「志村後ろ後ろ」日記

阿井上夫

第一話 珍しい沢蟹 (斉藤隆 四十一歳 製造業)

 最近、月に一回は東京にある本社の会議に出席している。

 会議の開始時間は午前十時半。

 岐阜県恵那市からだと、中央本線快速で名古屋まで一時間強、東海道新幹線で名古屋から東京までが一時間四十分強、東京から本社までは在来線で十分強かかる。

 その間の乗り換えによる待ち時間を含めると合計で四時間近くになるから、午前十時半の会議に間に合わせるためには、午前六時半に恵那駅で電車に乗らなければならないが、途中の運行遅延も考えるとそんな危ないことは出来ない。それにちょうど良い時間の電車がない。

 というわけで、恵那駅を午前五時四十六分に出発する中央本線各駅停車――始発列車一択となる。

 会社の借り上げマンションを出て、少しずつ明るくなってゆく中、阿木川のほとりに伸びる遊歩道をとぼとぼと歩く。川縁の景色が実に良い。脳内で観光地気分を満喫できる。

 転勤で中津川に単身赴任してから一年が経過したが、周囲の景色を未だ見飽きることがなかった。

 しかも、たまに想定外の出来事に遭遇することもある。


 *


 先日、雨の降る中を恵那駅に向かって歩いていると、目の前の道路上を何かが横切った。

 よく見てみると、赤い小さな沢蟹である。

 黒い猫が目の前を横切ると縁起が悪いと言うが、赤い沢蟹はどうなのだろうか。

 両方のはさみを振り上げてこちらを威嚇しているものの、ささやかな抵抗すぎて笑う。

 そういえば子供の頃、福島県の安達太良山に家族で登った際、疲れたと言ってぐずる私に母が、

「もう少し行くと沢蟹が沢山いるよ」

 と言って、先を促したことがある。なぜ沢蟹だったのか理由は分からない。しかし、それでちゃんと頂上まで登ったのだから恐れいる。

 母は私の操縦法に長けていた。


 まあ、それはどうでもよい。


 私は私にとって「登山の神様」である沢蟹に別れを告げ、そのまま歩いて駅に向かう。すると、その百メートルぐらい先に、今後は暗い土色の沢蟹がいた。

 昔、長野県松本市のど真ん中で、道端の用水路に沢蟹がいるのを発見して、

「ああ、水が綺麗なところなのだな」

 と感動したことがあるが、沢蟹が普通に道端を歩いている恵那市はどう考えたら良かろう。

 こちらの蟹は威嚇する様子もなく、ただ地面に這いつくばっている。なおさら不幸の兆しなのか幸福の兆しなのか判別がつかない。

 首を傾げながらしばらく歩くと、今度は道の上に車にひかれたらしき蟹の死骸があった。

 道の上で車にひかれて良いのは、蛙までではないかと思う。

 沢蟹だと非日常感が半端ではない。

 要するに「ここはど田舎だ」ということを全力で私に訴えているように思われる。そんなことをしても意味はないと思うのだが、恵那市は何を考えているのだろうか。


 *


 さて、恵那駅に着くと駅売店は開店前で、周囲にコンビニはない。

 自宅で軽く食べてから来るので問題はないが、それにしても殺風景な駅前である。にもかかわらず始発電車に乗る人が十数名いるので、決して寂れているわけではないらしい。

 沢蟹のことを考えながら電車を待つ。

 さすがに一日の、しかも朝の限られた時間に路上で三匹も遭遇するのは珍しい。まあ、これは瑞兆と考えて良かろう。

 中央本線各駅停車が恵那の駅に滑り込んできたので、私は一番前の車両に乗り込んだ。


 虚無僧がいる。

 しかも十一人。


 最初は驚いたが、もう慣れた。

 虚無僧は四人がけの席を二つと、二人がけの席を一つ使っており、残りの一人が常に立っている。別にがらあきだから全員座っても良いと思うのだが、気を遣っているらしい。確かに虚無僧の隣に座るのはなんとなく気が引ける。

 中央本線の中津川ー名古屋間の車両は背もたれが可動式で、四人がけと二人がけを乗客が好きに変更できるようになっている。

 虚無僧は常に進行方向先頭の席を四人がけとし、その次の席の進行方向右側に二人で座る。立っている一人は心もち二人がけのほうに寄っているが、その理由は分からない。

 まあ、珍しいことではないので、私は虚無僧二人がけの隣、進行方向左側に一人で座る。別に他意はない。虚無僧が小さな声で唱えている般若心経が心地よいので、いつもそうしているだけのことである。

 座って再び沢蟹のことを考える。

 一匹だけ遭遇することは稀にあるかもしれないが、三匹はやはり相当珍しい。やはりこれはかなりの瑞兆であろう。

 そんなことを考えながら般若心経を聞いていると、自然と眠くなる。

 目を覚ますのはいつも高蔵寺で、その時には既に虚無僧が降りた後だった。


 まあ、いつものことなので珍しくもない。


 定光寺あたりで降りるのだろう。

 そう考えていたのだが、先日仕事で住職と話をする機会があった際に、それとなく虚無僧のことを訊ねてみた。

「はて、うちには虚無僧はおりませんが」

 人の良さそうな住職がそう断言したので、私も虚無僧とは無関係と思い、

「朝から墨染めの袈裟を着た虚無僧十一人に会うのは、辛気くさくていけませんね」

 と、つい笑いながら軽口を叩いたのだが……


 それがよくなかった。


 *


 次の機会に始発電車に乗った私は、一瞬目を疑った。

 名前が分からないのだが、あの虚無僧の傘のような帽子のようなやつをかぶった、しかし服装から考えて、どうやら「魔法少女」らしき十一人の集団が、四人がけ二つと二人がけ一つにおとなしく座り、一人がいつものように立っていたのである。

 それで私は、自分の軽率な一言が招いたらしい「惨事」をいたく反省した。

 それにしても、どちらを本体と考えれば良いのか迷う。

 虚無僧帽子が本体であって、魔法少女の服装が仮の姿だろうか。それとも魔法少女が主体で虚無僧帽子――いやいや、この場合はもう少し小洒落た感じで「Com-so Head」と呼ぶべきなのかもしれない――が客体ということかもしれない。

 ただ、服装は確かに魔法少女であるものの、さらにその下にある肉体は明らかに虚無僧である。

 つまりは魔法少女が仮の姿と考えて良い。

 それで合点した私は、いつもの席に座る。

 すると、いつもであれば般若心経が聞こえてくるはずなのだが、その時は、

「テクテクマザコン、テクテクマザコン――」

「ラミレスラミレス、ルルルルル――」

「エコエゴアザラシ、イロイロアザトイ――」

「ナバリノナバリノ、モトヤンカーチャン――」

 という囁き声が聞こえてきた。

 著作権の問題だろう。微妙に元ネタから変えているが、最後のはいくらなんでも変えすぎだ。元ネタがかわいそうになった。

 それにしても、今気がついたが魔法少女の呪文の最初のセンテンスは、魔法少女業界の取り決めで「八文字」限定なのだろうか。


 まあ、そんなことはどうでもよい。


 私は、さして珍しくもない魔法少女風虚無僧の呪文を聞きながら、いつもの通り珍しい沢蟹のことを考えることにした。


( 終わり )

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