自ら運命を掴みにいった彼女

I田㊙/あいだまるひ

 黒猫ルーチェの冒険

 彼女がいなくなったのは、もう一月半も前のことになるだろうか。九月の下旬か十月の頭頃のことだったと思う。


 彼女は、他にも数匹飼われていた猫たちと折り合いが合わず、鍵開けのうまい猫が鍵を開けた瞬間を見計らっては抜けだし、一週間も二週間も帰ってこないような女の子だった。逃げ出さないように対策をしてはいたが、その家にはおばあさんもいて、おばあさんはそれを忘れてしまうことがしばしばあった。

 今回もまた、これまでと同じように脱走の末に帰ってくるだろうと思われてはいた。

 なにせ彼女は、脱走して一週間二週間後に帰ってきた時には、なぜか毛艶も良くなり、特に飢えておらず、どう見てもであったから。


 黒々とした艶のある美しい毛並、金色の瞳の中にある深淵のような、心の奥底まで見透かすかに思える瞳孔。他の猫よりも一回り小さい体。

 しなやかな体を持つ彼女の名は、ルーチェといった。



 ルーチェが脱走して数週間、飼い主であるバーのオーナー里井と、その妻琴子ことこは、毎日のように彼女を捜しに出ては、ルーチェが見つからないことに落胆していた。


「でもね、もしかしたら前のこともあるし、どこかで飼われてるかもしれへんのよね」


 そうぽつりと琴子は言った。 

 

 居心地の良い薄暗いバーで、マスターの里井と店員でもある琴子と雑談をする浩汰こうた頼子よりこは、アードベックとカリビアンコーヒーを飲みながら、もう何日も帰っていないルーチェの話を聞いていた。

 最初こそ、今日で三日目、今日で六日目などと言っていたが、流石に十日を過ぎた頃からは、そう茶化してもいられなくなる。 


「そうですよね、野良猫を家猫にするときって、家の中に入ってきたらそのまま軟禁するパターンが多いですし」 


 夫の浩汰がアレルギーの為、猫を飼いたい気持ちだけが募っている頼子がそう言う。猫は嫌いではないが自分のアレルギーの為猫を飼えないと言うしかない浩汰。この二人がルーチェの動向を気にするのも仕方のないことだった。


「探すのは続けるけど、もしそのお宅で大切にされてるんやったら、譲ろうと思ってるんよ。あの子、いっつも他の子に遠慮して過ごしてるのが分かってたから」


 例えば、彼女が琴子のそばで寝ている時に他の猫が来ると、そこからすっと離れて別の場所へ移動する。ご飯は他の猫と一緒には食べない。といったいくつかのつつましいエピソードを、琴子は話した。


 だから、一匹だけで大切に飼ってもらえる家があるのなら、そちらの方がルーチェにとっては良いのではないか、と。

 

 保健所へ問い合わせをしたり、自分たちの足で名前を呼びながら付近を捜しに出たりと、里井と琴子の捜索は続いたが、とうとう十月の中旬まで、彼女が戻ってくることも見つかることもなかった。

 


 そして、転機となる出来事は、地域密着型地方紙に捜索の為の原稿を申し込みに行ったその日に訪れた。


「知らんうちに車に乗り込んどって、ドア開けたら一目散いちもくさんに逃げて行ったらしいわ」 

 そこにいた地区長は、黒猫が隣の市のゴルフ場へと移動するに至った経緯を教えてくれた。


 バーの近くに住んでいるその男性は、とある市のゴルフ場へと向かう為、ドアを開け放し道具を積み込んでいた。そしていくつかの道具を積み終えた後ドアを閉めた。いつもそうするように。

 その時にはすでに、じっと車の中にいたルーチェ。それに気づかず運転する男性。

 ゴルフ場に到着して、ドアを開き道具を降ろそうとした瞬間に、その猫は走って逃げて行ってしまった。

 男性に罪はない。


 ――ほんの数分間でその車に、猫が潜り込んでいるとは……誰が思うであろうか。 



 事の顛末てんまつは、こういうことだったらしい。

 てっきり近隣にいると思われていたルーチェは、数奇な巡り合わせで、恐らく隣の市に行ってしまっていたのだった。


 里井はその話を聞いた瞬間にくっと眉を吊り上げ、「いくで!」と琴子に声を掛け、車で隣の市のゴルフ場へと走った。

 道すがら、ゴルフ場の近くの店に「黒猫を知りませんか?」と尋ねると、大抵は「クロネコヤマトを探している」と思うらしく、道を教えてくれる親切な人もいた。黒い猫であると説明し直して聞き直すが、……誰も見てはいなかった。


