XIV.そして来る朝の光

 焼け野には、まだ煙の臭いが燻っていた。

 たなびくヴェールのような光が金色と灰色の陰影を描き、終焉の静寂を掘り起こす。教会の跡地には燃え落ちた残骸が積み重なり、庭の白薔薇もすべて灰と化した。

 ざくりと半長靴ブーツの踵が沈み、燃え滓が舞い上がる。ぼくは被っていた鳥打帽を脱ぎ、いちめんを見回した。

 うなじにかかる程度に短く整えた髪が朝の風に揺れる。目立たないよう染め粉を使い、今は暗い栗色に見えるはずだ。仕立てたばかりの上着に胴着ベスト、丈の短いズボンを着込んだぼくを見て、女の子だとわかる人はいないだろう。

 ルネ・マリアンヌ・エカラット――この街を出たらぼくが名乗る新しい名前だ。『マリアンヌ』は養父となるクロード老の亡くなった夫人の名前で、ぼくがかれの遺産相続人であることを示しているらしい。本当は家名も変わるはずだったが、どうしてもと希望して『エカラット』を残してもらった。

 深く息を吸いこむ。きっちりとタイを締めた首元が窮屈で仕方ない。

 炎の残り香に春の匂いがまじる。街を閉ざしていた冬は雪とともに溶け去り、次の季節へ向かって時計の針は動き続けていた。

 あの夜から三週間が経った。

 ミシェルの腕の中で意識を失ったぼくが目覚めると、見知らぬ宿ホテルの一室だった。げっそりとやつれた顔のテオドール氏にこっぴどく叱られたあと、教会が焼失したこと、黒髪の神父と赤毛の侍童が行方不明扱いになっていることを聞かされた。

 テオドール氏は旧王都行きの汽車に乗る直前、人語を話す・・・・・大鴉に教会の火事を知らされたという。半信半疑で街に戻ってみると、教会は炎に包まれて大騒ぎになっていた。唖然とするテオドール氏の前に再び大鴉が現れ、人目を避けるように路地裏に倒れていたミシェルとぼくを発見した。

 滞在していた宿にぼくたちを運びこみ、先に意識を取り戻したミシェルから一連の詳細を聞かされたらしい。「テオドールさんの保険のおかげで助かりました」とお礼を伝えると、「きみには今後一切凶器は持たせられん。人智の及ばぬ用心棒ができたのだから、その必要もないだろう」と嫌味を返された。

 空から羽ばたきが降ってきた。

 右肩にすっかりなじんだ重みが乗る。艶やか紫檀色を纏った大鴉が顔を覗きこんできた。

『そろそろ汽車の時間だよ、ルネ・マリー』

 黒いくちばしが開き、滑らかな男性の声が耳朶をくすぐった。

 ぼくは苦笑いを返した。

「なんだか慣れないなぁ、その呼び方。ケツがむずむずするよ」

『養父殿のところへ行けば、いやでも慣れなくてはいけないよ。間違っても『ケツ』だなんて口にしないほうがご老体のためだ』

「……気をつけるよ」

 ついこの間まで『靴磨きのルネ』だったのに、旧王都に着けば『マリーお嬢さん』として暮らしていくのだ。病床に臥しながら養女の到着を待ち侘びているクロード老は、愛弟子の忘れ形見に不自由のない少女時代を送らせたくてたまらないらしい。

 養子縁組の手続きが済んだことを知らせる手紙には震える筆跡で、早く会いたい、大きくなったぼくの顔を見たいと切々と綴られていた。マリーという可憐な呼び名は、かれの大切な女性のものだったはずだ。

 それを許されたぼくは、きっと愛されているのだろう。もしかしたら、クロード老も手放してしまった愛弟子や喪った家族の存在を重ねているのかもしれない。

 ――ぼくは、ぼくにしかなれない。ぼくでしかあれない。だが、クロード老がぼくに託した面影もまた、ぼくの一部だ。

 母が最期までぼくに映し続けた父の姿のように。

 ……療養所に送られた母を訪ねたときには、彼女の心はすでに地上になかった。

 老女のように病み衰えた母は、少年の出で立ちをしたぼくを見て、帰りを待ち続けた恋人の名前をささやいた。父が描き残した写生画の少女のように、はにかんだ微笑みをこぼして。

 ぼくは痩せ細った手を取って、嘘をついた。少年時代のルネ・ギスランを想像しながら、「ただいま」と彼女の名前を呼び返した。

 その日の晩、母は眠るように旅立った。

 母の亡骸は、父の遺骨とともに故郷の墓地に埋葬された。テオドール氏の手配によって、画家ルネ・ギスランとその妻として――並んで建つ両親の墓の前で、ぼくはようやく涙した。

