人生オンライン地球サーバー

@tobiru_m

 

 目が覚めると、見知った天井が視界いっぱいに広がっていた。

 朝だ。いつもと何も変わらない起床時刻だ。

 この平々凡々な日常において違和感を挙げるとするならば、スマートフォンでセットしておくだけしておいているアラームが鳴るよりも早く、隣に住む幼なじみのサヤカの大声が寝ぼけた頭を貫くよりも前に、自発的に立ち上がって学ランへと着替えを始めていることだ。

 何故か? そんなことは分からない。僕にだってそんな日はある。

 サヤカや家族にしてみれば、そんな当たり前の日常の中でのちょっとしたイレギュラーを、天気予報に反した空模様を危惧するくらいには驚くかもしれない。

 しかし、私からしてみれば、些細なことだ。ちっぽけすぎる。

 何故ならば私はつい先程、交通事故に遭ったはずなのだから。

 無灯火で、しかも信号無視。悪質な運転手の乗る巨大なトラックは、人間の力では到底抗うことの出来ない重量とスピードで、私の身体を一瞬にして弾き飛ばした。

 そして、自分が倒れてしまったことに気付くよりも先に、対向車の黒いタイヤが見えてしまった。

 あ、死ぬ。ごめん、リョウコ。ナナコも生まれたばっかりだってのに。


「シンゴー! 早く起きなさ……あら、珍しい」

「うん、まあ、たまにはね。おはよう」


 そんな名前だったのか、と一瞬だけ疑問はよぎったものの、母に対して極々自然に、僕はそう答えていた。

 普通なことが、異常だった。

 おかしなことなのに、平然としていた。

 私は最愛の妻と娘を遺して、死んだ。

 僕はそんな不幸な家族のことなんか何も知らずに、学校へ行こうとしている。

 いったい僕に、私に、何が起きたのだろう。



***



「毎日こうだとあたしも楽なんだけどなあ」


 僕の母に向かって快活に、行ってきます、と挨拶をしたサヤカは、少し歩いてから僕の隣でそう言った。

 早く起きるのも悪くないと思える朝だった。身支度を整えてダイニングに向かうと、母がいつものように、手早く朝食の用意をしていた。コーヒーと、食パンが焼ける香ばしいにおいが僕を出迎えてくれる。

 ちょうど、サヤカの来訪を告げるチャイムが鳴った。サヤカの両親は海外で働いていて、それがいつのことだったか、それから僕と母とサヤカの三人で朝食と夕食を摂ることになっている。

 いつもであれば、そのチャイムをまどろみと布団の中でうっすらと耳にして、僕はドタドタとやってくるサヤカに叩き起こされるのだ。


「いつもいつもすまんかったね。でも、おまえに起こしてもらうの好きなんだよなあ」

「……はあ!? ナ、何言って……!」


 一瞬だけ目を見開いてすぐに俯くサヤカ。そして「調子狂うじゃん」と呟いては僕の肩を小突いた。

 こんなやりとりは今までしたことがなかったかもしれない。サヤカはチビでドンくさいくせにいつもお姉さんぶってくる口うるさいやつだ。毎朝並んで登校するのだって鬱陶しいことこの上なくて、寝坊して遅刻すれば一緒に歩かずに済むとさえ思っていた。

 いつもイライラしていた。サヤカに怒鳴りつけたことは何回だってある。

 なのに、今日は不思議と、サヤカに感謝の気持ちが湧いている。なんだってこいつは、僕に構うのだろう。嫌わないのだろう。いくらお隣さんで親同士も仲がいいからって、毎日一緒に食事しなくたっていいだろうに。


