飛翔せよ!

せち

第1話 夏休みの始まり

 じりじりと肌を焦がすように照りつける真夏の太陽。太陽に照らされたあぜ道で、大きなスーツケースを引っ張りながら少女は一つ息をつく。吹き出す汗を拭うことは既に諦めて、目に入りそうな汗を鬱陶しそうに腕で拭った。

「暑い………湿度がすごい………」

 ここは都会より涼しいはずだ、と母親は言っていたけれど、どうにもそんな気はしない。地面がアスファルトではない分、照り返す太陽がなくてマシ………かもしれないと、少女は無理やり自分を納得させて一つ頷いて、再び足を動かす。

 気を取り直してそのまましばらく歩くと左右に田んぼしかない風景を抜けて、目の前に数戸の家が並び始めた。

「う~ん、久しぶりのおじいちゃんの家………って、あんまり覚えてないけど」

 一人で喋って、そんなこともないということを自覚したのか訂正。

ここまでは話し相手がいない孤独な一人旅だったのだ、独り言が零れてしまうのもしょうがないだろう。そんな彼女の姿が傍目に見れば少し寂しい人、という事実に変わりはないのだけれど。


 彼女の名前は伊達天音ダテアマネ。ごく普通に夏休みを満喫している中学二年生の少女だ。彼女は地方だけれどそこそこ発展していた町の中学校に通っていて、間違っても今いる四方を森と山に囲まれた限界集落に住んでいるわけではない。

 ではなぜ彼女が、一日に一本しか電車はなく、コンビニもなく、夜になれば外灯すらないため懐中電灯がないと外を歩くこともできない田舎に貴重な夏休みを使って一人ぼっちでやってきたのか。理由は単純明快だ。

 そのものずばり、「親の都合」である。

「えっ!?おじいちゃん家に泊まりに行く!?夏休みの間、ずっと!?」

「あれ、言ってなかったっけ?」

「言ってなかったよ!」

 そもそもの発端は、食卓を囲んでいる最中に母親から飛び出した「おじいちゃんの家に行くんだから早く荷造りしなさいよ」という一言だった。当然のように、そんな話を聞いた覚えのない天音は首を傾げ、どういう意味かと聞き返す。そしてさも当然のように、天音の夏休みの予定が既に決定されていたことを知ったのだ。

「言ってなかったならごめんね、でももう決まったことだから」

「そんな突然………なんでそうなっちゃったの?」

「ほら、お母さんがお父さんの単身赴任先に会いに行こうと思って。でも治安が悪いから、天音を連れてくのは不安でしょ?それでお父さんに頼んだの」

 ちゃんと聞いてみれば理由はとても普通だった。天音の父はここ数年、少し治安の悪い国に単身赴任をしていて、天音も一年顔を見ていない。

 そんな父の生活を心配して、母が海外に行くのであればそれは止められるものではない。というより、天音の母の鶴の一声に逆らえる人なんて、家庭内どころか町内を探してもいないのだ。

「おじちゃんに会うのはすごく久しぶりだと思うけれど、天音のことはちゃんと頼んであるから心配しないでね。家まで送れないからちょっと心配だけど、もう中学生だし大丈夫かな?」

「うん、たぶん大丈夫」

 もう中学二年生で、ケータイだってもらっているのだ。調べながら電車を乗り継げばどんな場所にも行けるだろう(この時の天音はケータイが圏外である可能性はすっかり忘れていたけれど)。

「でもおじいちゃんって………ううんなんでもない」

 おじいちゃんに会うのはすごく久しぶり、というのはその通りで、最後に会ったのは天音が幼稚園の時だった。こんなに長い間会わなかった理由は、おじいちゃんの家がとんでもない田舎にあることに加え、おじいちゃんがとても個性的な性格をしているから、だったのだが。

 母が決めてしまった以上はしょうがない。こうして天音の単身夏休み宿泊計画は決定したのだ。


「見かけん子やなあ、どこの子や?」

「伊達天音です!」

 天音の祖父の暮らす村は、人口が三桁にも満たない小さな村だ。住んでいるのは平均五十歳くらいの人ばかり。村に住んでいる人は嘘偽りなく全員顔見知りだ。

 主な生業は農業と林業。観光する場所もないくらいの田舎なので、天音のように見覚えのない人間が村に入れば、気さくなおばあちゃんたちが訝しがって声をかけてくる………というのは想定内だったので、そんなに驚くことではない。

「ああ、雑貨屋の伊達さんか?」

「え、えーっと………?」

 雑貨屋の伊達さん。天音の祖父が雑貨屋を始めた記憶はない。この村は同じ苗字の人がたくさんいるから、別の伊達さんと勘違いされている可能性がある。

「久しぶりに村に来たから分からないんですけど、剣道場をやってる方の伊達です」

「なんだあ、剣道教室の伊達さんかあ。お孫さん?夏休み?」

「はい、夏休みの間はお世話になります」

 お母さんに口を酸っぱくして言われた通りの台詞を述べて、ぺこりと一礼すれば、農作業着のおばあちゃんはからからと元気よく笑った。

「なんも世話することないが、ゆっくりしてくとええ」

「ありがとうございます」

 これまた母に教えられた通り頭を下げて、おばあちゃんと別れて再び歩き始める。天音の住んでいた町よりも不便な村ではあるが、目に鮮やかな田んぼの緑も、すれ違う人のフレンドリーさも嫌いじゃない。

