さくらばわくらば

宇苅つい

第1話 楽器

 影の話をしよう。

 ある時から唐突に、わたしの影がものを攫うようになった。

 攫ったとて、影というのは元々真っ黒くろの扁平太であるから、見た目に一向変りはない。そのくせ、ものを含んだ影というのは厄介なもので、わたしの歩みに合わせて、「ズレズレ」やら「ガリガリ」やら常にはない擦過音をたててくれる。それで、「むむ。こやつ、またやりおったな」というのが分かるのである。


 最初に影が攫ったのは、金色の鈴の付いた赤い小花模様のがま口であった。ふと気づけば、わたしの歩くたびに、背後からチロリチロリと鈴の音が響く。すぐ真後ろでものの這いずるがごとき貧相極まりない音がする。その上、なんだか歩きにくい。後ろ髪ならぬ後ろ足を引かれるとでもというのか、前に繰り出そうとする足がもたつく。小さな砂袋の付いた紐を足首に縛り付けてみた。もちろんそういう経験はないが、例えるならばそんな心持ちなのであった。そうして、その紐の長さはどうやら時間の経過と共に伸縮しているようなのである。日中はすぐ踵の裏にへばりついているようだったのに、日暮れと共に間延びして、今は鈴の音も注意しないと聞き取れぬ。わたしが歩みを止めれば聞こえず、試しに小走ってみるとやはり鳴る。


 奇異に思えて、その日出掛けた用向きも早々に家路を急いだ。早足になるとチロリロいう鈴の音が心持ち大きくなる。見えない鈴が追ってくる。日の長い夏の日の町中のこととて、怖いとは微塵も思わなかったが、怪訝この上ないことには変わりなかった。目に見えぬ仔猫が後を追ってくるような……。

「ダメだ。振り切れない」そう悟って、家屋の塀にもたれてふぅふぅ息を整えていたら、わたしの影の中から浮かび上がるように赤いがま口が覗いたのである。拾い上げると春子さんのがま口だった。わたしはその模様を「とてもかわいい」と思っていたのだ。春子さんに返しに行かねば。理由の取り繕いはさてどうしたものだろうと途方に暮れた。


 この現象はその後もたまにわたしの日々をよぎるようにやってくる。悪い影だ。悪戯の過ぎる子どもみたい。

 金だらいを影が含んだ時が一等困った。ガラン、ガラランと大騒動だ。

 影は一旦ものを攫うと、それに飽きるまで放してくれない。

「あら」

 と、母が笑った。

「あなた楽器になったみたいね」 と笑うのだった。

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