第十一頁

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 クロークがないために設置されたであろうロッカールームの入り口を横目に通り過ぎるとこの美術館最大の広さを備えるメインホールとなる。角ばった外観からは想像ができないほどの流線型のドーム型の天井はとても高くてそこにあしらわれた彫刻も一つひとつが美しい。しかし、その高さ故、細部まで肉眼で確認するのは難しい。

 先日起きた、件の事故は今抱えているこの焦りの根源といっても過言ではなかった。自分の調査が進んでいないことがあの子の身の危険を招いてしまったのかもしれない、そう思えて仕方がなかった。

 学校の屋上から身を乗りだした燕みのりがその柵を乗り越えて転落しそうになったのだ。すんでのところで大事には至らなかったし、周囲の証言からも彼女の近くに人がいなかったことは明らかだったという。加えて本人も、日記に書かれた内容を意識しすぎた結果だと証言したらしい。

 暗示というものなのかもしれない。

 ドーム型のメインホールを抜けてどんどん進んでいくと、薄暗い回廊にセザンヌと並んで好きな画家であるダリの作品が並ぶ。ぐにゃりとひしゃげた時計の絵は有名だろう。裕福な家柄の生まれで比較的早期からその才能を認められ発揮する場を得たある意味では幸せな画家であるが、晩年妻を無くすとほぼ同時期に製作をやめ隠居の身となる。そして、その数年後に心不全でこの世を去るのだった。

 どちらかというと狂人的なイメージの付きやすい画風のダリであるが、その内面は慈しみにあふれた人物だったのかもしれない。

 そんなことを思いながらあっという間にいつも例の女の子が座っている中庭の見える展示室に到着する。今日は彼女の姿がないことを確認すると、そこに腰かけてみる。美しい翡翠色の上質なソファはとても気持ちがよい。眼前に広がる大きなガラス窓越しには美しい竹林の中庭が臨めた。そして、少し体を動かすと、そこにはガラスに映る自分の情けない顔が見えた。

 眼鏡が顔に埋め込まれた中年のおっさんは今日も収穫がなかったって顔をしている。

 そんな俺の後ろを観光客だろうか、数名の派手な服を着たおばさま方が通り過ぎていった。

 その姿か通り過ぎていくまで俺は目を離すことができなかった。


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【記録】

 □交換日記の当事者について

 ・球依 晴(たまより はれ) 調査開始時に直接接触に成功(その後は避けられている?)

 ・鉢田 朋子(はちだともこ) 進展なし

 ・燕 みのり(つばめ みのり)待夢にて丸山先輩と話を聞くことに成功

 “現象”は噂通り発生していた。「死ね」と書かれたノートが挟まれたり、自転車のタイヤがパンクさせられたりと日記に書かれた内容から連想できるような実害あり。(関谷の聞いた噂はおおむね事実)


 □日記の形状について

 ・文庫本サイズ(手帳寄りのデザイン)販売元に関しては調査中

 ※鉢田がM市の文房具店で準備したとの話


 □高坂亜子について

 ・星の杜第一中学校 2年3組

 ・現PTA会長の娘

 ・吹田葵の話題には触れたがらない


 □松岡由希について

 ・星の杜第一中学校 2年1組

 ・高坂のグループから事実上の追放を受けている

 ・鉢田朋子とは小学校時代の級友


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 中学生にとって校舎という空間は一見すべてを網羅しているような感覚を持ちがちであるが、意外とそうでないことの方が多かったりする。階段の下にある存在は知っているけど入ったことのない薄暗い倉庫や、校庭の隅にあるコンクリートブロックで建てられた名に目的か分からない建屋など、意外なところにそのポケットはある。家庭科準備室もその例外ではなかった。存在は知っているが、基本、立ち入ることのない謎に満ちた空間である。家庭科室の横にあるが教室のような引き戸ではなく、ボイラー室のドアに使われるような鉄の重たいドアになっていて立ち入るのは、家庭科の先生ぐらいだ。そんな部屋に自分がいるというだけで非常に不思議な気分である。しかも、目の前に座っているのは鉢田朋子であるかさらに不思議な気分である。家庭科室をパート練習の場所にしている鉢田たちに合わせてこの場所で会うことになっていたのだ。

