28. Coleus
ひとしきり喜び合った理里たちは、ひとりひとり大の字になって道路に寝転がる。
「そういや
吹羅、すなわちヒュドラの毒は、神話上でも多くの英雄を
その強力な毒を備えた牙を、一度として吹羅は使わなかったのだ。蘭子を殺害することで、他の英雄と戦闘になる事態を避けたかった、とも考えられるが、皆が消耗する前の段階であれば、そうなったとしても勝ち目はあるはずだ。むしろ、蘭子という強大な戦力を削るメリットの方が断然大きい。
だというのに、吹羅は蘭子を殺そうとしなかった。それはなぜなのか。
理里の疑問に。彼女は寝転がったまま、首を横に振った。
「この段階で総力戦になるのを避けたかった、というのもありますが……
「ふうん…………ん?」
ニヒルな笑みを浮かべる吹羅に。どことなく、理里は違和感をおぼえる。
その正体に、最初に気付いたのは
「ヒューちゃん、今自分のこと『わたし』って言った!? 言ったよね!?」
「えっ!? わたし、そんなこと言いましたか…………あっ」
失態に気付いた吹羅は口元を抑える。
「おっ?
希瑠が
「ち、違いますとも!? そう、我こそは不死の毒蛇にして全ての異能を無効化する『
「へえ……じゃあ、今のは何だったんだ?」
意地の悪い声を向ける理里に、吹羅は寝ころんだままフレミングの左手を
「あ、あれは我の中に眠る
晴天に、哀れな蛇の
☆
「……なあ、
動画を見ていた時の?
手塩は、それに感情の無い声で返す。
「ええ。負けましたね」
「……そうか……」
再び、蘭子は押し黙ってしまう。
少し離れたところでは、いつものように
「……テセウス」
「……何でしょう?」
今度は
「とても……とても、不思議な気分なんだ。
私は負けた。それは確かなことのはずなんだ。この眼で、先ほどの動画を何度も確認したからな。だが私は今、とても安らか気持ちなんだ。例えるなら、そう……『昼下がりの森、暖かな木漏れ日の中で、
蘭子の表情は、形容しがたいものであった。
笑っているようで、泣いている。怒っているようで、冷静である。全てが織り交ざった、ひとつの「顔」だった。
「……悔しくは、ないのですか?」
手塩は問いを返す。すると、蘭子の顔が、くしゃっと潰れた。
「悔しいさ……! とてつもなく悔しい! 己の全力を賭して、それでもなお敵わなかった……! 悔しくないわけがないだろう! …………だが、」
ぼろぼろと涙を流す蘭子は、そこで、元の
「それよりも、この『安らぎ』が上回っているんだ。本当に、不思議なんだ……悔しいようで嬉しい。悲しいようで爽快感すらある。これは、どいう感情なのだ……わたしには、わからない」
「……ふむ」
手塩は、ひととき
「貴方は、『自分』から解放されたのでしょう」
「なに……?」
その時、はじめて蘭子の視線が動いた。
「『自分』からの解放、だと…………?」
「ええ、その通りです」
くい、と眼鏡を掛け直し、手塩は続ける。
「貴方は、『最速』であることに
ですが……最速であるあなただけが、あなた自身なのではない。人間は多面的なものです。『柚葉高校の三年生である、田崎蘭子』『生徒会役員である田崎蘭子』『田崎家の長女・蘭子』……いろいろな属性をあなたは持っている。それら全てが合わさって、ようやく『田崎蘭子』という人間だ。『最速の英雄・アタランテ』とは、その一面に過ぎない。
だが、それを
そして、自分が自分の信じる『最速』でいられなかったことに、苦しみ続けていた。その事実を受け入れられなかった。一度だけの敗北が、不本意なものであったというのもあるでしょうが。
しかし……今回の貴方は、全力を出して戦った。戦えた。その上で敗北した。そのことで、『最速』という
わずかばかり、手塩は目を細める。
静かに聞いていた蘭子の口元に、笑みが浮かぶ。
が、それは今までの愉悦によるものではない。心からの満足、爽やかな風が心の中に吹いたことによる、自然な笑顔だった。
「そうか……『田崎蘭子』、か。……そう考えると、なんだか響きの良い名前だなあ。蘭子……蘭子か、うふふ」
かつてない、清らかな笑顔を浮かべ。蘭子は空を見上げて、立ち上がった。
「さて! わたしは、勝負の
テセウス。お前もいつか、『
手塩の肩を叩いて。蘭子はゆっくりと、理里たちの方へと歩き出す。
その背中を見守る手塩の表情は、
「私には、きっとなれない。たとえ人間がどういうものか弁えていようと、私はきっと、『テセウス』でしかありえないのです」
胸の奥に、わだかまる泥を抱えて。手塩は、いつまでも立ちつくしていた。
☆
「おい、理里君!」
突然呼びかける声に、理里はがばっと飛び起きる。
「はいっ!? ……っ、て!?」
起き上がった先、立っていた蘭子の姿に理里は
「な、なんで全裸なんですかぁ!」
獅子化形態から、元の人間にもどった蘭子は、その鍛え上げられた裸身を陽光のもとに
「なんで……と言われても、獅子化の時に衣服が
ばさっ、と濡れた黒髪を蘭子は振る。
その彼女の前に。唐突に、かなりサイズの大きい紺色のブレザーが投げ込まれた。
「……なんだこれは」
蘭子の視線の先では、
「『着てください。でないとそちらを向けない』、だって。
隣に居た
「……さて。覚えているか? この勝負のルールを」
「……ああ」
蘭子に問われ、理里は答える。蘭子が勝った場合、怪原家は皆殺し。理里が勝った場合は、蘭子は今後いっさい、怪原家に危害を加えない。
そう、確認すると。
「違う違う! ひとつ、大事なことを忘れているぞ」
「えっ……他に何かありましたか」
怪訝な顔をする理里に、蘭子は人差し指を振る。
「チッ、チッ。はじめに言っただろう?