 はやる気持ちを抑えながら着いたゴルフ場。

 琴子は受付のカウンターへ、そして里井は駐車場の中を「ルーチェ」と名前を呼びながら捜し歩いた。

 数分周りを捜して、里井は駐車場にはルーチェがいないことを確認してから、琴子が状況説明をしているカウンターへと移動した。


 琴子は、もうすでに理由を説明し終え、そこに立っていた。

 ゴルフ場の中を探す許可を貰いたいと思っていた二人の前に現れた、自分たちの娘と同じくらいの年齢の、20代の女性。

 彼女は沈痛な面持ちで歩いてきた。

 ……里井も琴子も、その様子に何か感じるものがあった。


「……人懐っこい子やなって、思ってたんです」


 彼女は、淋しそうな、決意したような顔でそう言った。

 シフトを終えた自分のそばに、黒猫が近付いてきた。その猫の人懐っこい様子から、どこかで飼われている猫ではないかと薄々感付いてはいた。けれど、猫を飼いたいと思っていた時に現れたその猫を、放っておくこともできなかった。その黒猫は、車に乗せられる時にも嫌がらず、利口だったと。

 彼女は「この猫ですか」と二人にスマートフォンを見せた。 


 ――ルーチェは、とても幸せな様子で飼われていた。

 

 何枚も何枚も、アップ、離れた場所から撮った写真、彼女と映っている写真、おばあちゃんと映っている写真など……。直近のフォトデータ一覧画面全てのサムネイルに、ルーチェの写真が並んでいる。

 里井と琴子はその画像を見て、「彼女は、ここにいる方が幸せなのだな」とそう感じてしまった。

 何度も脱走して、一週間も二週間も帰ってこなかったルーチェは。

 この場所に辿り付く為に、あの車に乗り込んだのだと。


 もう、ルーチェを返す気になってしまっている彼女に


「ルーチェは、良ければそのままそちらで飼い続けて下さい」


 と、里井夫妻はそう言うしかなかった。




「あの写真見たら……。よう返してくれって、言えんかったわ」


 しきりにスマートフォンを気にしながら、里井は続けた。

 いつもの里井らしからぬ光景。

 常連がいる時は、割とくつろいだ様子で話をするマスターではあったが、スマートフォンを離さず、しきりに気にしている。

 琴子は時々厨房から出ては来るが、気が緩むと涙が出てきてしまうようで、その度に厨房へ下がっていた。琴子の涙に対して、我々は言葉がでず、見て見ぬふりをしするしかなかった。

 飼い猫が逃げてしまったが、良い人に拾われ遠い場所で幸せに暮らしている。

 それだけ見れば第三者には幸せに見えるかもしれないが、それは飼っていた側の気持ちを置き去りにした考え方でしかない。


「娘さんが、怒っとるらしい」


 桐谷は、気もそぞろなマスターの代わりに、後から来た浩汰と頼子にかいつまんで事情を説明してくれた。いつものように、もう数杯目のハミルトン151をロックで煽りながら、饒舌に。

 ルーチェが見つかり、ルーチェにとってよい環境で飼われていると分かったので譲った、という旨を里井は娘の恵利奈えりなに連絡していた。

 もともと、ルーチェは恵利奈が生まれて少し経ってから貰ってきた飼い猫だったし、恵利奈に一番懐いていた。しかし、現在大学生で就職してからも恐らく飼えないだろうと判断した恵利奈は、自分の実家に預けていたのだった。

 恵利奈に連絡を入れるのは当然のことだった……が。


「恵利奈、カンカンや。多分、今までにないくらい怒っとる。ラインしても返信が返ってこぉへんもん」


 独り言のように呟く里井。

 彼女の言い分としてはこうだった。 

 私が今飼えないし、就職先に連れて行くこともできないとは思ってる。けど、譲る前に一言連絡をくれても良かったんじゃないの?