「えっと、夏目くんは探偵さんなんですよね?」

 緩くパーマがかかったようなふわっとした髪をツインテールにして、大きな瞳は零れ落ちてしまいそうなくらいの存在感だ。逆にそれ以外のパーツは全て小さい。小動物のソレを連想させるような鉢田の存在は交換日記をしているあの3人の中でも特異であると言える。簡単に表現すれば、彼女は非常に気弱そうであり、どちらかというと被害者になりそうなタイプの少女なのだ。そのうえ、言葉遣いがやや独特なこともありお嬢様感すらある。いわゆる、「深窓の令嬢」ってやつだろう。

「んまぁ、そうだね。今日は話を聞かせてくれる気になってくれてありがとう」

「ううん、いいの。でも、3時には学校でなきゃいけないからそれまでに済むかしら? ピアノのレッスンがあるの」

「大丈夫、その時間までには済むよ。忙しいのにありがとう」

「ならよかった。それに、由希ちゃんにも頼まれたからね」

「仲良いんだね」

「うん」鉢田の声が少し沈んだように聞こえた。「前まではね」

「というと?」

「ほら、由希ちゃん高坂さんのグループにいるでしょ。だから、晴ちゃんが嫌がって。あんなグループの子と仲良くするんだったら裏切りだって。だから、最近は由希ちゃんとは全然話してなかったの。不思議だよね」

 鉢田は松岡由希が高坂に勘当されたことを知らないのだろう。その上でも、鉢田の言ったその“不思議さ”をオレは捉えあぐねていた。

「一時は双子の姉妹のように四六時中一緒にいて、離れるなんて耐えられるわけないって思ってたの。でもね、いったん離れちゃうとびっくりするぐらい平気なの。私って人の心がないんじゃないかって思うくらい。だから、あんな嫌がらせもされるんだと思う」

 鉢田はいきなり話の核心に進んでいくつもりの様だ。

「嫌がらせって具体的に教えてもらってもいいかな?」

「うん。夏目君もきっと聞いてると思うんだけど、5月末の事件、知ってるでしょ」

 鉢田が住宅街で不審な女に追われたというあの事件である。女は煙のように消えてしまい、今でも行方は分かっていないという。

「うん。あの時はだいぶ話題になったからね。その、災難だったね」

「ううん」と首を振る鉢田。「私が不用心すぎたってお父様には怒られたの。その通りだと思ったわ」と続けた。

「あれも、日記に書かれたことが引き金だったのかな?」

 オレは意地悪をした。この件については珠依から話を聞いていた。事前に注意喚起をするような記載があったとは聞いている。

「そうかもしれない……夜道には気を付けなさいって書かれてたから。でも、所詮は悪戯。まさか、あんなことになるなんて予想もつかなかったの」

「そりゃそうだよね。でも、あの時はケガが無くて本当によかった」

「ありがとう。でも、あの暗闇の中追いかけてきた女の顔が忘れられなくて、今でも夜中に飛び起きるくらいなの」

「その時のことで、何か覚えてることとかあったりするかな」

「ごめんなさい、それ以外は私も混乱してて、あまり覚えていないの」

 そう言って彼女は目を伏せた。オレは話題を変える。

「それじゃあ、その他に日記が引き金だと思う嫌がらせみたいなことはあったかな」

「あれは、私の日記の次のページにあれが入った時だったかな。自転車に注意しなさいって書かれたの。そしたら、私の自転車のタイヤが刃物でズタズタにされたわ。他にも、下駄箱にネズミの死骸が入れられていたり。燕ちゃんだってノートにひどい悪戯をされたりきっとそのうち晴(はれ)ちゃんだって――――」

