宮掛秋とそれを取り巻く人々の話
ひよ
第1話 秋の一日 上
こほこほ。けほけほ。苦しい時は、いつもお兄ちゃんがいてくれる。だから大丈夫。僕は明日も、大丈夫。
重い瞼が、自然と持ち上がる。横向きになった体は窓のほうを向いていて、視線はカーテンから漏れる陽の光に釘付けになった。
朝が来た。苦しい夜が明けて、朝がやってきた。
僕は腕の力だけで体を起こすと、枕をベッドの背の部分に置いて、そこに体を預けた。くわぁと欠伸が漏れる。昨日は眠れなくて、少しだけ夜更かししてしまったから、目覚めがあまり良くない。
僕は暗い部屋で、お兄ちゃんがやって来るのを待つ。カーテンを開けたり、学校へ行く準備をしたりしたいのだけど、僕はあまり一人で歩かないように言われている。僕の不気味に曲がった足は、ほんの少しの段差や物にもつまづいてしまうから。お兄ちゃんが支えてくれる距離にいないと、あまり立ってはダメ。
朝なのに暗いのは気持ち悪い。僕はベッドサイドランプの灯りをつけた。そして、ぼんやりと照らされる室内の、大きな時計を探す。そして、お兄ちゃんがくる時間を確認するのだ。お兄ちゃんはいつも同じ時間にやってくる。だから、時計を見れば、お兄ちゃんがいつ来るのかすぐにわかる。
時刻は朝の五時四五分だった。お兄ちゃんが来るまで、あと一五分。僕はそれに少しだけがっかりして、体が冷えないようにもう一度ベッドに横になった。
暗い中目を開けているのは疲れてしまう。何を見ればいいのかわからなくて、頭が混乱してしまう。だから、僕は眠らないように気をつけて目を閉じた。目を閉じると、一階から物音が聞こえた。お皿が触れ合う音。誰かが歩く音。もごもごと、人の話す声。お兄ちゃん達の音だ。
いいな。僕もそこに行きたい。だけど、一階と二階の間には長い階段がある。僕はそこを一人で降りることも精一杯。一度一人で降りようとして踏み外したことがある。まだ幼いころのことだからあまり覚えていないけれど、お兄ちゃんやお父さんの泣きそうに歪んだ顔だけは忘れることができない。僕はそれから、絶対にもうしないと誓った。みんながあんな顔になるのは、もう見たくなかった。ただでさえ僕は、心配をかけてばかりなのに。
僕は目を瞑って、今日の予定を考えた。お兄ちゃんが部屋にやってきたら、おはようと声をかける。そして、僕の名前と同じ、秋の季節になったから、寒くないように上着を羽織る。手を繋いで一階に降りたら、みんなと挨拶する。お父さんは今日帰ってくるのかな? 拓真お兄ちゃんに、それを聞く。いただきますをして、ご飯を食べる。朝の元気ニュースを見て、歯を磨く。孝仁お兄ちゃんと二階に上がって、学校の準備をする。制服を着る。重成お兄ちゃんと、吉お兄ちゃんと、孝仁お兄ちゃんと、玄関に向かう。そして、拓真お兄ちゃんに向かって……
「おっはよーう!」
ばばーんと効果音がつきそうな勢いで部屋に入ってきたのは、孝仁お兄ちゃんだった。僕は思考を中断して、お兄ちゃんに微笑みかける。
「今日は孝仁お兄ちゃんだ。おはよう」
「んー、おはよう! 今日も我が家の天使は健在だな! よしよし」
孝仁お兄ちゃんは僕の近くに歩み寄ると、僕の頭を抱きしめてうりうりと撫でてくれた。それが気持ち良くて、僕は思わずその胸によりかかってしまう。
拘束が解かれて、孝仁お兄ちゃんが遠くにいくと少し寂しい。でも、あまりそう思っちゃいけない。僕はもう、小学六年生なんだから。
孝仁お兄ちゃんがカーテンを開ける。一気に増えた光量に僕は目を細めた。
「今日は寒いんだって。拓真が言ってたよ。あー、今日はどれを着せてやろうかなぁ」
孝仁お兄ちゃんは鼻歌を歌いながら、ベッドの正面にあるクローゼットを覗いていた。あまりに奥まで探すものだから、そのまま孝仁お兄ちゃんが吸い込まれてしまうのではないかなんて思ってしまう。
孝仁お兄ちゃんはぴたりと動きを止めると、「これこれ!」と言って赤色のカーディガンを取り出した。肩のあたりに白いお花の刺繍がされたそれは、少し女の子っぽい。この季節になると、お兄ちゃん達の趣味が少し垣間見える。孝仁お兄ちゃんは、可愛いお洋服が好き。
