前夜祭
僕が整備室に泊まり込むようになってから五日が経ち、
懐国記念日の前夜祭が始まった。
陽も沈む前から宴は始まっていて、外からは大量のアルコールを摂取した大人達の楽しげな歌声が聞こえている。今日と明日は
僕はそんな喧騒をよそに、ドゥンドゥンドゥンと駆動する浮動エンジンの音を機体に耳を直接当てて聞いている。心地よさを身体に吸い込むように目を閉じると、一コンマもズレのない規則正しい内燃機関の音が僕の鼓膜を揺らした。
しばらくタービンの動作の安定を確かめてから、操縦席から伸びているケーブルのスイッチを静かに切る。ゆっくりとエンジン音の間隔は間延びして、整備室に静けさが戻っていった。僕はこれで良しと満足げに微笑み、数歩後ろに下がって翼の無い長方形の機体を眺めた。
もうここには、あの日見た錆びだらけで整備室に横たわる鉄塊の姿はない。人間が誠実に向き合えば、何十年経とうが機械はそれに答えてくれることを、この空力車は教えてくれたのだ。
「だからきっとこの艦も大丈夫、シゲ爺の育てた優秀な技師が沢山いるんだから……」
誰に言うでもなく静かな整備室で独りごちた僕は、照明スイッチをバチンバチンと落として暗くなった整備室を後にした。
次に僕は、艦内で一番上のブロックへと向かった。
天井に細長い楕円の窓が伸びる、ギンザ通りと呼ばれる商店ブロックは、今日も人通りがまばらで活気が感じられない。
一日中座っているだけの退屈な商店の仕事は、住民の中でも身体が悪かったり人並みに働けない者が割り振られているので、そもそも売る意欲が皆にないせいだ。ついで商品の入れ替わりも乏しく、買う物もない。
結果、散歩目的以外でここに来る人はほとんど稀な、寂しいブロックになってしまっているのだ。
シゲ爺の話だと、その昔ギンザ通りの仕事は、誰もがやりたがる大人気の仕事だったそうで、この艦の上部ブロックがほとんど商店で埋め尽くされ人も溢れかえっていたのだという。
埃がかぶりっぱなしの変な置物や、小さな瓶に入った下の世界の木の破片や種等々、何の役にも立たない物ばかりが並ぶ店を横目に、僕はギンザ通りをゆっくり歩いて、ある道具屋の前でその足を止めた。
「いらっしゃい、なんもねぇけどゆっくり見てけや」
「お、フジさん髪切った?」
「切る髪がねえよ」
そう言って頭をぺちんと叩く、人懐こい赤ら顔。
彼は、この通りで唯一まともな商品を扱っている古道具店『フジヤマ』の店主のフジさんだ。元々技師でもあり、シゲ爺とも親しい彼は、左手の指を事故で失って以来、この古道具屋の仕事を何十年も続けている。ちなみにフジというのは彼のあだ名で、僕も本当の名前は知らない。
店名のフジヤマは、下の世界にある祖国で一番大きな山の名前だそうだ。
『あたまを雲の上に出し 四方の山を見おろして かみなりさまを下に聞く フジは日本一の山』
看板に描かれた白い雪の乗った山を見ると、年寄り達の声で歌が頭の中で勝手に流れだす。
『ほとんどが海に沈んだ下の世界でも、まだ立派にフジヤマはそこにある。トルタ、聞いて驚くなよ、あそこじゃ今も昔のまんま、山ん上の都市に沢山の人が暮らしとるそうだ』
こんな話を、フジさんやシゲ爺がいつも僕に聞かせてくれていた。
「あらトルタ、こんなところで奇遇だねえ」
「たつきおばさん……?」
「なんだい人を幽霊でも見るような目で」
「あはは、いや、その、ちょっと珍しかったからさ」
エプロン姿のままのたつきおばさんが、何故かフジヤマに買い物に来ている。その手には丈夫そうな紙袋がひとつ。それを掲げながらたつきおばさんは何故か恥ずかしそうに言う。
「家のミキサーが壊れちゃってねえ。フジちゃんに直してもらってたのを取りに来たところなのよ」
なるほど、そういうことか。僕はイレギュラーな事態の理由が分かってほっと安心した。
安心した? 僕は何を緊張していたのだろうか。
「たつき姐さんに聞いたぞ、空力車を直したそうじゃないか。さすがシゲさんの一番弟子なだけある」
「そうだよ? すごいでしょ」
軽口と共にきょろきょろと商品を見るフリをしながらフジヤマの店内へ入る。右角の電子骨董コーナーへと歩を進め、チラッとフジさんの方へ目をやると、たつきおばさんを見送って、埃のかぶったレジの前の椅子に腰掛ける姿が見える。
老眼鏡をかけて難しそうなタイトルの本と睨めっこしている様子だ。
それを確かめてから僕は、体を横にスライドさせ、ある棚の前に立つ。
レジから死角になっているこの棚には、今では手に入れるのが不可能に近い電子骨董が並んでいる……はずだったのだが……。
「嘘でしょ」
「ん? どうしたトルタ」
レジの方からフジさんがやってくる。
僕は、棚の埃が綺麗な丸の形に無くなっているスペースを見て青くなっていた。なんてことだ、数日前に来た時には置いてあったのに。
「いや……えっとその、ここにあった物って……?」
「ああ、それか。今朝売れちまったよ」
「ええ!?」
思わず声が出た。
「あんなもの、誰が買ったの?」
「ははは、面ァ忘れちまった」
そんな馬鹿な、雲の上の小さな世間では皆知り合いのようなものだ。顔も知らない人間が買っていくことがあるだろうか。……いやしかし、老眼なのに普段メガネもかけない上、かなり大雑把な性格のフジさんならありえるのか?
