蛍を見ながら和泉式部を思う

矢野窮

図書館で彼と出会う

 朝、大学に着いて掲示板を見たら、午前の講義が休講だった。大学に入学してからまだ二ヶ月ほどしか経っていないにもかかわらず、当日に休講になるということを既に何度か経験している。

大学の先生というのは高校までと違って結構簡単に休むよな、と思う。でももちろんそれが不満ということはなく、得した気分になる。学費を出している親からすると、納得がいかないだろうけど。

 私と同じ講義を受けていると思しき学生たちが、休講であることを知って喜びの声を上げている。ラッキーとか、どっか行こうぜ、とか。掲示板を離れて歩きながら、私もどう過ごそうかと考える。

私は今年の四月から大学生になった。キャンパスは実家と同じ県内にあり、電車で三十分ほどかけて通学している。特に何か志があったわけではなく、高校の次は大学ということに何の疑問も持たず、さらに言うと実家から通えて、かつ、自分の学力で入れる大学を探して受験したという類の人間だ。

これがどの程度一般的なのかは分からないけど、世の中の大学生の大半は似たようなものじゃないかなと思う。ただ親しい友達がいないから、実際のところ周りの人たちがどうなのか、聞くことができない。

人見知りな私は、積極的に友達を作ろうとしていないので、こういうときも誰かと一緒に時間をつぶすという選択肢はない。普段の生活も学校と家と、あとは図書館にはよく行くので、その三箇所の往復みたいなものだ。図書館は学校の図書館ではなく、市立の普通の図書館だ。

今日はどうしよう。図書館で勉強でもしようかな。

もうすぐレポートや試験が始まるのだ。前期の期末試験は七月末から八月初旬にあるが、前期の中間あたりでレポートや中間試験をする講義が多い。志がない分、そして友達がいない分、卒業まで順調にこぎつけないと、リカバリーが難しくなると思う。なので当面の目標は単位をしっかり取っていくことだ。

大学の図書館は同年代の人がいっぱいであまり好きじゃない。なので市立の図書館に行くことにした。市立図書館は大学から電車で一駅ところにある。今から移動すればちょうど九時の開館だ。


 その市立中央図書館は二階建てで床面積約七千六百平方メートル、蔵書数約八十万冊の、市内で一番大きな図書館だ。二、三年前くらいに開館したばかりで、外観もきれいだし、盗難防止用ゲートや視聴覚設備、会議用ブースに自習室など設備面も充実。階段は幅が広く、一階の半分くらいは天井まで吹き抜けになっていて、さらに正面の外に面した壁はほぼ全面ガラス張りと、とても明るく開放的な所だ。加えて本棚のそばにはそこかしこにイスとテーブル、ちょっとしたソファ等が置いてあり、のんびりすごすにはうってつけなのだ。

 大学に通うようになって初めてここに来たが、この広さ、きれいさ、過ごしやすさには感激した。家の近くの図書館はここの四分の一、いや、五分の一ほどの大きさだったし、建物も決して新しくはなかったから。

 さて今日も館内をぶらぶらして適当に本を読むかな。試験勉強をしようと思ってきたことを早速忘れ、そんなことを思う。いやいや、勉強しないと。しかし平日の開館直後なだけあって、利用者はまばら。それもまたとても心地よい。そういうわけで勉強をしようなんて気持ちは、図書館について早々どこかにいってしまったのだった。志の低い人間の決意なんてそんなものである。

 一階の、民俗・習俗、のラベルが貼られた棚に来た。私はこの民俗やら宗教、歴史といったジャンルがとても好きで、並んだ本のタイトルを見ているだけで恍惚とした気持ちになる。この辺りの棚は向こう側が見える構造ではあるけど、本がぎっしり詰まっているので実際には見通しが悪い。なおかつ高さが二メートルくらいあって、つまりここに立つと、一人の世界に入るのにもってこいなのだ。

 目くるめく民俗学の世界。日本の原風景を想像する。道の脇には道祖神や庚申待ちの石碑が建てられ、道の両側には水田が広がる。水田に一面に植わっているのは青々とした稲だ。さらにその先には山がそびえている。春には山の神がそこから下りて来るとされている。山は死者の魂が登る場所でもあり……。

「ちょっと、すみません」

 言葉とともに私の目の前に誰かの右手が伸びてきて、「日本人と動物」という本を棚から取って行った。いつの間にか隣に人が来ていたのだった。日本人と動物か、と呟くその手の主に、すみません、と言って私は少し体をずらした。