 私の気持ちを完全に無視して、勝手に譲るってどういうこと? そんなんおかしいやん、見つかったんやったらルーチェ連れて帰って来てよ! と。


 勝手に譲ったことに対する憤りというよりは、自分にも決める前に連絡が欲しかったということの方に重きを置いて怒っているように感じられたと、里井は言った。


 だが、その場にいたのはいい年をした大人ばかり。

 良くも悪くも、相手をおもんぱかる、色々な角度から見て最良の手を打つ、といったということを知った大人たちだ。

 大切なのはルーチェの気持ちであり、その居場所を気に入っているのに、脱走ばかりする場所に無理やり連れ戻すのはどうなのか……と、そういったの考え方になるのは仕方のないことだった。

 自分の気持ちより、ルーチェの気持ちだろう。

 本当であれば連れて帰ろうとしていた二人の気持ちを、覆してしまうほどの溺愛ぶり、懐きぶりなのだから、と。


 まだ20代前半の若い彼女の意見は、余りにも幼く響いた。


 しかし、そうはいっても恵利奈の気持ちを無視したことには変わりはなく、結局ルーチェは一度返してもらうという話で落ち着いた。


 ――我々いい大人が、ルーチェの気持ちにでいい気になっていたと、割とすぐに思い知らされることになるのだが。


 


 それから更に数日経ち、ルーチェは里井家へ戻ることになった……のではなく恵利奈の部屋へと住処すみかを移すこととなった。


「相手さんには申し訳ないけど、恵利奈が自分が飼うって言うてるし……。僕もまだまだ、娘に甘いと言われるかもしれないですが」


 と、マスターは少し照れながら言った。

 ルーチェが現在いる人の家には、お礼と謝罪をして、彼女はまた移動させられた。あちらへこちらへと、翻弄されているルーチェ。


「ルーチェがうち来た時ね、聞いてるのと違ってめっちゃ威嚇してきてたんですわ」

「聞いてたのと違って?」

「最初、大人しくて人懐っこい子やでって聞いてたのに、僕らを前にしたらシャーシャー言うて逃げ回っててね。どこが人懐っこいねん! って」


 里井は苦笑する。


「僕にはね、最後まで懐かへんかったんですよ。琴子にはくっついたりしとったみたいですけど」


 そんな態度であったルーチェの為に、里井は八方手を尽くして探し続けていたのだという。


「僕はね、ホンマは……やっぱりあのゴルフ場の女の子の家におる方がええんちゃうかって思ってはいたんです。色々猫の為のもん全部用意してくれてて。写真も幸せそうやったし。でもねえ……」


 里井は、ゴルフ場の女の子からルーチェを引き取った後、その足で恵利奈の部屋に向かった。車で二時間程度の距離を走って。

 恵利奈の部屋に、ルーチェを降ろすと、動じるとこもなくルーチェは部屋の真ん中へと歩いて行った。そこから周囲を伺うようにキョロキョロと見渡したり、恵利奈の服のにおいを嗅いだり、ベットに乗ったりして部屋をくまなく調べ尽くす。

 その光景を見つめる里井夫妻。


 すると、彼女は……おもむろに里井に近付き肩に乗り、おでこをすりすりと顔にこすり付けたのだった。

 懐いていなかったはずの里井に。


 ――まるで、連れてきてくれてありがとうと、言うように。


「あんなこと、一回もされたことなかったんですよ。僕びっくりしてねぇ」


 大人だからこそ、見えることもあるが、大人だから見えなくなってしまう。

 この判断が正しかったのか間違っていたのか、ルーチェの本心がどこにあったのか、我々には知る術はない。

 その結果、大人の都合や自分の都合で振り回してしまうことになった。


 偶然に翻弄されたルーチェの話は、これでおしまい。



 

 ――けれど、ふと思う。

 彼女が本当に行きたかった場所は、最初から恵利奈のところだったのでは、と。

 里井夫妻も、偶然隣の市のゴルフ場に連れて行ってしまった男性も、ゴルフ場の女の子も、そして恵利奈も。


 もしかしたら、ルーチェの肉球の上で踊らされたのはこちらの方なのではないか、と。 

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