 むしろ、夏休みをエアコンの効いた部屋で自堕落に過ごすより、夏休みらしい夏休みが送れることを天音は楽しみにしていたのだ。

 ただ一つだけ懸念事項があるとすれば、それはおじいちゃんのことで。

「おじいちゃん!」

 『伊達』という表札がかけられた門の重厚な木の扉を開けながら、出せる限りの大声で叫ぶ。果たして家の奥まで聞こえているかどうかは謎のため、祖父の返事を待たずに屋敷の中に一歩入った。

 北と東と西を森に囲まれ、南には山がありその山を越えた先に海がある、そんな村の中で、一番山に近い場所にある塀で囲まれた家が、天音の祖父の家だ。

 話は少し変わるけれど、天音のおじいちゃんは優しい人だ。口うるさくもなく、かなりジェネレーションギャップのある天音の価値観を理解しようとしてくれる。会ったことはないけれど、電話で話す時の印象だけれど。

 だけれどそんな祖父にも一つだけ欠点があったりするのだ。

「じいちゃーん。天音だよー。」

 門構えが立派な外観の家の後ろには、いつ壊れてもおかしくないような古ぼけた道場がある。スーツケースをがらがらと引いて近付けば、そこから勢いよく竹刀を振る音が聞こえた。

「じいちゃん?道場にいるの?」

 道場の入り口にまわり、引き戸を開ける。そこには十年ぶりに会う祖父がなぜか柔道着を着て竹刀を振っていた。

「じいちゃん!」

 どれだけ集中していたのか、やっと天音の声に気が付いた祖父が、入口の方を向いてくしゃりとした笑顔を浮かべた。どれだけ古ぼけていたとしても、村唯一の剣道場の師範だ。しゃんと伸ばした背筋がすごく格好いい。

「じいちゃん、久しぶり!」

「おぉ、天音か。久しぶりだなぁ」

 破顔する祖父の顔は至ってどこにでもいる孫思いの祖父といった様子だ。

 だけれど柔道着で竹刀を振る六十歳の祖父が、すべて普通というわけではない。当然のことなのだけれど。

「やっと道場をついで、由緒ある伊達の名を復活させてくれるか!」

「いや、違うから」

「む………」

 秒速で否定すれば、おじいちゃんは残念そうな表情を浮かべた。あまりにも残念そうな顔だったから同情してしまいそうになるが、気がないことは気がないとはっきり言わなければいけない。

 —————そう、天音の祖父のたった一つの欠点はこれだ。

 天音にこの道場をつがせ、りっぱな武士であった先祖の名前を世に知らしめてやろうという夢、というか野望を、祖父はどうやら抱き続けている。

 幼稚園までは祖父の家に来るたびに道場で剣道の練習を見てもらい、「筋がいい」と褒めてもらうのは小さい天音にとって嬉しいことだった。だけどそのうち、おじいちゃんのとても外には言えないような夢に気付いてしまい、天音は有体に言ってしまえば少し引いたのだ。

 そんなこと、普通の女子である天音にできるはずはないじゃないか、と。そして当然のように、両親も祖父のそんな考えには否定的で。

 だから天音は十年間、祖父と疎遠になっていたのだ。

「やっぱりまだ諦めてなかったか………電話では言ってこないからもう大丈夫かと思ったんだけど………ダメかあ………」

「何をぶつぶつ言ってるんだ天音」

「なんでもないよ、おじいちゃん」

 隙あらば「道場を継がないか」と言ってくること以外は、優しい理想の祖父なのだ。こういったとんでもない言動は、天音が適度に流していくしかないだろう。少なくともこの夏休み中は。

「おじいちゃん、私は道場は継がないからね?」

「分かった分かった。でも夏休みの間はしっかり鍛えてやるから、期待してろよ!」

「なんでそうなるの!」

 いい笑顔で親指を立ててくるおじいちゃん。天音はその手をぴしゃりとたたいた。

「そんなつもりはないんだってば!」

 この村にはゲーセンもコンビニも、映画館もプールもない。あるのは森と山と川と田んぼと道場だ。同年代の友人もいないから、喋り相手は農作業帰りのおじいちゃんおばあちゃん。ケータイはほとんどの場所で圏外だから、やることもない。

 圧倒的に何もない村だし、おじいちゃんは人の話を聞かない。思ったよりも過酷な状況に、せっかくの夏休みを無駄にしたような気がしてきた。

 端的に言って、つまらない夏休みになりそうだと思っていたのだが、この時の天音はまだこの村のことを何も知らなかった。

 天音の知る常識を覆してしまうような不思議なことが、当たり前のようにこの村では受け入れられていて、自分もそんな非常識に触れていくことになるなんて、この時の天音には知る由もなかったのだ。

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