君が勝てば、今後君らに手出しをしないことに加えて……『君の言うことを、何でも一つ聞こう』と」
「……あっ」
蘭子の言葉でようやく理里はおぼろげに思い出す。あの時は希瑠が金蹴りをされるなど、色々と衝撃的なできごとが多すぎて、忘れてしまっていたのだ。
「どんなことでも、私は実行に移そう。『死ね』でも構わんし、『どこか遠くに消えろ』でもいい。『3回まわってワンと鳴け』でもいいぞ。もちろん、
「……ちょっとランちゃん、何考えてるのっ!? それおねえちゃんガードかかるからね!? ……りーくん、
ぎろり、と珠飛亜が理里を睨む。
「い、言われなくてもやんねえよ!」
言い返しながらも後頭部を掻いて、理里は考え込む。
正直なところ、全く何も思いつかない。「死ね」と言ってしまえば、これまで蘭子を生かした状態で勝利しようとしてきた、家族の努力が無駄になってしまう。「どこか遠くに引っ越してくれ」あたりが無難である気はするが、それでは何となく後味が悪いように思う。屈辱を与えるのも同じ理由でダメだ。かといって、くだらないことに使ってしまうのももったいない。
思い悩む理里に、希瑠が後方から
「理里、忘れるなよ。そいつはオレの〇玉を蹴った女だぞ……」
「ああ……そうだっけ」
「いや
ぐいん、と希瑠がのけぞる。すると、珠飛亜が苦笑した。
「お兄ちゃんのタマなんか、なくなったところで誰も困んないでしょ。ニートの血が継承されなくて、世界は平和になるよ」
「ごはぁ!
希瑠が血を吐いて倒れる。……割と本気で心配しながらも、理里は黙考する。
(最適解が、あるはずなんだ)
目の前から消し去ったり、屈辱的な行為をさせるのではない。もっと気持ちのいい、最良の答えが。
そう思って、周りの皆の顔を見回す。
珠飛亜。希瑠。吹羅。遠くに倒れる恵奈。にやけ顔の麗華。いまだに背を向けたままの籠愛。なぜか立ちつくしている、手塩。
そして――田崎、蘭子。
墨のように真っ黒な髪は風に
敗者であるはずなのに、その表情はどこか
その時……理里の心に、ひとつの「願い」が生まれた。
「決めました」
蘭子に負けず劣らず、
「何なりと。仰せつかろう」
踊る前の
理里は。頭を下げ、右手を差し出した。
「僕と、
「……………………………………………………は?」
その場に居る、全員の目が点になる。
「りーくん、何言ってるの!?」
「理里、お前……こいつが何をしたのか忘れたのか。オレの玉を……」
「我が宿敵よ。さすがに、
兄妹たちは必死に止めようとする。だが、理里は彼らの方を見て、笑った。
「この人が、とんでもない人間だってことは分かってるよ。俺たちも相当困らされたし、苦戦した。
けど……この人の中には、どこか『芯』があるんだ。一本通った筋がある。この人なりの正義があって、悪がある。どこか、『美しい心』の持ち主なんだよ。
だから、この人と仲良くなってみたいって。そう、思ったんだ」
その、あまりに純粋な笑顔に。珠飛亜たち兄妹は困惑する。
「仲良く……って言ってもさ……」
「こいつと、か……?」
「うむ、早急に取り消すべきだと我は思うぞ」
彼らは知っている。味わわされている。蘭子が、どれだけ厄介な女かを。
もちろんそれは、理里も同じだ。そのうえで、彼女と仲良くなれたなら、どんなに素敵かと。彼女と友情を結べた時、きっと、世界中の誰とでも仲良くなれるのではないか。そう思ったのだ。
そして……その、突拍子もない願いを受けた、この女は。
「……ふふ。ふはは。あはははは、あっははははははははははははははははははははははははは!!!!」
腹を抱えて、笑っていた。
「キミは、やはりおもしろいなぁ! このわたしと? さっきまで激闘を繰り広げたこのわたしと、『友達』だと! あっはははははは!」