視界の端で見たその人は同年代くらいの女性だった。同年代の人に一人恍惚とする姿を見られていたかもしれないと思うと無性に恥ずかしい。何でもない顔をしているつもりだけど顔が熱い気がする。

体をずらしたのにかこつけてそのまま移動することにした。と言ってもまずは今の棚の裏側である。裏もまだ民俗関連の棚だし、もう少し人のいないところで一人の世界に浸っていようと性懲りもなく思ったのだ。

裏に回ると、今度は男性が棚に顔を近づけて熱心に本を探していた。残念ながらそのまま素通りするしかない。よりによってこの辺りは人が多いな。きっとみんな学生で、試験対策のために来てるんだろうな。


 特にジャンルを気にせずに館内をうろつき、目に留まった本を手にとってはぱらぱらと見るということを繰り返す。ちょっと気になった本は椅子に座って少し読んでみたり。生物や鉱物、心理学や言語学。

いろいろ興味のある分野はある。でもこの館内にある本だけでも、一生をかけたって全部読むことはできないんだろうな。そう思うと、一瞬たりとも人生を無駄にできないような焦りを感じる。その焦りはやはり、一時間後には消えてなくなっている程度のものだけど。


二階に移動し、小説や新書が並んでいる棚のところに来た。小説もよく読む。いや、小説が一番多い。本当のところ、小難しい学術的な本を読むのは苦手で、頭を空っぽにして読める小説を手に取ることが一番多いのだ。ジャンルは特に気にしていないけど、ミステリーが多いだろうか。


 その悲鳴が聞こえたのは、 棚の下の方の本をしゃがんで手に取り、そのまま少し読んでいたときだった。

私の後方から、きゃっという女性の声。そしてばさばさと本が床に落ちる音と何かが床に打ち付けられるような鈍い音。驚いて本を落としながら、思わず立ち上がった。後方を振り返り、見渡してみる。この辺りは高さ百五十センチメートル程度の棚が並んでいるので、見晴らしはよい。

悲鳴が聞こえたと思われる方を見たが、見える範囲では何も異常はなかった。もっとも、誰かが床に倒れたのであれば棚に阻まれて見えるはずもないけど。

こんなときに限って周りに誰もおらず、私が見に行くしかない状況だ。ごくりとつばを飲み込み、棚の端まで移動する。私のいる場所から数えて二列目と三列目の棚の間、床の上に本が数冊落ちていて、その本に向かって誰かの手が棚の端から伸びているのが見えた。ただし、ピクリとも動かない。もう怖がっている場合じゃないと思い、慌てて駆け寄ると、女性がうつぶせに倒れていた。

 膝は曲げられた状態であり、しゃがんだまま横に倒れたような格好だ。通路にはみ出ていた以外にも何冊かの本が女性の周りに散乱している。そして重そうな花瓶と、花瓶に収まっていたであろうドライフラワーの花束。あれが棚から落ちてきて頭を打ったんだろうか。

その頭は、長い髪が四方八方に広がって、異常事態であることを示している。うわあ、どうしたらいいんだろう。とりあえず脈と呼吸を確認すればいいんだろうかと、何とか思い至り、倒れている女性の背中に手を当てる。

うん、大丈夫、心臓は動いている。呼吸は?しゃがんで床に手を突き、女性の顔に耳を近づけると、すーすーと呼吸をしているのが聞こえた。この状況に似つかわしくない、ごく普通の寝息のようで、私も少し落ち着いた。

体を起こすと、近くの床に「雨乞い」という新書が落ちているのが見えた。ここの新書の棚から取ったものだろう。その先には「日本人と動物」。あ、この人、さっき隣にいた人か。

「大丈夫ですか?」

 いつの間にか私の後ろに眼鏡をかけた男性がいて、声をかけてきた。その背後にはさらに何人かの人がいて、こちらの様子を伺っている。

「は、はい。えっと、脈もあるし、呼吸もしてるみたいで、でも意識がないみたいです」

「そうですか。でも頭を打ったみたいだから、無闇に動かさないほうがいいですね」

 そう言って、その人は後ろを振り返る。

「すみません、そこの方、職員の人に言って、救急車を呼んでもらってください。それと、職員の人をここまで連れて来て下さい」

眼鏡の男性に指名された人は分かりましたと答え、慌ててこの場を離れる。

「何があったんですか?」

 男性は再びこちらを向き、聞いてきた。

「あの、悲鳴が聞こえてここにきたら、この人が倒れていて」

「そうですか……倒れるところを見たわけではないんですね」

「あ、はい。そこの花瓶が当たったのかなとは思いましたけど」

 その後、眼鏡の男性は周囲を歩き回り、床に散らばっているものを拾い出した。花瓶を棚の上に置き、ドライフラワーをその中へ入れる。そして本を拾って本棚の上に揃えて重ねていった。

