第三部:偽典世界仮説
第五章:カラスと塔/あるいは未来の味
僕と玲音は、山道を歩いていた。僕の不確かな記憶だけが、道標だった。バスを降りてから、携帯端末の電波はとっくに途絶えている。世界から切り離されたような、不思議な静寂が支配していた。
バス停の待合室では、埃をかぶったスピーカーから、掠れたラジオ放送が流れていた。感情を排した、平坦な女性アナウンサーの声だった。
『……本日正午、第三セクターにおける存在維持フィールドに軽微な出力低下が観測されました。物理法則の局所的な変動が予想されますが、市民生活への影響は限定的との見通しです。続いて、お天気です。明日の日本海側は、高気圧に覆われ、概ね晴れるでしょう……』
僕は、そのアナウンスに奇妙な違和感を覚えた。世界の構造に関わる重大なインシデントと、明日の天気が、全く同じ温度感で語られている。
この世界の住人は、そんな途方もない日常に、もう慣れてしまっているのだろうか。隣を見ると、玲音は、その放送に何の感慨もなさそうに、ただ前を見つめていた。
歩き始めてすぐに、僕たちは異様な光景に気づいた。道の脇や、木々の下に、数えきれないほどのカラスの死骸が転がっているのだ。外傷はない。まるで、空中で突然スイッチを切られたように、命の活動を停止している。
さらに奇妙なことに、何羽かのカラスは、地面に墜落すらしていなかった。羽ばたく途中の形のまま、まるで時間が凍り付いたかのように、空中に静止している。風に揺れることもなく、ただ、そこに在った。
「……存在の維持に失敗したんだ」
玲音が、空中のカラスを見上げながら静かに呟いた。
「どういうことだ?」
「この辺りの空間は、たぶん、世界の大きな記録(レコード)から切り離されて、不安定になってる。だから、存在を維持するための情報がうまく供給されなくて、システムの単純なものから順番に、エラーを起こして消えていく。レンダーキャッシュのエラーみたいなもの。カラスは、その最初の一つだったってこと」
彼女の言葉は、オカルトのようでありながら、奇妙な説得力を持っていた。この世界が、何らかの情報によって成り立っているのだとしたら。
そんなことを考えながら歩いていると、木々の切れ間に、それが見えた。コンクリート打ちっぱなしの、無機質な塔。かつて冷戦時代に、乱数放送を流していたという電波塔の残骸だ 。周囲には、役目を終えたソーラーパネルが墓標のように打ち捨てられている。過去の遺物と、未来の残骸の、奇妙なコントラスト。
僕の記憶の中にある、タカシと来たはずの場所。
重い鉄の扉は、鍵がかかっていなかった。中は驚くほど清潔で、生活に必要なものが一通り揃っていた。ヴィンテージものの冷蔵庫が、静かに唸っている 。
僕は、何かに引かれるようにその扉を開けた。中には、ガラス瓶のコカ・コーラが、整然と並んでいた。
僕は一本手に取った。製造年月日を見ると、「2025年10月26日」と印字されている。三ヶ月以上も未来の日付だ 。
僕はそれを飲んだ。まだ存在するはずのない味。未来からの記憶。甘く、金属的で、そしてひどく懐かしい味がした。この塔は、ただの電波塔ではない。この場所だけ、時間の流れが歪んでいる。
「この塔、たぶん、宇宙全体のシミュレーション結果を保存しておくための、巨大な情報バンクなんだと思う」玲音は、部屋の隅にある、地下へと続く螺旋階段を指差しながら言った。
「そして、その演算処理の過程で、未来の情報が『漏洩』している。量子コンピュータが、重ね合わせの状態にある未来の確率の中から、最も可能性の高いものを弾き出して、それが時々、現実世界にバグとして物質化する。このコーラは、その漏洩したデータが、確率の海から偶然、物質化したもの」
「じゃあ、僕たちは……」
「ええ」と玲音は頷いた。「僕たちは今、この世界の、ソースコードが保管されている場所に立っているんです。そして、その本体は、きっとこの下」
彼女の視線の先にある、暗く、冷たい螺旋階段。そこから、まるで巨大な機械の心臓の鼓動のような、低い唸りが聞こえてくるような気がした。
僕たちの旅の、本当の始まりだった。
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