涙すら浮かべて、蘭子は笑い続ける。どうやらツボに入ってしまったらしい。
「まったく、友人などというものは、頼んでなるものではないのになあ。だいたい、それは命令でも何でもないではないか。『お願い』というんだ。
……だが、ああ。認めようとも。勝者の『命令』、たしかに
がしっ、と理里の右手を掴む、力強い手。史上最も切迫した「かけっこ」を闘った、蜥蜴と獅子は、互いに笑顔を交わした。
怪原家vs田崎蘭子の「かけっこ」は、これにて閉幕である。
☆
「
優しく低い、少年と青年の間あたりの声に。綺羅は意識を取り戻した。
「……おにい、ちゃん?」
重い
「よかった……
まるで少女のような、丸い頬をほころばせて、少年が――理里が、綺羅に
綺羅は、理里に抱き上げられていた。理里が去った後、己の中に眠る『獣』との戦いで意識を失った、そのアスファルトの上で。
「え、えっと……」
にわかに綺羅が頬を赤らめ、理里から目を背けると。
「……!」
振り返ったその先に。彼女の、「宝物」が集まっていた。
「きーちゃん、大丈夫だったんだね! よかったぁ、おねえちゃん心配で心配で……うるるっ」
「本当、よかったぜ……! きーちゃんに何かあったら、俺はもうどうしていいか……!」
「我が魂の片割れよ、よくぞ
「アナタたち、まだ中学生でしょう……? ごめんなさいね、きーちゃん。よく、がんばったわね」
めいめいに、家族には疲弊の色が見える。希瑠は珠飛亜に、恵奈は吹羅に支えられて、どうにか歩けている状態だ。
が……彼らの表情は、安らぎに満ちている。それはおそらく、「全てが、
ぱあっ、と、綺羅は顔を輝かせ。理里の方に向き直る。
「お、おにいちゃんたちも、かったんだね……!」
「ああ、もう大勝利さ! ……って、ホントは結構ギリギリだったんだけどな。こいつの、おかげかな」
そう言った理里の視線が、綺羅の
「こ、これって……!」
理里の左手首に結ばれているもの。それは、あの時綺羅が渡した、赤いリボンだった。
「このリボンには、何回も元気をもらった……くじけそうに、あきらめそうになっても、このリボンを見れば頑張れた!
ありがとうな、綺羅。おにいちゃんと一緒に、走ってくれて」
満面の笑みで、理里は心からの感謝を語る。その瞬間、綺羅の心に、甘酸っぱい幸福感の奔流が押し寄せた。
「うっ……ひくっ」
気が付くと、綺羅は涙を流していた。
「どうした、綺羅!? どこか痛むのか!?」
途端に、ぐっ、と理里の顔が近づく。他の家族も心配そうだ。
しゃくり上げるのを必死に抑えつつ、綺羅は口を開く。
「う、ううん、なんでもないの。おにいちゃんがかった、ってきいたら、うれしくて……」
「な……なぁんだ、そんなことか! 驚かせるなよまったく、ははは」
半ば戸惑っているようではあったが、理里に再び笑顔が戻る。珠飛亜たちも、
「……さあ、帰ろうか! 母さん、今日の昼ごはんはどうする? 俺と珠飛亜、吹羅あたりで作ろうか?」
「そうねえ……今日はもう、何か作る体力もないし。でも、あなたたちも疲れたでしょう? ……ピザの出前でも、取りましょうか」
「よっしゃああああああああああああああ!!!!」
即座に歓喜の叫びをあげる、兄や姉たちを見て。綺羅は、理里の腕の中、幸せを噛みしめていた。
(おにいちゃん…………だいすき、だよ)
身体の力を抜き、体重をより理里に預ける。
きっと、この想いを伝えられる日は来ないのかもしれないけれど。理里が、希瑠や珠飛亜が、吹羅が、母がいること。彼らのそばにいられること。それだけで、綺羅は幸せだった。
いつか、訪れる別れの
《第1章 第4節「天馬騎士と氷の獅子」に続く》
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