「……なあ、サヤカ、いつもありが」

「あ、そうそうシンゴ! 昨晩すごい交通事故遭ったんだって!!」


 僕の言葉を遮って、サヤカは大きめな声で話題を振ってきた。


「……交通事故」

「そう、あそこの、一本向こうの通りの交差点で。若い会社員の人がトラックにはねられたんだって。かわいそうだよね」


 どうして気が付かなかったのか。

 私はこの通りを知っている。いや、気付けないのも仕方がなかったのかもしれない。僕にとっては知っていて当然の道であり、風景なのだから。

 一ブロック先の交差点を見やると、そこは確かに、私が死んだ場所だった。



***



 そろそろ、僕も私も、パニックに陥ったり情緒不安定になったり、奇行に走ったりサヤカにこの状況を相談してみてもいいのかもしれない。

 いや、もしかしたら既に現在進行形で僕の頭がおかしくなっているのかもしれない。ただ単に、それが表面に出ていないだけで。誰にも気付かれていないだけで。

 僕は僕だ。同時に、私でもある。

 もしかすると、これが『死後の世界』なのかもしれない。そう、私にとっての。

 だとすると、これは何かの間違いなのだろう。僕にとっての『死前の世界』が、僕の身体を通して、私の『死後の世界』と重なってしまっているのだから。

 考えようによっては、本当に素晴らしいことだ。

 私は憧れていた、やかましくて鬱陶しくも健気でいつも味方でいてくれる幼なじみの女の子がいる青春時代を。

 僕にとっても、私が親に強制されて修めた学問と社会人として自立してから身に付けた技能を何の遜色もなく利用出来るのだから、学校の授業がさらに退屈になるくらいのデメリットしかない。

 これは、神が与えてくれたチャンスなのだろうか。

 私が経験出来なかった青春時代を、誰もが羨むような輝かしい青春時代を体験させてくれるように、便宜を図ってくれたのかもしれない。

 もしそうであれば、感謝しよう。誰にか何にかも分からないけれど、最大限の謝辞を贈りたい。

 けれども、気がかりもある。

 私は僕になるために、リョウコとナナコから、私を奪った。

 リョウコは、いま、どうしているのだろう。



***



 放課後、僕は私の家に向かった。

 可もなく不可もない、取り立てて新しくキレイなワケでもなければ古くさくてボロくもない、リョウコと、子どもが大きくなるまでは3人で十二分に生活していければいい程度の、賃貸マンションの一室だ。