 テキパキとした動作で無駄がない。考えてみればさっき救急車を呼ぶ際の指示も、誰か一人を指名するという、緊急時対応のお手本のようだった。

 棚の上に重ねられた本を見ると、ほとんどが宗教関連の本のようだ。先ほどの「雨乞い」、そして「日本人と動物」、それから「浄土に見る他界観」、「装いの文化学」、「来訪神」。それに加えて一冊だけ何故か恐竜図鑑があるのが、こんな時なのにどこか可笑しい。それにしてもこの女性とはもしかしたらすごく気が合うかもしれない、と場違いなことを思う。

雨乞いといえば龍神とか京都の貴船神社とか、そういう内容の本かな。日本人と動物は何の動物だろう。蛇や狐なんかはいろいろ話が膨らみそうだ。浄土と他界は神仏習合的な話だろうか。装いの文化学。服飾やお化粧の話かな。どれも興味がある。

 眼鏡の男性は重ねた本と本棚を少し眺めた後、「雨乞い」を新書の棚、倒れた女性の足元近くに戻し、残りの本を抱えて、これも戻してきますねと言って、他の場所へ行ってしまった。私は女性のそばにしゃがんだまま会釈をして見送った。

 男性がどこかへ行ったのを合図にしたかのように、野次馬たちも少しずつこの場を離れていく。私は女性のそばにしゃがんだままだ。とりあえずこのまま職員の人が来るのを待っていればいいだろうか。

「この人が倒れたとき、近くにいたんですか?」

 話しかけられ振り返ると、一人の男性が私のそばに来て、中腰になってこちらを見ていた。

「あ、近くというか、二、三列向こうの棚です。悲鳴が聞こえたのでここに来たんです」

「この人とは知り合いじゃない?」

「はい。あ、でも朝一で一階で見かけはしましたけど」

「ふうん」

 何が楽しいのか、この男性がいろいろと質問をしてくる。私は女性が倒れているのを見つけた動揺がまだ続いており、その人の態度を不審に思いつつも質問されるままに答えている。

民俗・習俗の棚でこの女性とたまたま行き会ったことを思い返したとき、先ほどの眼鏡の男性が、やはり民俗・習俗の棚で熱心に本を探していた人だと気づいた。それを言うとその人はまたふうんと言い、何か考えるような顔をした。

ちなみに女性と会ったときに私が一人恍惚としていたことは、恥ずかしいので言及していない。興奮しているとはいえ、さすがに初対面の人に話すことじゃない。

 その人をこっそり観察するが、取り立てて特徴のないごく普通の人だ。清潔感のある短髪に、来ているものはティーシャツにジーンズ。見た目は特に不審者然とはしていない。年の頃は私と同じくらいだろうか。いくつか年上には見える。小脇に料理本を抱えている。

「あの」

「ん?」

「いろいろ気にされてますけど、何かあるんですか」

「ああ、ちょっと思うところがあってね」

 何それ。それじゃ何もわからない。質問を重ねようとしたとき、先ほど眼鏡の男性に指示されて職員を探しに行った人が戻ってきた。職員二人を伴っている。

「救急車を呼びましたからね」

 職員の人が言う。

「この後は私たちが対応しますので、皆さんはもうお引き取り頂いて構いませんよ」

 まだ残っていた野次馬数人がその言葉を聞き、去って行った。私もほっとして立ちあがると、職員に止められた。

「ごめんなさい、あなたはちょっと待ってもらえますか」

「え、はい。何でしょうか」

「この女性が倒れたときの状況を教えて頂きたいんですが」

「えーと。何か倒れる音がしたので見に来たら、この人が倒れてたんです。そばにその花瓶が落ちていたので、しゃがんでいたところに花瓶が落ちて頭に当たったのかなと思ったんですけど」

