸い体をしているわりに食が細く、逆に細身の邦彦のほうがよく食べた。達也と春子は母の体型と父の食欲を見事に受け継ぎ、欧米人を凌ぐ立派な肥満児であった。


 家族は山頂へ続く表参道を迂回して、見晴らしの好い稲荷山を通る山道を選んだ。邦彦が(セッカク、山登リニ来タノダカラ)、文句をこぼす三人(ナンデ、ワザワザコンナツライ道ヲ……)をうながしたのだ。それが皮肉にも山道に渋滞を作る羽目になった。


 おびただしい汗をまとった三人を前に歩かせ(ハア、ハア、ハア)、邦彦は胡散臭い励ましの声をかけて、士気を高めることに注意した(マサカ、コンナ事ニナルトハ!)。また同時に、気後れせぬよう必死に笑みを浮かべて、蟻のように続く後方の渋滞に目を向けて(コイツハヒドイ! 皆サンニ悪イ事ヲシテシマッタナ)しきりに頭を下げた。何人かの年配の人は笑いもしていたが(ハハハ、サゾカシ辛イダロウニ)、多くの人々は無関心な顔して(アンナクソデブ、山ニ登リニ来ルナ!)黙々と歩いていた(道ヲ踏ミ外シテ、落チテシマエバイイノニ)。


 渋滞に巻き込まれ人々は存分に新緑を味わうことになったものの、吉田家はそれどころではない。肥満の三人は頭が朦朧として(ハア、ハア、ハア)、ボールペンの先端ほども周囲に気が向かない。生死の境を彷徨っている。そんな三人を見て邦彦は同情と後悔を覚え(カワイソウニ、俺ガコンナ道ヲ選ンダバカリニ)、また恥らしさを打ち殺し(アア、愛スベキ家族ナガラ、ナンテ愚鈍ナノダロウ!)、平時の勤め先よりも忙しく気を配った。 


 困っている人に手を差し伸べる人間もいれば、追い打ちをかけるのもまた同じ人間である。邦彦のうしろを歩く、年金を受給しているであろう老人男性は「ほれ、もうそろそろ山頂じゃ! もうひとふん張りじゃぞ! がんばれ!」陽気に声をかけてくれる(最近ノ若者ハ軟弱ダ!)。心強い味方に邦彦は随分と励まされる(アア、重荷ヲ一緒ニ背負ッテクレル、ナンテ親切ナ老人ダロウ!)。春子は振り返りもせず(ウルサイクソ爺ダ)、のろのろと歩みを進める。


 またその老人のうしろを歩く幼稚園児らしき男の子が「お母さん、なんであんなクソデブが山に来るの? 自分の体がわからないのかな? 脳に脂肪がついて鈍くなったんだろうね」無邪気な質問をする。母親は「しっ! 静かにしてなさい」男の子の口に手を当てて(コノ子ノ言ウ通リダワ)、邦彦に申し訳なさそうに頭を下げる(ホント、何デ山ナンカニ来ルノカシラ)。


 それでもどうにか山頂へ辿り着いた。すると幾人かの人から賛辞をもらい、周囲の人々から不気味な注目を集めてしまった。邦彦は人々からの賛辞に厚く感謝して(人情アル人ハ、必ズイルモノダ。ダカラコソ頑張ッタカイガアル)、「純粋な頑張りは素晴らしい! 三人とも好く登りきった」三人にねぎらいの言葉をかけて喜んだ。三人は笑みを浮かべるも(ハア、ハア、ハア)、それとなく決まり悪そうだった。


 山頂は人々でごった返し、吉田家は居所を得るのに苦労した。邦彦が楓の木の傍にレジャーマットを敷いて、待ちかねていた吉田家得意の食事を始めた。


 そんな五月初旬の休日を楽しむ、人々溢れる、うら若い緑賑わう高尾山が始まりだった。


 登山に費やした脂肪をわずかに取り戻して、見晴らし台から丹沢山塊の方角を達也が眺めていると、上空から突然巨大な網が降ってきた。丸い円を描く網裾には沈子[おもり]がついており、轟音を響かせて山の斜面にへばりついた。市民球場ほどの大きさがあり、網の目は茶色く細かい。


 山頂は騒然とした。達也はただ驚くばかりだった(エエエ! ナンダヨアレ!)。降ってきた網を見ようと人々が見晴台に集まり、誰もがカメラと携帯電話を向けている。網についての根拠のない憶測が飛び交い、様々な媒体を通して情報は瞬時に共有されるが、誰一人真実を知る者はいなかった。


 最前の位置に居合わせた達也の丸い体に、うしろから人々の重みが加わる。鈍感な達也はまるで気にせず、網に目を向けて離さない(何カノ事故カ?)。


 網からは人間の叫び声がかすかに聞こえ、耳にしたことのないその声は、曇りなき恐怖だとはっきりと達也に伝わった。ドラマや映画では決して味わうことのない、日本の日常から葬りさられた純然たる恐怖が、山頂の人々の興味をさらに駆り立てた。網は図々しく山頂にへばりついたままだ。


 網が奇妙に動き出した。糸で手繰り寄せられるように、芋虫の這うような一定のリズムを保ったまま、ゆっくりと宙に吊り上げられていく。網を吊り上げる道具など一切見られない。原因のつかめない動きに、山頂がうるさく騒ぎだす。網からの悲鳴が激しさを増す。達也は目を見開くだけだった(ワアア、ナンダヨアノ動キ!)。


 無分別な力によって吊り上げられた網は、底面の盛りあがった円錐形のまま宙を登っていく。底には無残に剥ぎ取られた木々が絡みつき、ぼたぼたと土と木を地に垂らしている。人間の悲鳴は二分されて、地上と網からもたらされる。山頂にさらなる恐怖が蔓延した。


 山の斜面は丸い円の形に荒れ果て、緑がまばらに残っている。至極単純であり、かつ圧倒的な破壊力である。視力の良い達也は、網からこぼれた中年女性の小石のような体が、地に向かって落ちていく光景をはっきりと見た(ウワアア! 落チタ!)。達也はひどくぞっとした。「人が落ちたぞ!」周囲から手柄を取ったかのような大きな雄叫びがした。


 網が空へ段々と小さくなる。山頂からの視点は空一点に集中される。網は拳ほどの大きさになると、動きが止まった。山頂がどよめいた。


 五分もするとまた網が動き出した。量は少なくなったものの、網目からこぼれ落ちる木々は止むことなく高尾山に降ってくる。


 親指ほどの大きさになった頃、網が突然姿を消した。行方を見つめていた山頂から、未知な物にありがちな結末に対して、失望の声がすこしばかり起こる。達也もやはり、ちょっとばかしつまらなさを覚えた(アーア、消エチャッタヨ)。


 山頂に土砂降りの雨のごとく、人々は麓へ勢いよく流れ始める。達也が家族と落ち合うと、紀子と春子はめそめそ泣いていた。邦彦はそんな二人の肩に手をかけて(アンナ恐ロシイ光景ヲ見タンダ、カワイソウニ)、陽気な顔を浮かべている。


「急いで山を降りたところで、どうなるものでもない。わたし達は落ち着いてから降りることにしよう。せっかく高尾山に来たのだから、帰りぐらいは休日らしく、のんびりと帰ろうじゃないか」


 そんな邦彦の言葉を聞いて、達也は思わぬ安心を得た(父サンハ、ヤケニ呑気ダナ)。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る