沈みゆく世界

 空のことを何も知らなかった幼少期。

 数年が経った僕達は、少し大人になった。



「トルタ、まだやっとるんか。そのポンコツは、もう動きはせんだろうよ」


 聞きなれた声が後ろから聞こえる。


「でもシゲ爺の若い頃は、これで空を飛びまわってたんだろ、諦めるのはまだ早いって」


 僕は整備の手を休めず、いつものように少し曲がった腰をさすりながら入ってきたであろうその老人に、背中でそのまま話しかけた。


「おいおい、ワシがこいつに乗ってたのはもう三十年も前の事だぞ。何にだって寿命があるじゃろ」


「よく言うよ、このふねだってもう半世紀以上飛び続けてるじゃないか。もっと自分の愛機を信じてやりなって」


 油で真っ黒になった軍手で、今日一日かけて磨いたボディをポンポンと叩く。丸一年もこいつを触っていると、機械でも情が沸くものだ。

 あちこちでこぼこになった空力車くうりきしゃも、心なしか嬉しそうに見えた。僕はそこで初めて振り返り、相変わらず元気そうなシゲ爺と向き合う。半ば呆れ顔のシゲ爺に向かって、ニヤリと笑って見せた。


「それに、実はこいつは、もう、生き返ってるんだっ」


 自分の身長の倍はある高さのコックピットまで、あちこちに足をかけながらひょいひょいと、器用に登る。鍵は若い頃にシゲ爺が無くしたらしいので、操作盤の後ろから直接2本の配線を手と手にとると、それを何度か擦るように近づけた。紫色の火花が散り、ジリリと軍手が焼ける匂いがした。


 ――ドゥル…ドゥルルルン


 小型内燃機関に命が吹き込まれ、浮動エンジンがタービンを回し始める。何度かぎこちない音を上げた後、ドゥンドゥンドゥンと規則正しい音が整備室に鳴り響いた。


「こりゃあ、たまげた……」


 死んだと思っていた相棒の思いもかけない復活に、シゲ爺は言葉を失った様子だ。そのままよたよたと近寄り、愛機のボディを撫でるように触る。へへ、どんなもんだと言う僕の声も、既に耳には入っていないらしい。

 やれやれ、しばらくはそっとしておいてやるかと思っていると、埃と油まみれの整備室に、似つかわしくない女子が、慌てた様子で駆け込んできた。


「トルタ! 外、外見て! 大変よ!」


 いいから早くハッチ開けて、と僕たちに促してくるのは幼馴染のティアだ。その見たことのないような慌てっぷりに、シゲ爺もただ言われるがままに、ハッチレバーを押し上げた。本来なら、管制室の許可が必要になるのにも関わらずだ。

 ガチャンと大きな音を立ててから、キャリキャリとチェーンが捲き上る音がした。整備室から甲板に繋がるハッチが上がり、日差しが下から順に差し込む。同時に新鮮な風が、整備室の埃洗い流してくれるように吹き込んできた。


「なんてこった……」


 艦の広い甲板は、今日も陽の光が反射してキラリと光っている。その上で、いつものように洗濯係のおばちゃん達が大勢並び、手に手に洗い物を持っていた。しかしその目は、目の前の湿った衣類ではなく、はるか上空前方を見上げていた。


 その視線の先にあるのは、この艦――大型居住艦しらゆりと同型の巨大な艦だった。

 表面のさびの色まではっきりと見える距離にまで接近している。今日は接続飛行の予定もない。これは明らかにおかしいことだ。

 しかし、そんな距離の大小を気にしている人間はほとんどいなかった。というのも彼らの関心は、その艦が今まさに黒煙と炎を身にまといながらぐんぐんと高度を下げていることに向けられていたからだ。


 ブオーブオー


 汽笛の音が不規則に鳴っている。

 おそらく救助を求めているのだろう。しかし同じ空の上にいても、こんなに近い距離であっても僕達に何も出来ることはなかった。


 甲板に現れた野次馬達が、指を差しながらあれこれと騒いでいる内に、黒煙を上げる艦は、大きな爆発音を上げ、全長3キロメートルある羽の片翼を失い、一気に雲の下へと潜っていった。艦の側面に空いた穴からは、人や物が次々と空へと放りだされていくのが見えた。


 数十秒後


 もう汽笛の音も聞こえない静かな空がそこにあった。


 僕達はどれほどその平和な空を眺めていただろうか。

 大人達も、僕たちも、ただ呆然と雲を眺めていることしか出来なかった。

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