 長く、長く、父と母を引き裂き、苦しみ続けた悪夢は覚めたのだ。ぼくは生まれてはじめて、ふたりの娘になれたのだった。

『ルネ・マリー』

「なんだい、リュシアン」

 ぼくは大鴉――かつてネバーモアと名乗っていた魔性を横目で見た。

 ぼくの髪を喰らって存在を確立させたかれは、晴れて立派な『悪魔』になった。厳密には別物らしいが、人間でも天使でもない怪物という点では違わない。

 ただし、この世に存在し続けるには宿主が必要で、今もミシェルの『左目』に間借りしている。おそらくミシェルが死ぬまでいっしょにいる算段だろうなと勝手に踏んでいた。

 もはやネバーモアでなくなったかれに『リュシアン』と名づけたのはミシェルだ。光を意味する古語は、真実ミシェルの片目となったかれにぴったりだと思う。

『きみは、今もあの子と生きていくつもりかい?』

「……意地悪な質問だね」

 思わず顔をしかめると、リュシアンは嘆息した。

『私とあの子は、もはや分かちがたい。復讐を果たして消えるはずだった私を受け容れ、ともにいようとあの子が望んでくれたから、今もここに在る。私だって死霊らしく未練はあるんだよ。叶うなら、あの子が人生を全うするまでそばで見守りたい』

 だがね、とやさしい悪魔は口調を曇らせた。

『あの子と生きていくということは、きみの想像より遥かに苦労や悲しみの多い人生を選ぶに等しい。野薔薇のつぼみのようなルネ・マリー。陽の当たる場所で花開こうとするきみにとって、不幸な足枷になりかねない男だ』

「ひどい言い草だね、たったひとりの弟に対して」

『兄だから言えるのさ。私の弟は、人間社会で生きていくにはあまりに脆弱だ。洗い流せぬ過去があり、積まなければならない研鑽が山のようにある。きみの後見人だって、私を含めてあの子をよく思ってはいないだろう』

 リュシアンのくちばしは的確に痛いところをつっついてきた。

 ぼくの後見人――テオドール氏は、ミシェルやリュシアンに対して友好的とは言いきれない。

 ミシェルは新しい戸籍を得て、テオドール氏の紹介で旧王都の小さな新聞社で印字機技士タイピストとして働くことが決まっている。なんとか生計を立てられるようになるまでは、テオドール氏の秘書のような役回りもこなして経験を積む予定だ。

 テオドール氏がここまで協力してくれるのは、大恩のあるクロード老が「万事マリーが望むように」と取り計らってくれたからだ。

 更に、探し求めていた父の遺作のモデルこそがミシェルであるという点も影響しているようだった。手紙には、旧王都に来たらぜひいっしょに会いにきてくれと書かれていた。

『悪魔憑きの元男娼なんて、大切なお嬢さんの近くには置いておきたくないはずさ』

「リュシアン!」

 あまりの言い様に声を上げると、リュシアンは人間臭く首を竦めてみせた。『機嫌を悪くしないでおくれよ、おちびちゃんミニョン。何しろ、悪魔は嘘を騙れないものでね』

 ぼくは口を引き結び、罵倒をぐっと喉の奥へ押しこんだ。

 リュシアンの発言の裏には、ぼくやミシェルへの深い慈愛がある。もしもぼくがミシェルの手を取ることを躊躇すれば、その選択はぼくたちのためにならないと理解しているからこそ。

