1章7話 オレンジロード(3)



「――ねえ、タク君。タク君って、――初恋まだなの?」


 話を切り出してきたのは恋歌の方だった。ちょうど校門を抜けて、学校の敷地外に出たタイミングで。

 煌々と燃えるような夕日が眩しくて、それは世界を幻想的なオレンジ色に染め上げる。風は凪ぎ、涼しいとも温かいとも取れない、絶妙な春の麗らかさが心地良い。


「ああ、まだ初恋をしたことはない」


 ぶっきらぼうに、でも本当のことを答えた。


「それなのにえっちぃ画像を見るんだね。スケベっ」

「性欲と恋愛は別物なんだよ! 俺が悪かったからこの話題はやめよう!」


「ふんだ。大好きな幼馴染がハレンチな画像を持ってたら悲しくなるし、嫉妬するのが乙女なの! これからは気をつけてよねっ」

「……以後、善処します」


 はぁ、これは『水素の画像』を全部消去しないとダメそうだな……。

 俺と恋歌は大通りの横断歩道を渡り道路の向こう側に移ろうとした。その横断歩道を渡り終えると、突然、恋歌は足を動かすことをやめる。それを察し、俺は後ろにいる恋歌を気にして体ごと振り向いた。

 当然だが、そこにはオレンジ色に染める街並みを背景にして、春風に舞い上げられた桜花の中にたたずむ恋歌がいた。神秘的で、幻想的で、優しく頬を緩ませた彼女に、俺は目を奪われる。


「でも、良かった――」


 なにが? ――声がでなかった。出せなかった。声を出すよりも、恋歌の声を聞くために感覚が耳に集中していた。彼女の声は穏やかで癒される。その心地よさにずっと溺れていたかった。


「タク君の初恋の相手は私ねっ! 今のうちに予約しておく!」


 恋歌の言葉の裏の気持ちに気付く。薄々察していたが、でも、本人が言葉にしてわけでもなくて、確信が持てなかった、自分はまだ俺のことを諦めていない、という気持ちに。鼓動が早くなる。顔が熱くなる。それなのにどうしてか? すごく落ち着いている自分がいた。心のどこかで恋歌に好かれ続けられていたい自分がいたのだ。


「お前、まだ諦めていなかったのか……?」

「うん。もしタク君に好きな人がいたり、嫌われたりしたら、諦めたと思う。でも――」


 春風が動き出す。思わず目を閉じると、それと同時に体にやわらかい感触を覚える。目を開けると恋歌が俺の胸に抱き着いていた。女の子特有のやわらかさと、幼馴染の体温と、アイドルの癒し。そして星乃恋歌の優しさを感じる。


「でもね、恋って感情が理解できないから、なんて理由じゃ納得できない」

「――そっか」


 それしか声に出せなかった。もっと言いたいことがあるのに、言葉が思い付かなかったのだ。自分の語彙力と表現力のなさに辟易する。

 確かに俺は恋をしたことがない。けれど、こうして恋歌に抱き着かれて嬉しいと思う感情、これは一体なんなのか? 触れ合う緊張か、それとも再会の喜びか。


「わたしが、タク君に恋を教えてあげる。覚悟してよね?」

「お手柔らかにお願いするよ」


 俺の体を堪能すると、恋歌は離れた。

 お互いに微笑み合う。恋歌は俺の右手に自分の左手を恋人のように絡ませて、再び帰り道を歩き始めた。


「そういえば、いつ仙台に戻ってきたんだ?」

「えっと、入学する2週間くらい前だよ」


 そのまま俺たちは閑静な住宅地の方に進む。知り合いにバレないか心配なところである。それでも恋歌は俺から手を放さなかった。逆に俺も恋歌から手を放す考えはない。恋歌から握ったんだから、彼女の気が済むまで握らせてあげたかった。


「早いうちにおばさんとおじさんに挨拶しないとな」

「えっ? そ、そんな! 結婚の挨拶はまだ早いよぉ!」


「違う! 久しぶりですね、の挨拶だ! お前のそれはボケか? 天然か?」

「タク君が紛らわしいことを言うからいけないんだよ!」


 えぇ……、これって俺が悪いのかよ。

 帰り道を進んでいくと十字路にぶつかった。俺は右に行くんだけど、恋歌は? そんな疑問は杞憂に終わり、恋歌は俺の手を放さずに右に進んだ。


「今はどこに住んでるんだ? 昔の家か?」

「うん、そうだよ。東京ではお父さんの実家に住んでて、その間こっちの家は知り合いに貸していたの。だから壊してもないし、売ってもないし、昔のまんま」


 だったらけっこう途中まで一緒に帰ることができるな。恋歌がいなかった中学時代は、再び一緒に帰れるなんて想像もできなかったな。意図せずに顔がほころぶ。


「そうだ! お義母さんとお義父さんは元気にしてる? わたしも今度挨拶に行くよ」

「結婚の挨拶か?」


「え? タク君、わたしと結婚してくれるの!? やったぁ!」

「ボケを真面目に対応するな!」


 そして、その非難の目はやめろ。お前と同じボケをしたのにこの反応の差はなんなんだよ……。この場に十音先輩がいなくて本当に良かった。もしいたら散々な目に遭うことは免れない。


