2-9 偶発的試練
疾走する。
強い風が吹くこの草原は、完全にフェンリットのフィールドだった。
森の中に入ればまた変わるが、彼は風器の満ち溢れるこの空間において風と同等――いや、それ以上に速い。
風の補助術式に身を任せ、地面を滑るように進んでいく。
魔物とは一切遭遇しなかった。
おそらく、どこかで魔王に統率されているのだろう。
そうとしか考えられないほど、町の外の世界は怖ろしい静けさに包まれていた。
森へと入る。
嫌な気配というものに近づいていく。
同時に、場の瘴器濃度が一気に濃くなった。
息苦しささえ覚える、いつも以上に薄暗く感じる空間を駆け抜ける。
《フェンリット、私はどうすればいいですか?》
シアの声が頭の中に響く。
フェンリットは邪魔な木の枝を払いのけながら、
「ああ。
《ですがあの黒ずくめの力は未知数です》
「分かっている」
《……私のことは気にしなくても大丈夫です。守護者として、あなたを守ることが役目なのですから》
役目とは言うが、誰かに命じられたものでもなんでもない。
彼女が自分から名乗り出ているだけの代物だ。
切り札にはシアへの負荷が伴う。彼女へと苦しい思いをさせなくて済むなら、それに越したことはない。
しかし考えていることはシアも同じ。
負けて死んでしまえば元も子もないのはフェンリットも分かっているが、最後の手段はあくまで最後の手段。出来れば使わずに終わらせたい。
そして。
「よぉ」
聞き覚えのある声が届いた。
「来ると思っていた」
フェンリットは足を止める。
そこは森の中の開けた空間だった。
厳密にいうならば、ごく普通の盛だった場所を何かが無理やりこじ開けた跡地、と表現すればいいだろうか。
根元から折れた木々が辺りに散乱し、強引に視界を作ったような場所だった。
そこにあの黒ずくめの男が立っている。
装いは変わらない。
少しボロくなった黒い外套を身にまとい、深くかぶったフードで顔を隠している。
身長はフェンリットよりも高く、布地を押し上げるように浮き出る輪郭から、体格がいいのは一目瞭然。
その、傍らには――
「――アマーリエさん」
意識を失った濡れ羽色の髪をした女性、アマーリエさんの姿があった。
身体はボロボロだったが、まだ生きている。浅い呼吸で胸を上下させているのがフェンリットの位置からも分かった。
黒ずくめは「あぁ」と声を出し、アマーリエをちらと見る。
「この女はやはりお前の知り合いだったか。あの日、ドラゴニュートを町へ送り込んだあの時、話しているのを見たからな」
「……あなたの目的は何ですか」
冷静に、そして単刀直入に聞きたかったことを尋ねる。
黒ずくめは視線をフェンリットの方へ向けてから言った。
「そうだな……最初はただの『
「……?」
「正直な話、明確な目的は分からなくなった。だから俺は、俺の思うようにやらせてもらおう」
黒ずくめはスラスラと話していく。
だが未だに、フェンリットはその言葉の真意を理解することは出来ない。
「これは試練。白銀の髪に碧眼を持ち、風と雷の術式を扱う小柄な
黒ずくめが列挙した特徴は全てフェンリットに合致する。だからこそ、この男はフェンリットを何者かと人違いしたのだろう。
人違い。
そうに違いない。
フェンリットは
何かも分からない何かになるつもりなんて無かった。
「勘違いでしょう。一切の身に覚えがありません」
「……ああ、なるほど。いや、そうか」
黒ずくめは少し悩んだ素振りを見せた後、勝手に納得したように頷く。
そして、嗤った。
「それを確認するための試練だ。お前の言葉など、求めていない」
横暴な言葉。
リーゼやアリザを傷つけ、アマーリエを傷つけ、フェンリットをここへと呼び寄せた理由は、そんな下らないことだった。
「そうですか。つまりあなたは、ただ僕の敵でしかない。そういうことでいいんですね?」
「それで構わない。もしもお前が
「――僕がその
男はフードの奥の口元に笑みを浮かべるだけで、何も答えなかった。どこまでも自分本位に、問いかけに問いかけを重ねる。
「貴様、名前は?」
名乗る必要はなかった。
フェンリットは冷ややかな目を黒ずくめへと向けて返す。
「答える筋合いはない」
静かに、フェンリットは身体へと力を込めた。
命をかけた戦いがこれから始まる。
黒ずくめは「そうか」と呟くと、今まで外したことのなかったフードを取って素顔をさらした。
黒い髪に黒く淀んだ髪、頬に入る火傷のような跡、鋭い目つきをした黒ずくめは宣言する。
「俺はノルマンド・レクエレム。【六道術師】が一人、
不穏な言葉だった。
敵が黒ずくめだけではないことなど、フェンリットも分かっていた。そこかしこには魔物の群れがいるだろうし、こちらの戦闘中に乱入してくる可能性も考慮していた。
しかし黒ずくめの物言いからは、別のニュアンスを感じ取れてしまった。
まさか。
まさか正面に立つ黒ずくめの、そのさらに向こう側から感じる、この忌々しいまでに巨大で凶悪で凶器的な気配が関係しているとでもいうのか?