孝仁お兄ちゃんが近づいて、僕にそれを羽織らせてくれる。袖に腕を入れて着たのを見届けると、孝仁お兄ちゃんは満足したように大きく頷いた。
ふかふかの掛け布団が、孝仁お兄ちゃんの手によって避けられる。突然やってきた冷機に、僕はわずかに肩を竦めた。
僕は、掛け布団の下から現れた自分の足を見て、反射的に眉をひそめた。そこには、Oの形に変形した足が二つある。あまりにも曲がっていて、見るに堪えない。
「足痛くない? 大丈夫?」
孝仁お兄ちゃんがそう聞くので、僕はこくりと頷いた。
「良かった。じゃあ、下に降りようか」
孝仁お兄ちゃんは王子様みたいに僕に手を出した。これはいつものことなのだけど、これを見るたびに、僕はまるでおとぎ話のプリンセスになったかのような気分になる。孝仁お兄ちゃんは、王子様でも通用するくらい格好いい。
孝仁お兄ちゃんの手を取って、ゆっくりと足を外に投げ出す。そしてこれまたゆっくりと床に足をつけた。立ち上がるとき、孝仁お兄ちゃんの手をぎゅっと握りしめる。足が大きく変形しているため、上手く足裏に力が入らないのだ。酷い時は、そのまま転んでしまう。孝仁お兄ちゃんもそれをわかっているから、僕の腰に手を当ててくれている。
「ゆっくりね、急がなくていいから」
孝仁お兄ちゃんがそんなことを僕に言う。僕は笑顔で頷いて、そのままゆっくりと歩き出した。
扉を開けてすぐ、正面に階段はある。二人で並んで歩いても、なんなら三人で並んで歩いても余裕なほど広い階段だ。僕の片手は手すりを、片手は孝仁お兄ちゃんの手を握って、一段一段降りていく。僕の一日の試練は、この上り下りだ。とても大変で、とても疲れる。ただでさえ歩くのは得意ではないから、たったこれだけでも額には汗がにじむのだ。
お兄ちゃん達は、僕の補助に嫌な顔一つしない。僕がいなければ、こんな階段さっさと降りて行けるのに。僕はそれが申し訳なくて、でも同時に少し嬉しい。こんなに優しいお兄ちゃん達がいることが、嬉しい。
最後の一段を上り終えると、孝仁お兄ちゃんは決まって言う。
「よくやった! さすがは俺の弟だ!」
孝仁お兄ちゃんは感極まったとでもいうように、僕を持ち上げて髪がぐちゃぐちゃになってしまうくらいに撫で繰り回す。
「大したことしてないよ、でも、ありがとう」
僕はその時々で思ったことを口にする。そうしていると、リビングの扉が開くのだ。
「まーた二人で遊んでる! 寒いんだから、早くリビングに入りなよ!」
少し高めの声の、その主は、吉お兄ちゃんだ。クリーム色の髪の毛が、今日もふわふわと遊んでいる。僕はそれが綿菓子みたいで、いつも触りたくなってしまう。
「悪い悪い、んじゃ、入ろうか」
孝仁お兄ちゃんに下されて、僕はまたゆっくりと歩いてリビングに入る。吉お兄ちゃんとすれ違うときにはちゃんと「おはよう」と挨拶をした。吉お兄ちゃんも、それに笑顔で答えてくれる。
リビングには朝ごはんの香りが漂っていた。ベーコンの良い香りがする。
「重成お兄ちゃん、おはよう」
「あぁ、おはよ……」
ソファで新聞を見ていた重成お兄ちゃんに、まずは挨拶。そしてから目の前のテレビを確認すると、僕の予定通り、朝の元気ニュースがやっていて安心した。
「廊下でわちゃわちゃしてた二名確保しましたー」
吉お兄ちゃんがそんなことを言いながら、キッチンに入っていく。キッチンには、エプロン姿の拓真お兄ちゃんがいた。拓真お兄ちゃんは僕と目が合うと、にこりと微笑んだ。目元の黒子がクールだ。
「秋、おはよう」
「おはよう」
僕はそう言いながら、ダイニングテーブルの椅子に座る。孝仁お兄ちゃんはその横に座った。
「昨日の夜、寒くなかった? 外は結構荒れてたけど」
拓真お兄ちゃんがそう言いながら、ベーコンと目玉焼きののったお皿を二つテーブルに持ってきた。孝仁お兄ちゃんはそれを見て口笛を吹いている。
「寒くなかったよ。そっか、だから葉っぱがあんなに落ちてるんだ」
僕はリビングから見える木の下を指さした。地面には、まだ散るには早い緑の葉も落ちている。
