86. 誰かが忘れているかもしれない僕らに大切な00Xのこと

 団地を追い返されて数分後。折邑おりむら紫堂しどう怪原かいはら理里りさと珠飛亜すひあの姉弟は、近所の喫茶店の喫煙席に座っていた。


「すまんな、家内がかんしゃくを起こして。いつもはあんなじゃないんだが」

「いえ、お構いなく……」


 着席して早々、紫堂は胸ポケットから取り出した煙草をふかし始めた。米寿も近そうな女店主が折れた腰で注文を聞きに来たので、理里がメロンクリームソーダをふたつ頼むと、紫堂もアイスコーヒーを頼んだ。


(お姉ちゃんの好物、覚えてくれてるね。ポイント高いぞっ♡)


 左耳のささやきを黙殺して、理里はふたたび紫堂に目を向けた。


「それでその、娘さんについてなんですが……」

「ああ、俺は覚えてる。というより、最近思い出したんだがな」

「思い出した?」

「ああ。四日前の晩、突然な」


 紫堂の説明は詳細だった。四日前の晩、ベランダで煙草を吸う習慣をつけた理由を考えていると、急に頭痛に襲われた。その後、元は紫苑の部屋だった空き部屋を見て、娘の記憶を取り戻したのだという。


「ただ、俺があの部屋で記憶を取り戻せたのは、娘との思い出がそこにしか無かったからだ、と俺は推測している」

「と、言いますと」

「家内はまだ、記憶が戻っていないんだ。あいつは俺よりもはるかに、紫苑との思い出が多かったはずだ……だから、家の中程度の記憶では刺激にならないんだろう。俺はあの場所以外、娘との思い出は無かったからな……皮肉なもんだ」


 紫堂はぶっきらぼうに言って、窓の外を眺めた。


「……」

「おっといけねえ、しんみりした話は無しだな。それで? 君たちは紫苑の同級生だったな」

「ええ、学校で紫苑さんのことを覚えているのは僕たちだけみたいで」


 理里は、学級名簿や在籍記録の情報をあえて出さなかった。紫堂が一般人である以上、超常的な力がかかわっていることは明かせない。


「……ふむ。なぜ、君たちだけなんだろうな」


 そう言うと紫堂は黙りこみ、燃えた煙草の先を灰皿に落とした。


「なぜ、って……」


 そんなことは、明白だ。


 彼女の消滅以前に起きたできごとは? そう、柚葉市の凍結。あの大事件は、神々の手によって「無かった」ことにされた。理里たち怪原家と英雄たち以外、誰一人あのできごとを覚えていない(手塩に確認したわけではないが、おそらく覚えているだろう)。裏を返せば、彼らだけが凍結事件を記憶していることになる。

 同じように、怪原家の面々は折邑紫苑を記憶している。厳密に言えば、直接の面識がある理里・珠飛亜・希瑠の三人がだ。これが意味するところは何か?


(――彼女の消滅は、柚葉市の修復を行ったのと同じ存在による可能性が高い)


 すなわちオリュンポスの神々によって。

 自らが超常の存在である怪原家の面々から、超常の事件の記憶を消す必要性は全くない。神々はコンピューターではないので、「この領域内の生物すべての記憶を消す」などという芸当はできない。すべての対象を個別に認識し、ひとつひとつその記憶を消していかなければならない。無駄を嫌う神々にとって、必要性のない作業は、それが瞬時に可能なことでさえ面倒なのだ……恵奈がそう言っていた。


(だが……そうだとしても、折邑さんを消す理由がない)


 そう、問題はそこだ。


 なぜ折邑紫苑は神々に消されなければならなかった? ただ少し派手なだけの、気の強い少女が。彼女が、神々の修復の力が及ばない特異点のような存在だったとか? あるいは……


「……!」

「何か気付いたのか?」


 上目遣いを向ける紫堂に、理里は平静を装って問うてみる。


「いや、まったく。……そういえば、紫苑さんのあの髪って、染めてるんですよね? すごい派手ですよね……」

「いや、あれは生まれつきだ」

「本当ですか!?」


 あからさまに理里が驚くと、紫堂は戸惑いつつ説明してくれた。


「ああ、詳しいことは分からんがな。突然変異だとか医者は言ってたぞ。研究のネタにしたがってたが、断ったよ」


 あごひげを触りながら、紫堂は恨めしそうに右上を見た。娘をモルモットにされかけた記憶がよみがえったのだろうか。


「思えば、酷い父親だった……いなくなってみてようやく分かったよ。俺は娘を愛していた。大義のためとうそぶいて、普段は遠ざけておきながら……消えた途端に、心に穴が空いたようだ」


 ここでないどこかを眺めていた目を、紫堂はふたたび理里に向けた。


「俺はどうしても娘を救いたい。改めてどうか、協力してもらえないだろうか」


 そう言って彼は頭を下げた。


「あ、頭を上げてください。むしろ協力をお願いしたいのは僕たちで……」


 そう彼を制していた理里の中に、ふと疑念が生まれた。


(……この人に、真実を隠していていいのだろうか)


 すなわち、神々の存在を、理里たちの正体を。

 この男は、真に娘を見つけ出したいと願っている。もう一度娘に会いたいと願っている。このまま超常の存在を、そして自分たちの正体を彼に隠し続けることは、その真摯な思いを裏切ることなのではないか。


「折邑さん、もちろん僕たちは協力します。というか、させてもらいたいです。それはそれとして……もうひとりこの場に呼びたい人がいるんですが、構いませんか?」


「? ああ……」

「りーくん、誰を呼ぶの?」


 不穏な空気を悟った珠飛亜が問うてくる。そんな姉に、理里は告げた。


「珠飛亜。手塩先輩を、この場に呼んでくれ」

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