――そんなフェンリットの思考は、呆気なく肯定された。
彼の表情から考えを読み取った黒ずくめが、自慢するかのように両手を広げた。
「そうだ」
重々しい音と振動が足の裏から通じてくる。足音。それによる地響き。間違いない。禍々しいほどの存在感が、ゆっくりとこちらへと近づいてくる。
やがて現れたのは、漆黒の巨体だった。鬼の様な隻眼の形相。天に向かって生え、口から飛び出る鋭利な牙。見る者を威圧する鋭い眼光。それに比べて身体の方はダボダボで、一見ただの肥満にも見える体つきだが、間違いない。あの奥には、矮小な人間の身体くらい握り潰すことが出来る筋肉が詰まっているだろう。
魔王。
歩く天災が、黒ずくめの後ろで立ち止まった。
理解できない上ずった声を上げたのはフェンリットだった。
「な……にが……?」
彼は目の前の現象を信じられず、冷静さを失う。
起きてはいけないことが起こっていた。
なぜあの魔王は、
魔王には殺人衝動があり、細くした人間を殺そうとする。つまりこの状況で、真っ先に、手を伸ばせば攻撃できる位置に立つあの男を叩き潰していなければおかしいのだ。
だが。
誰もが知る一般常識は、無情にも作用しない。
「驚いたか?」
フェンリットの動揺を見て黒ずくめはニヤリと笑う。
「この魔王は俺を攻撃しない。俺を殺そうとしない。言ってしまえば、俺の支配下にある状況だ」
「なんで……どうやって!?」
「説明すると思うか? ああ、町を襲わせた
声が出ないフェンリットを前に、ノルマンドは言葉を重ねる。
「だがお前が現れた。ドラゴニュートを容易く殺してしまいそうなお前が、だ」
「……、」
「だから俺が介入し、その邪魔をした。この女も案外やれる口だったからか、あっさりドラゴニュートはやられてしまったがな」
「あの時感じた気持ちの悪い感覚は……」
「あんな存在感、魔王以外にあり得んだろう」
つまりこの男は、魔王を支配下に置く何らかの力を持っていて。その対象である魔王が現れたのを察知し、戦いから姿を消したのだ。
そうなると、フェンリットの予想はほぼ確信に繋がってくる。ノルマンドが山道に倒れていた山賊たちを拷問にかけ、大量の瘴器を発生させて魔王の顕現を促した。
用意周到だった。
今でこそフェンリットの試練だと言ってはいるが、その前は本格的のイーレムを潰すつもりだったのだろう。
いや、その状況は尚も変わらない。
フェンリットへの試練に並行して、ノルマンドはイーレムを滅ぼすつもりだ。
――実験。
魔王を支配下に置き、それによって町一つを崩壊させるのを実験と呼称する。そこには何の罪もない人達が沢山いるはずだ。平和な毎日を静かに送っている人達が大勢いるだろう。それを、何のためかも分からない実験とやらでぶち壊す?
くるっている。
あたまがいたい。
いつかのひをおもいだす。
「……分かった、もういい。お前は敵。倒すべき僕の敵でしかない」
――ようはこの男を倒し、魔王を倒し、群れた魔物も殲滅すればいいのだろう?
それですべて解決するのなら――やってやるさ。
■
そして。
魔物の群れに警戒するイーレムの町に、一陣の黒い風が吹いた。
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