 扉の前まで来て、私の気持ちが揺らぐ。

 僕が、リョウコに何を言えるのだろう。

 私だよ、とでも言おうというのか。

 悪い冗談だ。誰が信じるのだろう。

 何もしないのが正解に違いない。私に出来ることは何もない。

 しかし、僕はチャイムを鳴らしていた。

 その音がキッカケになったのか、扉の奥から赤ん坊の鳴き声が微かに聞こえてきた。


『……はい』


 インターホンから、リョウコの声。


「あ、あの……」

『……どちらさまでしょう?』


 私をカメラ越しに見ているリョウコには、僕の姿に見覚えはない。高校生男子が訪ねてくる理由も、まったく思い当たらないだろう。


「えと、ごめんなさい。ケイスケさんが、その、亡くなったって聞いて」

『……あの人の、お知り合い?』

「ええ、以前に、ちょっと」


 リョウコの声が途絶える。

 少しして、インターホン越しに、鼻をすする音が、聞こえてきた。


『……せっかく来て下さったのに、ごめんなさい。ありがとう』

「いえ、こちらこそ、すみませんでした」


 僕は、それ以上何も言えずに、その場を立ち去った。



***



 そろそろ夕食の時間だ。僕は公園のベンチに腰掛け、赤い地面に伸びる影を見つめていた。

 いいことばかりだと一瞬でも浮かれてしまった自分が恥ずかしかった。

 自分が死ぬということが、どれほど大変なことか思い知ってしまった。

 僕も死んだら、母や、サヤカが悲しく姿を見に来なければならないのだろうか。

 僕は泣いていた。私も、泣いている。


「シンジ、こんなところで何してるの?」


 僕の影のすぐ横に、女の子の靴。よく知っている靴だし、声も聞き慣れている。


「……サヤカ」


 いつもの僕だったら、泣き顔なんて死んでもサヤカに見られたくない、そう思って顔を拭うなり怒声をあげてサヤカを追い払おうとしただろう。

 何も言わずに、サヤカは僕の隣に腰掛けた。

 そして、ポツリと言う。


「やっぱり、あなたは素敵ね」


 サヤカの声だった。

 サヤカの声でしかなかった。

 驚いてサヤカの顔を見つめてみても、やっぱりサヤカの顔だった。

 でも、今朝起きたときのような、表現しがたい違和感が僕を襲った。


「本当に、心底楽しんでいるよね」

「楽しむ? 一体何を」


 くすりと微笑んで、サヤカが答えた。


「ロールプレイ」


 サヤカが何を言っているかまったく分からなかった。僕の知っているサヤカではなかったし、私の経験をもってしても、目の前の女の子の思考がまったく読めなかった。


「……まあ、こっちでこういう話するのも、ほんとはNGなんだけどね。うるさい人も多いから。あなたは、許してくれるよね?」

「なんだよ、さっきからその呼び方」

「じゃあ、こうしようかな……ケイスケさん?」

「な、なんで、私のことを……?」

「なんにも不思議じゃないでしょ。むしろ、噛み合っていないと思っているのはあたしのほう。どうして戸惑っているの?」

「戸惑わないほうがおかしいさ! サヤカ、なんでおまえは私を、ケイスケのことを知っている!?」


 激昂して問い詰めるが、サヤカは臆しない。

 ただただ、不思議そうに、僕を見つめている。


「記憶が、ないのかな?」

「記憶ならあるさ、ケイスケだった頃のも、シンジとしての十七年分もな」

「違う違う。まあ、たまにあるらしいとは聞いてたけどね……没頭しすぎて、熱中しすぎて、オンとオフの区別がつかなくなるプレイヤーって」

「オンと、オフ? プレイヤー、だと?」

「だからこそ、素敵だったのかもしれないね……リョウコとしてあなたに出会って、周囲の反対を押し切っての大恋愛、そして結婚……素晴らしい日々だった」


 サヤカが続ける。好きな漫画やゲームの話をするように、輝かしい笑顔で。


「ナナコが生まれて、二人で娘の成長を見守って、娘の結婚式で涙したり、静かな老後を過ごしてあなたの最期を看取る……楽しいイベントがまだまだあったはずなのに、まさか未亡人エンドだなんてね。でもまあ、青春時代はあなたと過ごせていなかったから、お預けになった分はシンジとサヤカとして楽しめばいいよね」

「ちょっと、ちょっと待ってくれ」


 頭が追いつかない。

 サヤカは何を言っている? サヤカの頭がおかしくなってしまったのか?

 それとも、僕の頭が、私の精神が異常なのか?

 世界が、壊れてしまっているのか?


「まったく、意味が分からない。まずだいたい、どうして私は、僕なんだ?」

「……本当に大丈夫? しっかりしてよ」

「しっかり出来るはずがないだろう! 私は死んだのに、何故僕になっているんだ!?」

「そんなの、そういう風にアカウント管理で設定しておいたからでしょ」

「アカウント、管理? 設定……?」

「あなたの場合、三十五年連続ログインだったからかなりのボーナスがついてたのよね、だからアカウントの一つがダメになってもすぐにサブの、メインでは成し遂げられなかった人生を成功させているサブアカウントにすぐ移れるようになっていたの」

「い、いったい何の話を……」

「普通、そう簡単にはサブアカウントって作れないのよね。だからこそ、新しいアカウントを用意することに躍起になるっていうか、それを目標にしているプレイヤーがほとんどなワケなんだけど……あたしはそこまで興味なくってね。それも、あなたに出会えていたから」

「それは、どういう」

「もう、恥ずかしいなあ。あなたと過ごす人生だけで十分だって思ったからだよ。でも、不慮の事故っていうのはどうしてもあるからね。あなたの取得していたサブアカウントに親しいアカウントも確保しておいて正解だったよ」