 この話をするのはすでに三度目だ。眼鏡の男性と、先ほどの短髪の男性と、この職員の人。三度目ともなるとだんだん話すのがスムーズになってくる。警察の事情聴取もこんな感じなんだろうか。

 花瓶は「雨乞い」のちょうど真上に置いてあった。

「この本を取ろうとしてしゃがんでたんじゃないかと思います」

「えっ。花瓶が落ちてたんですか? 落ちたら危ないから底を貼り付けていたはずなんですけど……」

「粘着力なくなってますね。貼り付けた跡はあるけど」

 短髪の男性が花瓶を持ち上げ、棚の上に残る粘着テープの跡を見ながら言った。呼び止められてもいないのに、まだこの場に残っていたようだ。

「本当だ。危ないから撤去しておきますね」

 焦った様子で職員が言う。この花瓶のせいで人が倒れたものだから焦っているのだろう。賠償とかそういう話になるのかな、いやその前に大事に至っていないといいけど、などと職員二人が話している。

 そろそろ私は行っていいのかなと思っていると、外からサイレンの音が聞こえてきた。すぐに救急隊員が二人、職員に連れられて来た。救急隊員は手際よく女性を担架に載せ、運んで行く。まずは一安心だ。これでやっとこの場を離れられると思い、歩き出した。

「君」

 今度は短髪の男性に呼び止められた。思わず振り返ってしまう。

「……はい」

「ちょっと一階まで付き合ってくれないかな」

「えっと、すみません、もう学校に戻らないといけないので」

 何だかんだでもう十一時前だ。午後からは講義があるし、お昼も食べたいし。

「すぐ終わるからさ。君もさっきの女性が何故襲われたのか知りたいでしょ」

「え? 襲われたって、どういうことですか?」

「説明するから一階へ行こう」

 この人は何を言っているんだろうか。花瓶が落ちて頭に当たっただけの話だろうに。やはり関わってはいけない類の人だろうか。だけどあまりにも自信に満ちた顔を見ていると、話を聞くだけ聞いてみようかという気になってくる。もしこの人が悪い人だったとしても、周りにたくさん人がいるところで妙なこともするまい。そう考えてとりあえず一緒に一階へ行くことにした。

 一階に行く道すがら、その人はと名乗った。私と同じ学校に通っているということだった。

「名前は?」

 並んで階段を下りながら、聞かれる。

「えーと、言いたくないです」

 うかつに名乗ってトラブルになっても嫌だ。ああそう、とその千里さんは特に気にする様子もなく言った。私はだいぶ興奮が収まっており、持ち前の人見知りを発揮している。何をしに行くのか良く分からないまま、特に質問もせず黙って千里さんについて行った。


「さっきの女性と朝会った場所というのはどこ?」

 千里さんに聞かれ、民俗・習俗の棚に行く。

「ここです。この辺りの本をあの人が取って」

 何という本だったっけ。

「あれ? ないですね。えーと、『日本人と動物』。確か朝はここにあったはずです」

 私は本棚にできたスペースを指差した。

「ふうん。じゃあ次はパソコンだ」

 千里さんは言い、蔵書検索用のパソコンへ向かう。

「さっき落ちてた他の本のタイトルは覚えてる?」

「え? えーと」

 確か……。

「『浄土に見る他界観』、『装いの文化学』、『来訪神』、だったかな」

「ほう、よく覚えてるね」

 質問しておきながら、私が答えると千里さんは目を丸くして驚いた。驚きながらなにやらメモ用紙をキーボードの手前に広げている。メモを見ると、先ほどのタイトルが列記されている。

「興味のある分野なので。って、メモしたのなら聞かなくていいじゃないですか」

「いや、まあ、メモの内容の確認のためだよ」

 千里さんは喋りながらパソコンを操作する。

「全部貸し出し中になってるね。『雨乞い』だけ利用可、つまり借りられていない」

「はあ」

「そうそう、『恐竜図鑑』は……これも利用可だ」

「そうですか。それで、結局何なんですか?」

 さっぱり訳が分からない。すると千里さんがパソコンから顔を上げ、口を開いた。

「つまり」

「はい」

「あの女性の頭に花瓶を落としたのは、本を戻すと言ってどこかに消えたあの眼鏡の男だったんだ」

「え? えっと、意味がわからないです。何でそうなるんですか?」

 千里さんは話し始めた。

「まず僕がおかしいと感じたのは、あの眼鏡があの女性を指して『頭を打ったみたいだから』と言ったときだ。君が、女性の悲鳴や倒れる音を聞いたとき、周りには誰もいなかった。その後あの場所に来た眼鏡が、なぜ女性が頭を打ったと思ったのか。もちろん本が散乱している状況などを見てそう思ったのかもしれないし、彼は優秀な医学部の学生で、一目見てわかったのかもしれないけどね。

