Episode4-1 陽炎の困惑

 酷い目に遭った……。死神、陽炎として生を受けてこの方、ここまで訳の分からない人間に遭遇したことがあっただろうか。いや、ない。死神が暮らす冥界においても、同性愛というものはある。誰かが誰かを愛することは普遍的なもので、その相手が同性か異性かというだけの違いだ。だから橘結芽と小此木百合がそういう関係にあったとしても、それに対して私がどうこう言う立場にないことくらいは分かる。

 分からないのは……変化の術を使って小此木百合に変身した私を抱くのみならず、元の姿に戻った私までをも手籠めにしたことだ。存在の力が十全にある状態なら、あんな小娘相手に自由を奪われたりしないというのに……。じくじくと疼く身体はなかなか冷めてはくれない。


「どうして私がこんな目に……」


 元はと言えばこのエリアで存在の力を奪い続けるあの悪魔、シュレイドを早々に討伐出来ていればこんなことにはならなかったのだ。ヤツの使い魔は強力だが民間人が迂闊に通りすがらなければ勝機はあったはず。……だが通りすがってしまった理由は私の張った結界が脆かったせいだろう。そうでなければ、あまりにも運が悪すぎる。全ては自身の責任に帰結しないと、悔やむに悔やみきれないじゃないか。


「陽炎、お風呂湧いたわよ。入っちゃいなさい」


 言われてしぶしぶ浴室へ向かう。本来なら死神の力で老廃物などは一掃できるのだが、そうするだけの力すら残っていない状態の私は、衛生的でいるために入浴が必要だ。


「着替えは?」

「これがあれば平気だ」

「……え、いや」


 そう言って私は小此木百合の思念が篭った簪を持ちだした。橘結芽は何か言いたげだったが、言葉にならない様子だった。

 簪に蓄えられた力、加えてあの橘結芽が形状変化に使った力がまだ残っており、それを使うことで小此木百合の姿になるための術は行使できる。衣服も彼女の記憶から拝借することでどうとでもなる。

 今まで身に纏っていた死神の装衣は存在の力を行使して発現させていたものであるため、力のほとんどを失ってしまった私には作り出せなくなってしまった。裸身のまま浴室へ向かうことに僅かながら抵抗はあったが、橘結芽以外に人気がないこともありそのまま浴室へ向かうことにした。場所そのものは小此木百合の記憶から割り出している。

 既にタオルの用意された脱衣所を通り過ぎ、それなりに広い浴室でシャワーを浴び、焦げ臭さやベタつきを洗い流す。二種類用意されたうちの、小此木百合が記憶の中で愛用していたボディーソープとシャンプーでそれぞれ身体と髪を洗い、泡を流して浴槽に浸かる。


「小此木百合、か」


 一度変化した対象の記憶は元の姿に戻ろうと、ある程度の間は保持される。おおよそ一ヶ月といったところか。ふと、入浴らしい入浴はいつ振りだろうかと記憶を辿る。が、私自身としての記憶では思い出せないくらい過去のようだ。身体から力が抜け、ほぐれていくような感覚はなかなかいいものだ。


「ん、んぅ~。ふぅ」


 一頻り入浴を満喫すると、浴槽から上がり扉を開ける。バスタオルで全身の水気を拭き取る。かつては水に濡れようと念じるだけで蒸発したというのに、不便なものだ。とはいえ、簪で髪を結ってから髪を乾かすと簪が熱を持って髪が傷む。小此木百合の髪は簪でまとめられる程度には長いが、それでも私本来の髪の方が長い。日頃は手入れを要さないから、とうとう背中の真ん中より下に毛先が来てしまったくらいだ。座って乾かそうものなら毛先が床につきかねない。


「……仕方ない。切るか」

「ちょっと待った」

「……橘結芽」

「その長い髪じゃ乾かしにくいだろうなと思って来てみれば、そんな綺麗な黒髪切ろうとするんじゃないわよ」

「……私は元々燃えるような赤い髪をしていたのだがな」


 まあいい。焦げ付いた炭のような色になってしまったのも私の軽率な行動のせいだ。……残念なことに。


「髪が乾いたら今後についてだな……」

「明日でいいじゃない。貴女にも睡眠が必要でしょう? それとも、お腹が空いたかしら?」

「……空腹感はあるが、支障ない。睡眠も……うぁ」


 ……退屈以外で欠伸が出るなんて。これが死神の力をほぼ欠いた、人間に近い状態になってしまった私か。確かに休養が必要だな。


「簪をさして寝るわけにはいかないでしょう。客間に布団と私の着替えを用意したわ。それを着て寝なさい」

「……意外と甲斐甲斐しいのだな」

「まぁね。貴女をこうしてしまったことに、僅かなりとも罪悪感もあるし。協力を惜しむつもりはないわ」

「……そうか。礼を言う」


 私が謝意を表したことに照れたのか、ドライヤーを置いて橘結芽はさっさと脱衣所を後にしてしまった。まぁ、髪はきちんと乾いていたのだが。

 私は小此木百合の記憶を辿って客間へ足を運んだ。既に布団が敷かれており、その側には日本特有の肌襦袢が用意されていた。肌触りのいいそれに袖を通し、就寝することとした。

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