56. 惨悶伍燦鬼離

「絶景かな、絶景哉」


 この国の名に聞こえた大泥棒の台詞に、そんなものがあったような。だが、籠愛が空中から見下ろす景色は、およそそれとは程遠い。

 人も、建物も、全てが氷に覆われた柚葉市。そしてその中心で、何かを探し求めるように闊歩する、巨大な『青い炎』の獅子。それはまるでこの世の終焉、ともすれば彼が見た魔神の襲来にも匹敵するやも知れぬ地獄。

 だが、彼はそれを『絶景』と称した。それは、今の彼には、この光景が斯様かように見えていた……否、そのようにしか見えていなかったから。


蒼炎以地コキュートス・涌紅蓮ラピスラズリ……」


 それが、かの混沌キマイラの異能の名であったか。まさに、まさに大地に湧現した紅蓮地獄のようだ、この有様は。


「……くはは。くっはは、くっははははははははははははは!!!!」


 籠愛はわらう。狂ったように、嗤う。


「破壊とは! 破滅とは! これほどまでに心地良いものか!! ああ、魔神テュフォーンの衝動も少しはおもんばかれよう……これほどまでに、爽快なものだったとはなぁ!!!!」


 籠愛は嗤う。それが、己が直接もたらした破壊ではなかろうとも。


 前世においてキマイラ (=綺羅)を殺した籠愛は、綺羅にとって最大の恐怖の対象である。能力を封印している綺羅の、自制心を上回るほどの。


 つまり、綺羅は籠愛に出会ったから暴走した。この現状を引き起こした張本人は、籠愛だ。だが、今、彼はそのことを心地良く感じていた。自分を虐げた世界に、人間に、このような形で復讐できたことが。


「……だが、まだだ。まだ足りない」


 そう、足りない。この街などあくまで序章に過ぎない。


 キマイラがさらに暴走すれば、この国も、この星でさえ、総てを氷の下に幽閉することができるだろう。さらには、かの神々の国オリンポスでさえ滅ぼすことも可能なはずだ。それが籠愛の復讐だ。二度と自分のような悲劇を起こさせないために、人間を、世界を滅ぼす――そして、自分を悲惨な目に遭わせた世界に、復讐するのだ。


「そのためには……そう」


 キマイラの暴走を再び引き起こすには、どうすればいいのか? ――簡単だ。もう一度、籠愛の姿をキマイラに認識させればいい。


 そもそもキマイラが暴走した原因は、籠愛に出会ったことだ。一時的に鎮静化したものの、彼を排除できたわけではないことは察知していたはず。次なる攻撃――覚醒した形態による本格的な攻撃の準備を、進めていた。だから、あの巨大な獅子の姿をとって現れた。


 そして、天敵たる籠愛を探している。となれば、こちらから姿を現してやれば……先程のものにもまさる、大火力の炎で彼を狙うだろう。


 彼をたおすまで、キマイラの暴走は止まらない。籠愛が逃げ延び、生き延びつづければ、キマイラはところかまわず『青い炎』を発し続けるだろう。そして、その通過した跡は残らず氷に包まれることだろう。


(幸いにも、わたしは『青い炎』の攻略法を見つけている。私が精魂尽き果てない限り、キマイラの破壊はどこまでも広がっていく……まあ、私を仕留めたところで止まるとも思えんが)


 キマイラは我を失っている。もはや籠愛を倒したとて、それを認識できるかどうか。また、溢れつづける『魂』のエネルギーを止められるだろうか。


 が、止まらなかったとしても、それは籠愛の本意とするところ。命尽きるまで、この世を破壊しつづけてくれればいい。


「さあ。迎えに行くよ、いたいけな子猫ちゃんキティ……私の望みを、叶えておくれ」


急降下ノーズダイヴ』で、かの獅子のもとを目指す。ただ、視界に入るだけでいい。それだけで、さらなる『炎』は世界を呑む――


「……む?」


 一直線、キマイラの目前へと飛行しかけた籠愛の眼下を。黒い影が、横切った。


 その漆黒の翼は……籠愛が忘れようにも、忘れがたき『あの女』のもの。


「……エキドナ……!」


 途端、ブチ、ブチと血管が籠愛の額に浮き上がる。ぎりぎりと歯が鳴りはじめる。


 自分を侮辱し、ペガサスに致命傷を与え、狡猾な策で空から叩き落とした『怪物の母』。彼女への怒りは、そう簡単に消えるものではなかった。


 そして今……彼女は、『誰か』をその腕に抱えている。ちらちらと見える生足、脱ぎかけのブラウス、雪風に揺れるピンク色の髪……。



「麗華、さん……!? なぜ……」



 考えかけて、籠愛はハッと気づく。そういえば、英雄と怪原家はいま協力関係にあるのだった。何らかの方法でそのことが恵奈に伝わり、倒れていた麗華を救出した……そう考えれば辻褄が合う。



「……小癪な、真似を……」



 麗華の救出。それは籠愛にとって、かなり不都合なことであった。


 彼女の異能力は、籠愛の能力とあまりに相性が悪い。彼女を野放しにしておけば、籠愛の計画が瞬時に頓挫するかもしれないほどだ。だから、あのような不意打ちで彼女を無力化したというのに。


(……いや、待て。なぜ私は、あの時彼女を殺さなかった……?)


 そこで初めて、籠愛は己のに気が付いた。


 邪魔だと分かっている麗華を、なぜあの時点……治療を受けた時点で殺さなかった? あの時点で殺しておけば、恵奈に回収されることもなかっただろうし、反撃の可能性に自分が怯えることもなかった。だというのに、なぜ?



「うっ……」



 にわかに頭痛が走る。なぜだろう。考えてはいけないことでも、考えてしまっただろうか?



「……いや、過ぎたことは忘れよう。今、殺しておけばいいだけの話だ」



 頭を振り、痛みをはらい。闘気と風を身に纏って、空の英雄は急降下する。

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