57. シュガークィーンとビターマザー


(……気付かれた!)


 上空から迫り来る籠愛の気配を、気絶した麗華を運ぶ恵奈も察していた。


(戦闘に入るのは、この子を安全な場所に運んでからと思っていたけど……やはり、そうはいかないわね)


 低空、家々のすれすれを飛びながら恵奈は後方を睨む。


(……やっぱり、この子を拾ったのは失敗だったかしら……)


 そう思いつつ、恵奈は数分前のことを思い出していた。





 

《少し前、柚葉山麓公園》


「おかしいわね……確かこの辺り、だったのだけど」


 籠愛の墜落を見届けた恵奈は、その死体を確認するため、この公園に降りてきていた。


 柚葉山麓公園の敷地は広い。柚葉市の北部に広がる山脈、その山肌沿いに造られた領域は大きく三つに分けられる。ひとつはふもと、草野球ができる程度の広さの『グラウンドエリア』。ひとつは中央部、ブランコやローラー滑り台のある『遊具エリア』。そして最後に北部、遊具もなく舗装もされていない『山エリア』である。


 籠愛はおそらく、このうち『山エリア』に落下したと思われる。敵たる彼の死亡を確認するまでは、おちおち綺羅の捜索もできない。


 だが……その籠愛のむくろが、なぜか見つからない。凍った木々の上部には、彼が落下した際にできたと思われる大穴が空いているのに。


「熊にでも持っていかれたのかしら? ……いや、こんな人里までは下りてこないでしょうし」


 顎に手を当てて恵奈はうなる。ずるずると蛇の下半身で氷の上を這い進んでいると――


 見つけた。


「……あら」


 誰かが、ひときわ太いくすのきの陰に倒れている。下着が見えそうなほど短いスカートと、焦茶こげちゃいろのローファー……籠愛ではない。


 そっと木の前まで進み、その裏側を覗いてみると、彼女の全容が露わになった。


「う、う……」


 ところどころ破れた白いブラウス、木屑きくずが刺さった肌……そして、鮮やかなピンクのツインテール。弱った彼女は、息も絶え絶えに、凍った地面を這っていた。死にかけの蜘蛛さながらに。


往魔おうま麗華れいかちゃん……だったかしら。今は、英雄の立場なのだろうけど」


 恵奈は瞳に殺気を宿し、冷酷な声でその名を呼んだ。


「……っ!? あ、あんた、どうしてここに……」

「それはこちらのセリフだけれど……私にとってはラッキーね。誰にやられたのか知らないけど、ここまで弱っている獲物は狩らずにいられないわ」


 べろり、恵奈は二つに割れた舌で頬を舐める。

 だが……麗華の次の言葉に、彼女は動きを止めた。


「ま、待って……! あたしたちは今、同盟関係にあるんだよ? その相手を、勝手に、殺しちゃっていいの……?」

「……はい?」


 耳を疑う恵奈。


 訝し気な蛇女に対し、麗華は今にも事切れそうなかすれ声で説明した。怪原理里と手塩御雷によって一時的な停戦協定が結ばれ、今は英雄も怪原家も、綺羅を鎮静化させるため動いていることを。