 サヤカの言うことが何一つ理解出来ない。

 無理矢理にでも解釈しようとすれば、その瞬間、僕が私が世界が、確実に崩壊してしまう。


「とにかく、シンジとサヤカの青春を楽しもうよ? 終わったアカウントのことは忘れて、さ。大好きだよ、シンジ」


 そう言ったサヤカは微笑んだ。夕日を浴びて、照れたように、頬を染めて。


「わ、忘れられるワケないだろうっ!? 私が死んで、リョウコもナナコも、これからどうすればいいんだよ!? 家族を無視して、なかったことにして生きられるかっ!!」

「うーん……そこまで入れ込んじゃうと、引く人は引くよ?」

「黙れッ!!」


 俺は狂ってしまったのだ。私も病んでしまっているのだろう。世界だってとっくに終わってしまっている。そうに違いない。だから、サヤカだって、おかしくなってしまっているのだ。

 私は覚悟を決めた。私は死に、シンジという名の男子に転生した。

 これは神が定めたことだ。人智を超えた、何かの仕業だ。

 理由も原因もなんだっていい。私は僕だろうと、リョウコを愛し、ナナコを守る。


「ふうん。そっか。じゃあ、あたしも古いアカウントは処分しよっかな」


 サヤカのその一言に、いまだかつて感じたことのない、言いようのない狂気を感じた僕は、私の家に向かって走り出した。



***



 息を切らして辿り着いたマンションは、カラスの鳴き声がどこからか聞こえてくるくらいで、いつものような静寂を保っていた。

 私はチャイムを鳴らす前にドアノブに手をかけていた。開かない。鍵がかかっている。

 ドアを叩き、インターホンのボタンを連打する。

 インターホンからの応答はなかったが、すぐに解錠された音が聞こえた。


「……リョウコ!」

「おかえりなさい、ケイスケさん」


 ドアから現れたリョウコはいつものように微笑んでいて、家では見たことのない肉厚なナイフを顔の高さまで持ち上げていた。

 私が短い悲鳴をあげかけた瞬間、ナイフが煌き、リョウコは自身の喉を掻き切った。

 喉が裂け、頸動脈にも刃が達していた。壁も天井も濡らし、出血の勢いに押されてリョウコはその場で半回転してから崩れ落ちた。

 あまりに唐突な出来事に、倒れゆくリョウコの身体を抱きとめることも出来なかった。


「……処分完了。あんまりやりたくはなかったんだけどねー」


 叫び声をあげようにも、私の喉も裂かれてしまったかのように、声が出なかった。生気のない瞳を開けたままがぼがぼと血を吐くリョウコに、影が差す。サヤカだ。


「でも、これで未練はないでしょ? シンジはあたしと一緒に人生楽しめばいいんだよ」

「あ、ああ、ああああああっあああぁあ!!」


 僕はリョウコの手からナイフを取り、サヤカの胸へと突き立てた。

 きょとんとして自らの胸に押し付けられているナイフの柄と僕の手を見つめ、サヤカは心底不思議そうに、首を傾げた。


「なんで、こんなこと、するの、かなあ」

「うるさい……だまれ……」


 ナイフを握る手に力を込め、固いフタを開けるようにナイフをひねった。


「ぐぶっ……ふ、ふ……好きな、ひとに、ころされる人生も、れ、あ、だね……」


 血を吐き、サヤカは倒れた。

 どうして、どうしてこんなことになってしまったのだろう。

 いったい何が悪かったのか。死んだ私が悪いのか? 私を消去しきれなかった僕が悪いのか? 私をはねた運転手が元凶か? それとも、サヤカのような、得体の知れない『プレイヤー』たちのせいなのか?

 分からない。分からない。私は、僕は、すべてを失ってしまった。

 いや、まだだ。

 私は、硬直しきってしまった手から力を抜いて、ナイフを落とす。血まみれのまま、ふらつく足取りのまま、自宅へと入っていく。

 私にはまだ、ナナコがいる。

 リョウコはサヤカのせいで自殺し、サヤカは私に殺された。僕の人生も、血にまみれて、もう終わったようなものだ。

 リビングの中央、ベビーサークルの中で眠るナナコをそっと抱き上げた。

 ナナコの人生だけは、絶対に、守らないといけない。


「しあわせになろうね、おとーさん」


 ナナコが、喋った。

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