 光のヴェールが揺らぎ、ぼくの影を長く引き伸ばす。右肩に乗っているはずの大鴉の影は見当たらない――かれ自体がミシェルの『影』だからだ。

 雲が形を変えながら流れていく音に耳を澄ませ、ぼくは目を伏せた。

 好きなひとができた。そのひとを手に入れるためなら、神様だって悪魔だって殺してみせると誓った。

 瞼の裏で真っ白なドレスの裾が翻る。

 炎にも似た深紅の髪を揺らして、スーリと呼ばれた女の子が振り返る。

 夢を見ることしか知らなかったお人形は、微笑んで胸に抱いていた薔薇の花を差し出した。

 ――永遠に色褪せることのない、恋がれ続けた白い薔薇を。

 ぼくは両手で一輪の花を受け取った。スーリはドレスの裾をふわりと広げ、芝居がかった一礼を披露した。

 ごきげんよう、傲慢なルネ・マリー。死へと還るわたしスーリの骸を踏み越えて、その先へとお行きなさい。

 どんなに美しくなって幸福を知ろうとも、おまえの足元には罪が埋まっている。おまえを裁き、赦してくれる神様はもういない。だっておまえが殺してしまったのだから。

 だから地獄に落ちる日まで足掻きなさい。おまえ自身を救えるのは、今を生きるおまえだけなのだから。

 いつか朽ちる薔薇の花を摘み取れるのは今しかない。

 ざくり、と灰を踏みしだく音が背後で聞こえた。控えめに歩み寄る気配に忍び笑いが洩れる。

 かわいいほど弱いひとだ。勇気を出せないからリュシアンにぼくの真意を探らせて、自分は離れたところで聞き耳を立てているなんて。

 やれやれとばかりにリュシアンがため息をついた。

『兄としてはこういうところが心配なんだよ。わかってくれるかい、ルネ・マリー』

「今更じゃないか。まあ今回は、ちゃんと自分で聞きにきたから大目に見てあげるよ」

 帽子を被り直し、ぼくはくるりと振り向いた。途端に近づいてきた青年が硬直する。

 地味だけれど品のいい三つ揃いに痩身を包んだミシェルだ。明るい茶色に染めた髪をきれいに撫でつけ、色違いの瞳をごまかす眼鏡をかけている。

 目が合うと、ばつが悪そうに視線を逸らした。

「……、……そろそろ汽車が出るよ」

 蚊が鳴くような声で、ミシェルはリュシアンと同じ台詞を口にした。

「そうですね。ぼくも、もう行くつもりでした」ぼくはにっこりと笑い、大股でミシェルに迫った。

 ミシェルの肩がぎくりと強張る。別に取って食うわけでもあるまいし、そんなに怖がらなくてもいいのに。

「ミシェル・コルネイユ」かれが自分で決めた新しい名前を呼ぶと、みどりと赤紫の双眸が瞬いた。

 コルネイユ――ミシェルの想いが刻まれた家名だ。

「汽車に乗る前に、ぼくの夢を聞いてもらえませんか」

「夢?」

 戸惑いを隠さないミシェルの両手を取り、ぼくは「ええ、将来の夢です」と続けた。

 雲の動きに合わせて模様を変える陽だまりで、薔薇の灰が粉雪のように舞う。駅に向かうころには煤まみれになってしまいそうだなと、笑いがこみ上げてきた。

 嗚呼、ぼくは自由だ!

 孤独で、行く末も知れず、それでも自由だ。ルネ・マリアンヌ・エカラットの魂はどこへでも、どこまでも飛んでいける。選んだ場所で花を咲かせ、朽ち果て、可能性という種を残すことができる。

 この真実は残酷で、とても幸福だ。たったいちどきりの、ぼくだけに与えられた祝福だ。

 ならば、ぼくは選ぼう。ぼくの心で、この根を下ろす土を選ぼう。

「大人になって、お金を貯めて――いつかここに孤児院を建てたいんです」

 ミシェルが瞠目し、喉を鳴らした。「この場所……に?」

「ええ。年を取ってからでいいんです。いつかこの街の、ここに白薔薇が咲き乱れる教会があったことなんてだれもが忘れたころに。テオドールさんが話していた『学校』のほうが近いかも。生まれに関係なく、男の子も女の子もたくさんのことを学んで、大人になって生きていく力をつけられる場所を作りたいんです」

 最後の女王が革命によって処刑され、共和制が樹立してから三十年近く。この時代、教育は未だに民衆の権利ではなかった。知識は限られた支配層のものであり、市井の識字率は驚くほど低い。

 暗い混迷の世で、それでも親を失って自分の力で生きていかなければならない子どもは大勢いる。足掻き続ける未来を摘み取られ、儚く散る命がある。

「生きることが絶望でしかない世界なんて、ぼくはいやだ。弱くても、強くなれる機会を与えてもらいたい。全力で足掻く権利がほしい。それはきっとぼく以外の、あなたやリュシアン以外の子どもたちだって同じはずだ。ぼくは、生きていることが希望になる世界を、ちっぽけでもいいから作りたいんです」

「……ルネ」

「ついでに言っておくと、ぼくはあなたの子どもを産んで、あなたがおじいさんになって死ぬときにはしっかり看取るつもりですから、どうぞ安心して苦悩しながら生きてください」

「はっ!?」

 ミシェルの顔がたちまち赤くなる。リュシアンが声を立てて笑うと、かれは「兄さん!」と怒鳴った。

『おまえの負けだよ、ミシェル。せいぜいお嬢さんの尻に敷かれて、幸せになればいい』

「もちろん、リュシアンもいっしょにだよ」

 ぼくはくちばしを指先でつつき、にやりと意地悪く笑ってみせた。「ぼくのくちびるの純潔を奪った責任、きちんと取ってもらうからね」

『いや――ちょっと待ってくれ、ルネ・マリー。あれは契約上仕方なくというか、そもそも契約が切れた時点で無効というか』

「おいリュシアン! いったいどういうことだ」

 表情を一変させたミシェルがリュシアンに迫る。絞め殺されそうな勢いに、たまらないとばかりにリュシアンが飛び上がった。

 舌打ちまじりに駆けだすミシェルの手を掴み、笑いながら隣に並んだ。

 ミシェルがぼくの手を握り直し、力をこめる。ぼくは同じ強さで握り返した。

「ちょっと待て、リュシアン! 逃げるな!」

『いつもは兄さん兄さんとうるさいくせに、こういうときだけ呼び捨てにするな! ルネ・マリー、あとで覚えていろ!』

「知らないよ! 喧嘩はふたりでやってくれ!」

 光が射しこむ雲のむこうに、生まれたての青空が広がる。

 幾度となく仰ぎ見るその輝きこそ、刹那に咲き誇る薔薇のような希望だと、ぼくたちは知っている。

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薔薇の下 冬野 暉 @mizuiromokuba

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