吉お兄ちゃんがご飯が盛られたお茶椀を持ってきてくれた。お味噌汁がないことに気が付いて咄嗟に動こうとすると、拓真お兄ちゃんがそれを制する。そしてすぐに用意してくれた。
「僕もお手伝い、できるよ?」
「じゃあ、食べ終わったら流しに出すのをお願いね」
笑顔で言われたけれど、僕は少し不満だった。なぜなら、それはいつもしていることだ僕はもっと、お兄ちゃん達が助かるようなことをしたい。
僕は渋々箸を持って、ご飯に手を付け始めた。隣の孝仁お兄ちゃんは、既に半分ほど平らげてしまっている。僕はお味噌汁に映る自分の顔を覗きこんだ。
僕は食が細い。たくさん食べると戻してしまうから、あまり多くは食べられない。戻すのはお兄ちゃんに申し訳ないし、僕も辛い。だからご飯は少なめにしてもらうけれど、隣に座るお兄ちゃんのご飯の量を見ると、僕は落ち込んでしまう。元気に、大きくなるためにたくさん食べるようにとお医者さんにも言われているのに、僕はそれができないのだ。
「えっ、もういいの?」
僕がお箸を置いたのを見て、拓真お兄ちゃんが驚いたように声をあげた。そして、すかさず僕の元にやってきて目線の位置を合わせると、僕の額に手をやる。拓真お兄ちゃんの手はあったかい。前にクラスのお友達が「手が冷たい人は心があったかくて、手があったかい人は心が冷たい」と言っていたけど、それはきっと嘘だと思う。だって、拓真お兄ちゃんの手は温かいけれど、とっても優しいから。
「熱は無いみたいだね」
また、僕の脈拍も測るが、「うーん」と首を傾げるだけだ。
「僕、どこも悪くないよ」
「……そう、だね。よし、じゃあごちそうさまだね」
拓真お兄ちゃんはそう言って、どさくさに紛れて僕の食器を片付けようとした。僕はすかさずそれを止めて、床に降り立つ。
「僕やるから、お兄ちゃんは座ってて」
上手く力の入らない足を踏ん張って歩く。食器を落とさないように、躓かないように。お兄ちゃんはハラハラした様子で見ていたけれど、僕が流しに食器を置いたのを見届けると、安堵したように息を漏らした。
「ありがとう、秋」
お決まりのように、僕は撫でられる。心地の良い時間だ。
孝仁お兄ちゃんと二階に戻って、学校の準備をする。孝仁お兄ちゃんは孝仁お兄ちゃんの準備があるから、今度は階段で待ち合わせ。お兄ちゃんは僕の部屋から見て左から二つ目のお部屋に入っていった。
僕はランドセルを引っ張ってきて、その中に教科書を詰めていく。時間割には、国語、図工、理科、算数、音楽、と書いてあった。六年生にもなると普通は六時間授業なのだけど、僕は養護教室に通っているから、一番長くても五時間目までしかない。月曜日と水曜日だけが五時間授業で、他の曜日は四時間授業になっている。
時間割を揃え終わる。僕はランドセルを持って階段に行こうとして、ふと立ち止まった。普通であればこの後はお兄ちゃんに手伝ってもらって着替えるのだが、ここで自分一人でそれをやってみせたら、お兄ちゃんはどれだけ驚くだろうか。
僕は、お兄ちゃんが驚いて目をキラキラと輝かせる場面を想像した。すると、まるで僕の心も浮き立つかのように嬉しくなった。
僕はランドセルを置いて、よたよたとクローゼットに近づいた。そして、その中から適当に今日着ていく服を厳選していく。赤いカーディガンだから、あまり喧嘩をしない色がいい。そうだ、白にしよう。ジーンズを履いてみたいな。あ、でもジーンズは買ってもらえないんだった。水色のズボンにしよう。上手く履けるかな。
片足で立つことはできないから、僕はまずベッドに座った。そしてパジャマを脱いで、少しずつ湾曲した足にズボンをはかせていく。本当は両足同時に履きたいが、いかんせんそんな高度なことはできない。足が綺麗に閉じないから、ズボンを履くのは大変だ。僕にズボンを履かせるのは、すごく大変なことなんだ。お兄ちゃんはいつも、それをやってくれていた。これからは、僕一人でも履けるようにならなきゃいけない。
ゆっくりと立ち上がって、お尻までズボンを履いたら完成だ。僕は自分で履けたことが嬉しくて、一人なのにニヤニヤとしてしまった。