「話は変わるけどさ、タク君と清澄先輩ってどういった関係なのかな? 幼馴染には知る権利があります」


 やっぱり訊いてくるよなぁ……。できれば訊かれたくはなかったが、恋歌の性格からしてスルーしてくれる選択肢はありえない。そして俺にははぐらかす選択肢は用意されていないのだ。嗚呼、不条理。


「少し話は長くなるけど、初めて会ったのは俺が中学2年生の頃だ。当時の友達に恋愛をしたことがないって教えたら、アイドルを勧められてな。そして『この娘、可愛くない?』的なことを散々言われてアイドルにハマったんだ。結局、中学時代は恋愛できなかったけど」


「うんうん。それで続きは?」

「その友達が次に紹介したのが十音先輩だ。まぁ、紹介といっても『あの先輩が学校で一番美人な女子』って解説されただけだけど」


「それだったら知り合うきっかけなくない?」

「それが普通だけど……、実はその会話を十音先輩に聞かれていて、『私に何か用かしら』って話しかけられたんだ。友達は逃走したよ、俺を置き去りにして……」


 結果的に十音先輩とは仲良くなれたけど、あの時の友人はかなりひどいことを俺にしたよな。だって『あの娘、可愛くない?』的な男子の欲望丸出しの会話を聞かれて、俺を置いて逃げたんだぜ?


「俺が偶然十音先輩のスマホに付いていたアイドルのストラップに気が付かなくて、会話を膨らませなかったら、きっと仲良くなれなかったな。これが出会いだ」


 余談ではあるが、その後、友人は俺を裏切り者と罵ったが、お前の方がよっぽど裏切り者だ! って突っ込んだら一撃で沈んで後悔していた。


「それで、それからはたまに会ってアイドル談義をする仲になったんだ。だから恋歌が心配するような間柄じゃないよ」

「むぅ、そうなんだ……」


 恋歌はどうも納得してないご様子だ。でも全部実際にあったことだし、正直に話す以外、どうしようもない。恋歌は俺の手を握っている、自分の左手の力を強めた。


「でも、わたしがいない間に他の女の子と仲良くなるなんて、完全に誤算だよ。タク君は恋愛に興味がない――わけでもないけど、恋愛感情が湧かないから、女の子と仲良くする可能性は低いと安心してたのに……」


 ひょっとして恋歌は嫉妬しているのか、十音先輩に。そのことに気が付いた俺は恋歌に負けないくらい彼女の手を強く握った。


「タク君」

「なんだ?」


 十数秒後、人が近くにいないことを確認すると、ゆっくりと恋歌は俺に寄り添ってきた。頭を俺の肩に預けて、体をくっつける。どうした、って訊こうとしたがやめた。そんなこと、恋歌が教えてくれるはずがないし、この穏やかな雰囲気を壊しそうだから。

 少し先に例の奥州街道が見えた。恋歌の家が昔のままで、俺の記憶が正しいならもうすぐで別れてしまう。


「体熱くなっているよ。緊張してるのかな? だったら、嬉しいな」


 独り言を俺に聞こえるように呟く恋歌。

 奥州街道に到着すると、恋歌は名残惜しそうに、絡めていた手を放した。体も放した。それでも、俺の右手と右肩にはいまだに恋歌の体温が残る。彼女も同じようで、頬を乙女色に染めている。


「頬、赤いぞ」

「ゆ、夕日のせいだよ。今日は夕日綺麗だし、そのせい。タク君はもっと空気を読んで!」

「はいはい、そういうことにしておくよ」


 茶化すと、恋歌は顔を背けた。そして背けた先にあった夕日を眺める。俺も恋歌につられて夕日を眺める。この時間には恋歌の喋らなくてもいいから一緒にいたい、という思いが込められている。そんな気がした。


「タク君、こっち、向いて」

「うん? なん――」




「――――んっ♡」




 振り向くと同時に、唇にやわらかい感触が伝わる。恋歌が、俺の唇と自分の唇を重ねてきた。何も考えられないくらい気持ち良い。思考が溶けるくらい熱い。心臓が壊れるくらい高鳴る。

 そしてすぐに恋歌は、唇を離した。お互いの唇が少し触れるぐらいの軽いキスだったが、それでも俺と恋歌は顔を紅潮させる。恋歌は後ろに3歩下がって、姿勢を正して、なぜか敬礼すると――、


「――わたしの、ファーストキスだよ。このキスに誓って、わたしは全力でタク君を恋に落とす所存であります!」


 照れ隠しで変な口調になってはにかむ恋歌。


「じゃあっ、また明日ね! ばいばい!」


 それだけ言い残すと、恋歌は走って帰ってしまった。俺は、仲良しの幼馴染とキスをした、憧れのネットアイドルとキスをした。この2つの現実に呆気に取られた。その場で立ち尽くしていると、本当に少しずつだが感覚が唇以外にも戻ってくる。とりあえず――、


「…………っ、ファーストキスはレモン味って言ったヤツ出て来い。そんなの味わう余裕もなかったよ」


 恋歌がファーストキスだったように、俺もファーストキスだった。


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