第一節 第三楽章 コンサートマスター譜
私が目を覚ますと、ゆさが私を包み込むような体勢で眠っていた。すごく温かい。
(ぐぅ……。)
お腹の虫はところかまわず鳴いちゃう。
確かに私はいまお腹空いてる。けど、この温もりの余韻に浸ってるときに、わざわざ鳴かなくたっていいじゃない。
目の前の彼女の二の腕に少しだけ噛みつきたくなっているこの自分の感情。いったいなんなんだろう。
ついでに言えば、私が着ているミルク色の薄手のニット生地ワンピースの裾が
おかあさんといえば、ナニか言いそうになってたような……。
あぁ、思い出した。「研究員の頃」だ。
いったいおとうさんとおかあさんはなんの研究をしていたのだろう。私の脳裏では孤児院で本を読むなかで生まれた様々な疑問が
そのなかを
「どこまでが本当にあることで、どこからがファンタジーなのか。」
毒の
知りたい。
食欲と関係しているのかは知らないが、こんな、絵本に出てくるようなオカルトへの知識欲は、加速していく一方だ。
ゆさには悪いと思いつつ、私の身体に乗っているゆさの右腕をどかし、身体を起こす。
この部屋に窓がないのは、孤児院で私が屋外で遊ぶことを禁止されていたことに、もしかして関係しているのかな。
陽射しがダメな生き物といえば……、あれ、もしかしたら私、本当は吸血鬼なのかも。
バカバカしいことを私はまた考えてしまった。ゆさと逢ってから、私はこんなことを考えてしまうようになった気がする。孤児院でのゆさの在り方は、私のように、室内で大人しく座って、ひたすら本の世界に浸っている印象より、外で遊びまくっている印象の方が強い。
悪い気はしないが、ゆさの性格が少し私にも移ったのかもしれない。
ベッドが備え付けられている壁の反対側には、閉ざされたこの部屋の扉があり、その隣には一際大きな古時計が据え置かれている。しかし、扉の横にあるのはわかるのだが、遠近感が狂うほど、その時計の背丈は扉のそれを
いくつかの謎を
時計が指し示す時間を知るべく、私は眼を
……あの時計、針だけ
これは昔からなのだけど、本の中の漢字の小さなふりがなを読もうとしたり、夜眠れなくていまのように時計の針を視ようとしたり、とにかく私が”眼”に集中すると、なぜか、私の視界はやや
「五感は誰とも共有できないから、先生にも分からない。」と孤児院の頃は言われていたため、孤児院の他の子たちにはなにも言わなかった。それにそもそも、わざわざ視覚に集中するようなことが、他の子たちの前で起きることは一度もなかった。
とりあえず、ここから視えないのなら、ベッドを降りて近くで視るしかない、か。
常に屋内行動しか許されていなかった私としては、今日だけでかなり体力を消耗している。おかげでさっきまで眠ってしまっていたのだけど。
「あ……っ。」
降りようとして気付いた。私の右手とゆさの左手がしっかり結ばれていることに。ゆさを運んでいるときは全く意識してなかったけど、これって……、恋愛小説を読んで知った、いわゆる恋人繋ぎというものなのだろうか。お互いの指と指とが交互に重なり絡み合っている。本来なら男女でするものなのだろうけど、私は、ゆさとのこれを、不思議と嫌だとは思わなかった。
「……
夢の中にいるゆさに語りかけても無駄なことは分かっているが、私はいま少々強引に、絡み合った互いの指を外していっているのだ。ゆさにも多少の痛みはあるだろう。
全ての指を解き、私はベッドからカーペットが敷き詰められた床に足を降ろし、古時計へ歩を進める。
来月から小学生になる私の部屋に机と椅子がないことに少々違和感を覚えていたが、なるほど、このベッドはけっこう面白い作りみたいだ。
このベッドの脇には細い
他にこの部屋にあるものは……、うわ、あまりにも異様すぎて全然気付かなかった。
この部屋の出入り口の扉と
そこにあるのは、天井と一体化した本棚だった。
しかも、ほぼ埋まっている。一冊取り出してみたが、それは絵本や教科書ではなく、ほとんど読んだこともないような漢字で埋め尽くされた分厚い本。とても子ども向けとは呼べない代物だ。
おかあさんの言葉と繋げるなら、きっとこれは”研究書”というものだろう。もしかしたらおとうさんやおかあさんが関わっていた研究の資料かもしれない。
私が唯一、背表紙に記されたタイトルを読めたのは"神が作りしタロット"という本だけだった。ゆさが起きたら一緒に読もう。
さて、そのままの意味で、よそ見が過ぎた。
私は改めて時計へ向かう。
古時計の時刻盤の下には、
見上げた先の時計盤を回る二種の針。
長い方は十二を指し、短い方はちょうど七のところを指していた。
「七時……か。けっこう長く眠ってしまってたみたい。」
けど、おとうさんたちが起こしに来ないということは、夕飯はまだできあがっていないのだろう。
部屋の扉を開けて、ほぼ未知の別領域に自ら足を踏み入れることは、いまの私には簡単なこと。けど、私はそれを選ぼうとは思わなかった。おかしなことかもしれないけど、ゆさと同じ空間にいないと私自身がおかしくなってしまいそうな予感があったから。
とはいえ、この部屋にはベッドと両壁に詰め込まれた読解不能な本、そして目の前にたたずむ古時計しかない。
どうしようかと小首を傾げる私の視界に、この部屋のどんなものより不可解で気味の悪いものが入ってきた。
古時計の下。振り子の前を閉ざしている硝子戸にそれは写っていた。
いや、写っていたのではない。だがそれが、当時の私を恐怖させていたのだ。
そう。写っていなかったのだ。
家中に私の叫び声が響き渡るまでに、そう時間を要することはなかった。
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