89. cry of justice

《柚葉市立病院 待合室》


 二十分後。紫堂を乗せる救急車に同乗してきた理里と珠飛亜は、沈鬱な表情で待合室の椅子に座っていた。


「……」


 紫堂は病院に到着して間もなく意識を取り戻した。しかし、救急車からストレッチャーで降ろされる際に彼が発した言葉は、理里たちに強い衝撃を与えた。


『俺は今まで何を……だめだ、思い出せない……』


「まさか、神々の仕事がこんなに早いなんて」


 薄ベージュ、リノリウムの床を眺めながら、珠飛亜がつぶやく。


「わたしたちがあの人に英雄や神々の存在を明かして、二十分も経ってなかったよね……それほど瞬時に、人間の記憶に干渉できるなんて」

「それが"神"ってことさ」


 理里は苦い顔でうなずいた。


「世界の改変、記憶の操作。どんなことでも一瞬でやっちまう……能力の限界があるのかどうかも分からない。それだけ強大なものを相手にしてるってことだな、俺たちは」

「……だとしたら、なんでその力をわたしたちに直接使わないんだろうね。神々は」


 目を伏せて珠飛亜がこぼすが、理里にもその問いの答えは分からなかった。


「さあ……なぜだろうな」


 そう、返すのが精一杯。


 確かに、以前からの疑問ではあった。その気になれば自然現象すら操ることができ、人々の記憶や現実の記録さえ改変が可能な神々が、なぜその力を直接怪原家に使わない? 誰にとがめられるわけでもないのに。


「俺たちは、自分たちで思っているよりずっと特別な存在……とか?」


 苦し紛れ。思いつきで言ってみると、


「ははっ。それはさすがに厨二すぎだよ」


 珠飛亜は膝を打って笑った。





《同日 十八時四十分頃――柚葉団地付近》


「テッちゃん」


 夕暮れ。

 紫堂の怒号を背に喫茶店を出た手塩の前に、桃色のツインテールの少女が立っていた。


「おや、麗華さん。どうしました」

「どうしたって、戦闘になるかもしれないから近くに控えとけって言ったのはテッちゃんでしょう。だからずっとここにいたのー」


 間延びした声で飄々と彼女は答える。いつも通り、いつもの通りに。


「そうでしたね。どうやら無駄足に終わってしまったようですが」

「だねー。でもよかったよ、夕方はバトる気分じゃないし」

「また貴方は……」


 相変わらずの気分屋思考に手塩は呆れる。自分の周りには、ほとほとこの類の人間が多くて困る。心なしか女性に多い気がするが……。


 無表情を崩さぬまま苛立ちを募らせていると、麗華の声のトーンがにわかに一段下がる。


「……辛い役目、任せちゃったね」



「……」



 手塩は何も答えなかった。ただ、彼女の方を向いて、一、二歩あゆみ寄り、


「……少し、胸を貸してもらえますか」


 とだけ言う。変わらぬ声で、無感情な瞳で。



「いいよ」



 麗華がうなずくと、手塩はその場にくずおれた。



「これで、よかったのだ……これが『正義』なのだ……」



 打って変わって、か細い声。震える声。超然とした機械のような彼とは別人のようなありさまで、手塩は麗華の胸にひたいを乗せた。


 そんな自らの"王"に、麗華は、


「……そうだね。あなたは何も間違ってない。あなたは、あなたのやるべきことをしたの。そこに"悪"なんて、"間違い"なんてないよ。

 だから……今しばらく、わたしの胸に抱かれて。我らが王よ」


 その縮れた茶髪を優しく撫でて、ささやくように言った。


 暗くなった空。街灯のともりはじめた道路を行き過ぎるトラックのハイビームが、ひとつになったふたりの影を長く伸ばし、やがて二人は暗闇につつまれた。






 決戦は何曜日? すぐそこまで迫っている。


 世界の存亡などいざ知らず、ただ自分たちの生存を願うバケモノと、自らを捨てて世界を救わんとする英雄たち。もつれ縺れた彼らの戦いには、ひとつの区切りが近づいている。


 正義はどちらか、悪はどちらか。『一般的』な解答はすでに見えていて、それでも譲れぬ戦いがある。


 どちらの正義に軍配上がるか、ヒラリヒラヒラ御照覧。

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