 死骸の件は初耳だった。学校でも話題になっていなかったことを思うと、事がことなだけあって内密に処理されたのだろう。

「突っ込んだ質問してもいい」

「うん」

「これは、燕さんに話を聞かせてもらった時にも聞いたことなんだけど―――」

「え、燕ちゃんとも話してたの?全然言ってくれなかったのに。それじゃもしかして……」

 彼女の視線はその腕に大事そうに抱えられた例の日記帖に落ちる。

「うん。見せてもらった。残りの二人には許可を取ってないって言っていたよ」

 鉢田は沈黙していたが自分自身と何か対話をしているようにも見えた。

「うん、そうよね。私も今日はこれを見てもらおうと思って持ってきたんですもの。燕ちゃんだって何とかしたい気持ちでそうしたんだよね」

「そう思う」

「だったら」と鉢田は立ち上がると、オレの手をつかんだ。いや、握った。

「え、あっ」

「お願いします。この気味が悪い事件を解決してください。お願いします」

 と急に頭を下げる。たじろいでしまったのはオレの方だった。

「う、うん。だから、そのために話を聞かせてほしい―――」

「そうだったね。夏目君は何が訊きたいんだっけ」

 そう、質問の途中だったんだ。鉢田のふんわりとした不思議な空気感にまかれてしまってオレはいつもの調子を出せずにいた。

「ええと、鉢田さん自身は誰かに嫌がらせをされるような心当たりはない? 些細なことでもいいんだ」

「そうだなあ、やっぱり亜子ちゃんたちは私たちのことは嫌いなんだと思う。晴ちゃんとは本当に犬猿の仲って様子だし。でも、あんなひどいことを亜子ちゃんがするとも思えないの」

 これは新しい見解だ。

「それ、もう少し詳しく教えてもらえる?」

「うん。亜子ちゃんって本当は優しい子なの。小学校の頃なんかは私もよく遊んでもらったなぁ。亜子ちゃんのお家とっても広いからお庭で一緒にお花を摘んだり、四葉のクローバーを探したり。他の子と変わらない優しい子だったのに―――」

「変わっちゃったんだ」

「そう。中学校に入った頃だったと思う。急にお化粧をして学校に来るようになったと思ったら、どんどん素行の悪そうなお友達が増えていったみたいで気が付いたら今みたいな状態になってたの。でも、人間の本質ってそんなに簡単に変わらないと思うの。だから、燕ちゃんたちがどう言っているかは知らないけれど、私は亜子ちゃんがやっているとは思えないの。だから、最初の質問の答えとしては心当たりはないわ。力になれなくてごめんなさい」

 そう言って鉢田は目を伏せた。

「いや、すごく貴重な情報だったよ。ありがとう」

「いいの。私は亜子ちゃんたちがもし何もしていないのなら濡れ衣みたいなことは嫌だし。犯人がいるなら、どうしてこんなことをしているのかを知りたい。夏目君はそれを解き明かしてくれるんでしょう?」

 鉢田朋子はまっすぐな瞳でオレを見た。

「もちろん、そのつもりだよ」

「ありがとう。そしたら、もう一つ、お話ししておかないといけないことがあるの」

「というと」

「吹田さんのことなの」

「吹田さんって今学校に来てない吹田葵さんのこと?」

 鉢田は神妙な表情で頷いた。

「吹田さんはもともと私たちのグループにいたの。だから、この交換日記も私たち4人でやろうって話だったの。でも、2年生になってから少し経って急に来なくなっちゃって―――」

「何かきっかけはあったの? その、吹田さんが来なくなった直前とかに」

 その質問に鉢田は目を少し逸らす。思い当たる節があるのかもしれない。

「そうだね、これも話しておかないとだよね。吹田さんが学校に来なくなる直前、私たちのグループと亜子ちゃんたちのグループが大きくぶつかったの」


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