 しかしその後の彼の行動もまた怪しかった。花瓶と本を拾い始めたよね。特に花瓶はさっき見た通り、きちんと元あった場所に置いてあった。ほら、粘着テープの跡があったところだよ。彼は花瓶を拾った後、迷うことなくあの場所に置いた。まるで花瓶が元々あの場所にあったことも知っていたかのようだ。

 つまり女性が頭を打ったことも、花瓶があの場所にあったことも、彼は知っていたんじゃないかという気がした。それで気になって、あの時君にあれこれ聞かせてもらったんだよ」

 ごくり、と私はつばを飲み込んだ。どうせ戯言だろうと軽く聞き流すつもりだったのに、何か得体の知れない不安感が押し寄せてくる。

どうすればいいか分からなかった私はあの眼鏡の男性が現れたことで救われたと感じていた。だけどそもそも、その男性こそがあの事態を引き起こした張本人だったというのだろうか。

善意の第三者を装って私の手助けをしながら、心の中ではあの女性を、そして私をあざ笑っていたのだろうか。

「何でそんなことを……」

「僕の想像でしかないけど、こんなことを考えた」

「あ、あの」

 ちょっとためらいつつ、話し始めた千里さんを止める。

「ん?」

「場所変えましょう。パソコンを占領してしまっているので」

 辺りを見回すと、端の方の四人掛のテーブル席が空いているのを見つけたので、そちらに向かう。

「時間は大丈夫? 意外とかかってしまって申し訳ないね」

「いえ。まだ大丈夫です。ここまできたら最後まで聞かないと気になってしょうがないです」

 お昼は別に食べなくてもいいし、午後の講義までに戻れればいいや。

 テーブル席に向かい合わせに座り、千里さんが話を再開する。

「えーと、何故彼があんなことをしたのかと言う話だったね。僕が想像したのは次のようなことだ。

 ある学生が民俗学関連の講義を受けていた。もうすぐ試験、もしくはレポートの提出だから、参考文献を借りたい。でも出遅れてしまい、学校の図書館ではめぼしい本はすでに貸し出し中になっていた。じゃあ市立図書館だ。単位が取れないと留年だ、まずい。早く行って借りないと。

 そしてこの図書館で蔵書検索すると、良さそうな本があった。本棚に行ってその本を探していたら、目の前の棚の向こうから、先ほど検索した、『日本人と動物』というタイトルを呟く声が聞こえてきた。

 自分が借りようとしている本が誰かに取られてしまう。焦った学生は誰がその本を取ったのかを確認しようとして、本棚に顔を近づけて向こう側を覗き見た。

君が思ったように熱心に本を探しているんじゃなかったわけだ。いや、ある意味熱心に探していたとも言えるか。

 単位を落とすわけにはいかないと思いつめた学生は、何とかその本を女性から奪い取ろうと機会を伺う。暴力的手段も考え、人を殴打するのに適当な、図鑑を手に取る。そして周りに誰もいない小説・新書のコーナーでそのチャンスがめぐってきた。

 女性が新書のコーナーで一番下の段の本を取るためにしゃがんだ場所、その真上に花瓶があるのに学生は気づいた。

図鑑で殴るためにはその人の近くに行かないといけないけど、女性と棚を挟んだ反対側から花瓶を落とせば、姿を見られる危険性が少ないのでは? そう思いついた学生は、その案を実行した。意識を失うことまでは想定していなかったかもしれないね。意識を失わないまでも、女性が混乱している隙に本を奪って逃げるつもりだったかもしれない。

結果的に女性は意識を失ってしまった。その方が学生にとっては都合が良かっただろう。でも、近くで誰かが本を落とす音が聞こえた。人がいたことに気づいた学生はとっさにその場にしゃがんだ。様子を伺っていると、倒れた女性のそばに誰かが近づいて介抱しているようだ」