「……」
「んん? どうしたトルタ、そんなにジーピーエスが欲しかったのか」
絶句している僕に、少し不審そうな目を向けてフジさんが言う。そもそもあれは、僕には逆立ちしたって買えないような高価なものだった。
「いや、なんでもないよ」
言いながら内心で僕はため息をついた。お金を持っていない僕がやろうとしていたことを、神様が未遂で止めてくれたのかもしれない。残念だけれど、そう思うことにする。
「ふむ。もし入荷したら教えてやるよ。ちゅうても、電子骨董の入荷となるといつのことになるか分からんがな」
しょんぼりと踵を返して、用事を思い出したと店から出て行く僕に、フジさんは気いつけてけよ! と、数本しか指の無い方の片手を上げて振り、ガハハと大きな笑い声をあげた。
意気消沈した帰り道、僕は食堂の前を偶然通りがかった。
ちょうど夜の部が始まる時間帯らしく、少し覗いてみると、タツキおばさんが厨房に入っているのが見えた。
おばさんの方も僕に気づいたらしく、悪戯っぽく”手伝え”とジェスチャーで伝えてくる。僕はそれに手でバッテンを作って応え、笑ってひらひらと手を振りながら身を翻した。少し離れた後、大きなブザーの音と共に見慣れた木のドアに人が吸い込まれて行く様子をゆっくり目に焼き付けてから、食堂を後にした。
その後も当て所なく艦内を散歩をしていた僕が、一番最後に向かったのは艦内でも人気の少ない第四動力室だった。シュウシュウと熱エネルギーが蒸気を上げ、鉄の匂いが充満する艦の核心部。この艦に三つ残っている浮動エンジンの内、一番古くて小さいものの保守点検を行うのが、この動力室に務める技師のであるシゲ爺の仕事だ。
構造の性質的に、ほとんど人の手が掛からず、比較的艦内の重要度も低いため、時間帯によっては責任者――つまりシゲ爺が一人で仕事をしていることも多い。僕がゆっくりと第四動力室に入っていくと、部屋に人影が見えた。
「シゲ爺? あのさ」
言っておかなきゃいけないことがあるんだ。
僕はそう続けようとして、それがもっと華奢な輪郭をした人物であることに気づいた。
「……誰?」
向こうからか細い声がして、配管の奥から顔を出したのはティアだった。僕の顔を見てから、首を横に振る。どうやらシゲ爺はいないらしい。
僕達は、昔からシゲ爺が仕事をする姿をここで見てきた。大好きな人の仕事場であり幼い僕達が一番多くの時間を過ごしたこの場所は、二人にとって特別な場所だった。
「今日は早めに帰っちゃったらしい。もう、部屋の方にいるのかも」
「みたいだね」
「寝てたらどうしよう? やっぱり止め……」
ティアは言いかけた言葉を飲み込み、そして僕達は沈黙した。
ゴウンゴウン
動力室には、今日も1コンマもズレのない規則正しい内燃機関の音がしている。
この沈黙は、きっと全てをうやむやにしてしまう。
もう僕は決意していた。それはきっかけこそ些細なものかもしれないが、決意するだけで体の半分が壊れてしまうような類のものだ。
既に倒れ始めたドミノのように、元に戻ることも、そこに留まることも出来なかった。
今、動かなければきっと一生後悔する。
僕は自分を奮い立たせるように一歩を踏み出した。偶然にもティアも同時に前に出て、僕達はお互いまるで社交ダンスのような、気取った仕草になってしまったことに笑う。
胸の中にはティアの柔らかな感触がした。
思えば、僕にとって彼女は何なのだろうか。少なくとも、大きな決断を容易く実行出来てしまうのは、ひとえに彼女の存在があるからに違いなかった。
単なる幼馴染みではないし、家族といっても血は繋がっていない。
ましてや今更恋人などと表現するには、僕にとってティアはあまりにも特別すぎた。
「ティア」
僕にとって唯一無二である彼女の名を呼ぶ。
浮動石が回すタービンの蒸気と錆びた鉄の匂いが鼻腔に入り込む。懐かしい匂いがそこら中にする動力室の片隅で、僕達はそのまま唇を重ねた。
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