「……ふうん、なるほどねえ」


 詳細を聞いた恵奈の顔からは、しかしいまだに疑念が消えていない。


「……そりゃ、信じてもらえなきゃどうしようもないけどさあ? ほんとのほんと、まぎれもない事実なのぉー」


 憔悴しょうすい、意識を保つのがやっとの様相でも、麗華は飄々とした態度を崩さない。


「……で、あんたは、なんでここに来たわけぇ? おばさん」

「……人生二周目のあなたに言われたくないけどね」


 苦瓜ゴーヤを1kg食った後のような表情で、恵奈は首の骨を鳴らした。


「ごっめんなさぁーい……ほら、続けて?」

「……ベレロフォンの死体を確認しに来たの。まさか、同盟が組まれたなんて聞いていなかったから……でも、あの子も構わず攻撃してきたわよ」


 『彼』の名が出た途端、仰向けに寝直した麗華の眉が動いた。


「……あんた、まさかその名前で彼のこと呼んでないよね」

「呼んだわ? それが何か?」


 白白しい顔で恵奈は首を傾げる。


 瞬間、麗華の顔が怒りに歪んだ。


「あんたねえっ……っ……!」


 しかし、起き上がりかけた拍子に倒れる。氷の上に立てようとした肘は、藁のようにくずおれた。


「……無理しない方がいいんじゃない? ほら、あの薬……ネクタルだったかしら。飲まないの?」

「……うっさい……あれはもっと大事な時に、とっとくの……。」


 麗華の語勢は強い。が、その顔は見る間に血の気が失われていく。


「…………はあ。仕方ないわね」


 ずるずると、恵奈は麗華に歩み寄った。否、這い寄った。


「っ、寄んな! 何する気!?」

「ネクタル、持っているのでしょう? 私たち怪物と違って、人間は寝てるだけじゃ傷は治らない。今こそ、使うべき時なのではなくて?」

「くっ……」


 麗華も、自分の状態は分かっていたらしい。素直に身体の力を抜き、だらりと氷上に寝転がった。


「あんた、人がいいんだね」

「部分的にね。それと、私は人じゃないわよ。……薬はどこ?」


 蛇の身体をぐにゃりと曲げ、身をかがめて、恵奈は麗華に顔を寄せた。すると……麗華は、真っ赤なブラジャーを指さした。


「ここ……右と左に、2

「あなたねえ……」


 呆れた顔で、恵奈は麗華の身体を横向きにし。ショッキングな赤紫の下着の金具を外す。


「男泣かせな子ね。うちには絶対お嫁に来てほしくないわ」

「はは、安心してよ。おたくの息子さん方は守備範囲外だからね」


 からころと笑う麗華。恵奈は苦笑し、外した麗華のブラから、薬を1本取り出した。


「ほら、飲みなさい」

「ん……」


 どぎつい真っ赤な唇に、瓶が触れる。みどりの液体は、ゆっくりと口内に入り、麗華の喉はなまめかしく動いた。


「はあ……ありがと」


 少し楽になった表情で、麗華は息をついた。


「ついでにもう一つ……あんたに、頼んでいいかな」

「……何?」


 わずかに穏やかになった顔で、恵奈が問う。

 そんな彼女の肩を――にわかに神妙な面持ちとなった麗華が掴んだ。


「……籠愛ローちゃんを……ヒッポノオスを、止めて」

「……? どういう意味?」


 恵奈がいぶかると、麗華は畳みかけるように詰め寄った。


「裏切ったの……あの子、わたしたちを。もしかしたら、キマイラの暴走を悪化させるつもりかもしれない」

「……なんですって」


 その言葉を聞き、恵奈もまた顔をしかめた。


「おねがい……あの人に、これ以上罪を重ねさせないで。テセウスや、あなたの家族と協力して……どんな手を使ってもいいから、あの人を、止めて」


 麗華の表情はいつになく真剣だった。内臓や背骨の傷に直接塗りこまなかったためまだ薬が効いておらず、血の気の無い顔ながら、その眼には真なる『意志』の光が灯っていた。


「……ええ。わかったわ。だから、あなたは少し休みなさい」


 恵奈が答えると、麗華の口元が安堵にほころんだ。


「……ありが……とう……」


 そして。恵奈の肩を握っていた両手から、力が抜けた。


「……!? ちょっと!?」


 倒れかけた麗華を、恵奈は慌てて支える。だが、すでに彼女の意識は無いようだった。


「……面倒なことになったわね」


 恵奈の口振りはけだるげだった。が、彼女の右手は、麗華のうなだれた左手を確かに握っていた。

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