 私があの女性の側に行った時、あの眼鏡の男性がそばで息を潜めていたということか。少し背筋が寒くなる。

「その後は君の体験した通りだよ。学生は何食わぬ顔をして君のほうに行き、堂々と目的の本を手にして立ち去った。

 花瓶を元の場所に置いたのは、次の三つが目的だ。一つは本だけを拾う不自然さを隠すため。もう一つは犯行の跡をなくすため。本来なら事故現場というのはできる限り保存しておかないといけないものだから。そして最後に、花瓶に自分の指紋をつけるため。これはつまり、花瓶を落とすときに付いた指紋のカモフラージュだ。

 恐竜図鑑はやはり指紋がついているから、万一この件が警察に調べられることになったらと考えると、元の場所に戻しておくのが一番安全だ。だから例えば小説・新書の陰に置いておくのではなく、散乱していた本の一つとして扱い、まとめて持ち去った。指紋を拭き取ったとしても、その辺に置いてあったら、この件と関わりがあることがばれる可能性もあるし。そして『雨乞い』だけは目の前の棚の本だから、人目がある中、戻さざるを得なかったんだろう」

 千里さんが話をやめ、そのまま口を開ける気配がない。

「以上ですか?」

「以上です」

「えーと……」

 今の話は事実だろうか。自分の認識していた世界がくるりと裏返ったような不安定な気持ちになる。

「私はどうすればいいんでしょうか……」

「そうだね、職員の人に、賠償は不要かもしれませんよと教えてあげようか」

「警察も呼んでもらいましょう」

「ああ、それがいいと思う」


 先ほどの職員を見つけ、話をした。持ち去られた4冊の本を借りた人を調べてもらったところ、同一人物が借りているとのこと。個人名は教えてもらえないけど、それだけは教えてもらえた。

「お行儀良く貸出手続きをしているとは意外ですね」

 人を傷つけてまで本を奪おうとするような人なのに。

「入り口に盗難防止用のゲートがあるからねえ。目立ちたくない犯人としては正規の手続きを踏むことを選んだんだろうね」

 職員の人に警察を呼んでもらう。私はもう時間がなく、千里さんも同様ということで、職員の人から警察に事情を話してもらうことにした。念のためということで連絡先を聞かれたので、答える。

 そうこうしているうちに、女性が意識を取り戻したと、職員が教えてくれた。病院から連絡があったらしい。命に別状もないらしく、私もやっと肩の荷が下りた気分になった。無事でよかった。


「ああ、せっかくの休講だったのに大変な目にあった」

「そうだね。まあ倒れた人の介抱をして、立派だったと思うよ。それにミステリー好きとしてはなかなか興味深い体験だったでしょ」

「えっ。な、何でミステリー好きって」

「君が女性の悲鳴を聞いたのが小説の辺りだと思ったから、適当に言ってみただけ。最後まで僕の話に付き合ってくれたのも、そういうのが好きだからかなと思ってね」

「そうですか。びっくりした……。千里さんこそ、好きそうですね、そういう人を食ったような話し方」

 はは、と千里さんが笑う。

「あの、私、秋月ゆみえと言います」

「名前教えてくれるんだ」

「悪い人ではなさそうだと思って。とりあえず名乗るだけなら害はないかなと」

 千里さんの人となりを無闇に疑ってしまった罪悪感もないではない。

「そっか。じゃあ僕はそろそろ学校に行くよ。もしまた僕に会いたくなったら学食に来るといい。日中は大抵そこにいるから」

 そう言って千里さんは図書館を去って行った。

 また会いたくなったらというのは、また何かに巻き込まれたら、という意味だろうか。そんな事態はもうないことを祈る。


 後日、家にいるときに図書館から連絡があった。あのときの女性が、お礼がしたいから連絡がほしいと言っているということだった。

 職員の人が読み上げる連絡先をメモする。女性は私と同じ学校の文学部日本文化学研究室に所属する結城さんという人だった。教えてもらった電話番号は研究室の電話ということだ。研究室に所属しているということはたぶん三年生か四年生だ。

 電話は苦手だ。対面とはまた別の緊張がある。でも電話しないままだと結局ずっと気になったままになるので、思い切って電話をした。結城さんと話をし、数日後の夕方に図書館前で待ち合わせをすることにした。

当日、図書館前で待っていると、件の女性、結城さんが現れた。肩より少し下くらいまで髪を伸ばした、きれいな人だった。

紙袋を二袋持っている。あちらは私の顔を知らないので、私から声をかけることになっている。と言っても、図書館前で所在無げにしているのは私一人であり、結城さんもこちらの出方を伺っている様子だ。少し緊張しつつ声をかける。