長袖のトップスを着て、カーディガンを羽織って、着替えは完了だ。僕は今度こそランドセルを持って階段に出た。
「遅いから心配した……ぞ」
孝仁お兄ちゃんは僕の姿を見て、出目金のように目を大きく見開いた。
「一人で着替えたのか?」
「うん! すごいでしょう。僕、もう一人でできるんだ」
上手く動かない足で、その場で一回転する。それでも数秒放心していた孝仁お兄ちゃんだったが、はっと我に返ると、満面の笑みで僕を抱きしめた。
「すごい! すごいぞ秋! これは拓真たちに報告だな!」
「うん! あっ!」
階段を降りようと手を繋ごうとしたら、孝仁お兄ちゃんはまるごと僕を抱えて階段を降り始めてしまった。素早い動きに目が回っていると、僕はいつの間にかリビングに立っていた。
「見ろ! 秋が、自分で着替えたぞ!」
孝仁お兄ちゃんが膝立ちになり、両手をひらひらと僕に向けて振る。ダイニングテーブルでプリンを食べていた吉お兄ちゃんの動きは止まり、後ろにいる重成お兄ちゃんのメガネがぱりんと割れる幻聴が聞こえ、流しで洗い物をしてい拓真お兄ちゃんはお皿を落としたようだった。僕は思わず苦笑いを浮かべる。
一瞬の静寂の後、お兄ちゃん達は僕のほうに猪のように突撃してきた。しかし、ちゃんと僕への配慮を怠らない。ぶつかる! と思った瞬間に、その温かい腕に抱きこまれている。
「すごいよ秋! もう一人でできるようになっちゃったんだね!」
と、拓真お兄ちゃん。
「これからたくさんお洋服屋さん行こうよ! ていうか連れていく!」
と、吉お兄ちゃん。
「いつかやるとは思っていたが、まさかこんなに早いとは……」
と、重成お兄ちゃん。
「うぉおおお、うぉおおお」
と、孝仁お兄ちゃん。
一人一人が一気に声を発するので、僕にはそれ以上言葉をすくいとることができなかった。しかし、お兄ちゃん達の言葉に否定的なものが一つもないことだけはわかる。ここまで喜んでもらえるとは思わなかった。くすぐったい、くすぐったいな。僕はそう思いながら、恥ずかしさでくすりと微笑んだ。
ひとしきり騒いだ後、そろそろ出発の時間となっていた。僕は靴を履いている途中に、「そういえば」と拓真お兄ちゃんを振り返った。
「お父さん、今日帰ってくる?」
そう聞くと、拓真お兄ちゃんは眉を下げた。それだけで、答えがNOであるとわかってしまう。
「今、いろんなところに引っ張りだこで忙しいみたい。今月は、帰ってこれそうにないって」
「そっか……」
僕たちのお父さんは、お医者さんの先生だ。お医者さんになりたい人に、教える人。もともとはお医者さんだったけれど、働きが認められて引き抜かれたらしい。だから、今はあちこちを転々としていて、あまり帰ってこられない。
「何か、伝えたいことがあるの?」
「ううん……。ただ、会いたいなって」
拓真お兄ちゃんは、その一言に悲しそうに眉を寄せて、僕の頭を撫でた。
「大丈夫、すぐに帰ってくるよ」
「うん……」
頷いたものの、僕は俯いてしまう。お父さんに伝えたいことがないわけじゃない。お父さんは、僕がお兄ちゃん達にも話せないことを話せる、唯一の人だから。
二人で沈黙してしまっていると、その横に影が差した。見上げると、格好良く口角を上げた孝仁お兄ちゃんがいる。
「なーに二人で辛気臭い顔してんだぁ? こんなに気持ちの良い朝なんだから、もっと笑っとけよ!」
「そうそう。僕なんて、このあと大っ嫌いなレポートの発表あるのに、なぜか笑っちゃってるもんね!」
吉お兄ちゃんもやってきて、靴を履きながらそう告げる。そのまた横の重成お兄ちゃんも、こくこくと頷いた。
「……ありがとう、三人とも。よし! じゃあ俺も家事頑張るから、四人は元気に行って来い!」
そう言って、拓真お兄ちゃんは僕を立たせると、背中を押した。僕は少し躓きそうになるが、両手を孝仁お兄ちゃんと吉お兄ちゃんが握ってくれる。
「いってらっしゃい!」
「「「行ってきます」」」
「行って、きます」
拓真お兄ちゃんに見送らて、僕たちは家を後にした。
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