「あの、結城さんですよね。私、秋月です」

「初めまして。結城です。お時間取らせてごめんなさい。先日は介抱してもらったみたいで、ありがとうね」

 話し方が穏やかで、私の緊張が少しほぐれる。

結城さんは手に持っていた紙袋をこちらに差し出してきた。視線を落とすと、袋の中には包装紙で包まれた菓子折りと思われるものが入っている。包装紙には有名な和菓子のブランド名がプリントされている。

「これ、どうぞ。お口に合えばいいけど」

「わあ、頂いちゃっていいんですか? ありがとうございます。お菓子は何でも好きです」

こういうときは私は素直にもらうことにしているのだ。最終的にどうせもらうことになるのだから、いちいち遠慮して再度勧められてというプロセスを経るのが面倒だ。

何よりお菓子は大抵の物は好きだから、心にもない遠慮をするのも嘘をついているようで抵抗がある。

「犯人特定もしてくれたんでしょ?」

「あ、それは私ではなくて別の人なんですよ」

「図書館の人が、もう一人男性がいたと言っていたけど、その人?」

「そうですそうです。日中は大抵学食にいるって言っていたので、行ってみますか?」

「うん。秋月さんがその人のこと知っていたらと思って、その人の分のお礼も持ってきてたから、良かった」

 結城さんが紙袋を軽く持ち上げながら言う。

学食は図書館から目と鼻の先だ。学校の正門をくぐるとメインの通りがあるが、その通りの右側に広場、広場の奥に図書館があり、通りの左側に学食がある。

あの日以来、千里さんと会ってはいない。何も事件に巻き込まれてないし、そもそも学食は私にとって鬼門なのである。

若者たちの憩いの場に、一人ではとても入る気になれず、入学以来一度も入ったことがない。でも今日は結城さんと一緒なので、ハードルがだいぶ低くなっている。

 図書館から学食に向かいつつ、ガラス越しに学食の様子を伺う。お昼のピークは過ぎているが、席にはまだそれなりの数の学生がいるようだ。ドアを開け中に入ると、途端にがやがやとした喧騒に包まれた。

 学食は、入り口から見て右側がテーブル席、左側がカウンターになっている。テーブル席は全部で十数列、縦長にテーブルが並べられ、右側の壁からカウンターに向かって列が延びている。奥のほうには四人がけのテーブルもある。

そしてカウンターの向こうには学食のスタッフの人が数名。食券と引き換えにカウンターで食事を受け取り、テーブルで食べるシステムになっているようだ。水はセルフサービスのようで、給水器がいくつかカウンターの端に置かれている。その横には食器の返却口。お昼のピークはさぞかし慌しいのだろうな。

改めてテーブル席を見やる。学生は仲間同士、数人ずつのグループに分かれておしゃべりを楽しんでいる様子だ。あの中に千里さんがいるのだろうか。

 結城さんと共に少し学食内に足を踏み入れ、学生たちの顔を確認する。

「いそう?」

「いえ……」

数日前とはいえ一度会っただけの人だ。どんな顔だったか記憶があいまいになっている。見落としたかもしれないと思い、もう一度学食全体を見渡してみるが、やはり千里さんさらしきひとは見当たらない。

「やっぱり、いないみたいですね」

「そう。どうしようかな」

 結城さんが困ったような顔をする。美人なのでそんな表情も様になっている。西施の顰だな、これは。

「秋月さん、都合がいいときで構わないので、また後日付き合ってもらえるかな。次会えなかったら縁がなかったということにするから」

「あ、はい。問題ないです。じゃあまた今度にしましょう」

しかし日中に学食というだけじゃ、見つけるのは大変かもしれないなと今更ながら思う。


「やあ、秋月さん」

 結城さんと二人、出口に向かおうとしたとき、その声が背後から聞こえた。振り返り、私は千里さんの姿を認めた。

その姿を見て一瞬頭が混乱し、体の動きが止まる。千里さんは白衣とエプロンを着用し、頭には三角巾を着けていた。そして立っている場所は食堂のカウンターの向こう。

「この時間は客足も落ち着くから、ちょうどよかったよ。君はあの時倒れてた人だよね。元気そうで何より」

 千里さんはすました顔でそう言った。結城さんは固まっている私を見て、きょとんとしている。

 確かにこの学校に通っているとは言っていたけど学生とは言っていなかった。なんか悔しい。

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