第111話110.刹那 6
「な!」
びしょ濡れになり、茶で染まった重要書類に見向きもせず、ファイザルは転びそうにつんのめった入室者を凝視した。ジャヌーも茶器を携えたまま、横で硬直している。
「……あ、あのヨシュア、驚かせて済まない。そのぅ〜扉を開けようと思ったら、急に誰かが後ろから突き飛ばすものだから……シザーラ殿かな? もぅ、一体何だって……」
唖然とする男たちの前でレーニエはもごもご言い訳をしている。だが、それを聞いている者はいなかった。
「……レーニエ様、その……それは?」
「え? ああ、そうだった。先に報告をしなくて申し訳ない……というか、私では段取りがわからなくて。だけど直ぐ来られると思う。言い忘れたが今日、これから街に出ようと思って。天気もいいし」
「は? 今日?」
「そう。行程なんかも、あなたに渡して許可を貰うと言っていたから。もうおっつけ来られると思う。えと、私が言うのはジャックジーンのことなんだけど」
「あいつのことはどうでもいいです。今日……何がなんですって? そしてその格好は?」
ファイザルは混乱しながらも我慢強く尋ねた。
「あ、うん、えっとこれは市民に紛れた方がいいという事だったんで、街の娘の恰好をサリアとシザーラ殿が整えてくれたんだけど……どうかな? ここに来るまではマントを頭から被らされていて、皆の反応がよく分からなかった。でもこれなら大丈夫、目立たないだろう?」
「……」
男たちは黙り込んだ。
大丈夫? 何が大丈夫だというのだろう? この娘は。
「自分的には慣れなくて少し恥ずかしいのだけれど。こんな髪形は初めてだし」
そこには健全な成人男子の目にけしからぬ服装に身を
目立つ長い銀髪は両脇で硬く三つ編みにしてあり、耳の横で二重に輪を作って花型の髪飾りで止めつけてある。
そして、街の娘の間で流行っている、白いふんわりしたシャツにぴっちりした編みあげの胴衣。二段に広がった
「どうかな?」
頬を染め、判定を待つ被験者のように小首を傾げてファイザルを窺う様子は、自覚がない分、凶悪とも言えた。
「……すぐにお着替えなさい」
ファイザルが口をきけたのはたっぷり一分後。
「なぜ? どこかいけない? これなら普通の町娘のようだと思うんだけど。ちょっと恥ずかしいけど、慣れたら動きやすそうだし」
「普通の町娘だって? こんな……これでは……」
襲ってくれと言わんばかりじゃないか。と言う言葉をやっとのことで呑み込み、彼は険しく眉を寄せた。横でジャヌーはうっとりとレーニエを見つめている。
「とにかく全くいけません。まったく、サリアさんは何だってこんな」
つかつかと歩み寄る男の前で再び思いきり扉が開け放たれた。
「いよう! 将軍閣下! 失礼いたします! おやぁ、これはこれはレーニエ様、驚きました。素敵になられましたね! こんな女の子を連れて歩けるなんて、俺ぁシアワセもんだ!」
「黙れ馬鹿者! 誰が許可するといった。絶対にダメだ」
「あれ? 国王陛下直属の侍女殿から陛下直筆の許可証をもらってきた帰りなんだがな。ナニお前? 主命に逆らうの?」
「なんだって!? 陛下が? お前一体いつそんな手回しを」
「俺にだってそれなりのツテはあるのさ。ほれ、見てみ?」
セルバローはぴらりときれいな書紙をファイザルの眼前に垂らした。
それは公式な書類ではないし、印璽もないが、確かに女王の直筆の署名がなされている。
『いってらっしゃい、楽しんでおいで。ただ、くれぐれも無茶はお慎みなさい。警護の方の言う事をよく聞くのですよ ——母——』
一体何を考えておられるんだ、あの方は。
あの親にしてこの娘ありと言うところか? ファイザルは頭を抱え込んだ。
「どうだ? 恐れ入ったか。この石頭」
「ヨシュア……お願い。行かせて。この前は許可くれたのに」
瞳を潤ませて見上げる恋人に情けなくもファイザルの眉が下がる。
「レーニエ様、俺は何も意地悪であなたを王宮から出さないと言っている訳ではないのですよ」
「知ってる。私を心配してくれている」
「心配? そんな言葉じゃ到底足りません。どんなに注意をしたってあまりに目立ってしまう。これではオオカミの群れに子羊を放すようなもんだ」
「じゃあ、ショールをお被せますわ!」
後ろからシザーラが元気よく入って来た。サリアもその後ろでレースの布を手に控えている。二人とも町娘の装束である。
彼らも大層可愛らしかったが、目立つという点ではレーニエやセルバローの比ではない。
「うふふふ。私達の腕前はどうでございます? レーニエ様って本当にお可愛らしくて、飾りがいがありますわ。女の私でも恋してしまいそう」
「だから困るんです、シザーラ姫。聞けばこの計画はあなた様から持ちかけられたとか」
「ええ、そうですわ。閣下」
「ヨシュア、シザーラ殿に怒らないで。お願いだから」
「怒ってはいません、ただただあなたが大切で、自分の不甲斐なさに幻滅しているだけで。まったく、これでは俺が悪物ではないですか……セルバロー、行程を見せろ」
「はいよ」
雷神は懐からぽいと書紙を投げ出した。彼も地味だが粋な私服に身を包んでいる。それは彼の燃えるような髪を引き立て、どの女も振り返るだろう。
「ふん、お前にしてはまともだな」
ファイザルはざっと書面に目を通しはじめた。その様子を見てレーニエの顔が輝き、取りすがっている太い腕をぎゅっと抱きしめる。この娘がこんな振る舞いをするのは最近になってからだが、王宮第二の貴婦人の自覚は全くないらしい。
「では、ヨシュア!」
「ふむ。大通りに国立劇場、中央市場か。さすがに下町はさけてあるな。もっとも人通りの多い場所ばかりだから油断はできないが……ん? 最後は……何 ?この店は」
「そう、俺たち軍人専用の居酒屋さ。ここならきちんとした店だし、妙な奴は来ない。飯を食っても……いや、お食事をなさっても安心だ。庶民の味も味わえる」
「市長様から伺いましたが、現在特に厳しい警備が常時必要な治安の悪い地域は、下町の一部以外ではないそうですわね。流石に王都ですわ」
シザーラも背伸びをして書紙を覗きこみながら言った。この娘も余り貴婦人らしくない。
「表向きはね。ですが、ここは大都市です。あまり芳しくない生業をたつきとする者たちの集まった小昏い地域は矢張りあります。最近は人の流出入も激しいし。検問は厳しくしてありますが、油断は禁物です。念のために行程に沿って重点的に警備を強化するように命じます。ジャヌー、ライカにこれを見せて人数を増やすように連絡を」
「はっ! ただいま」
やっとレーニエから目を反らしてきびきびとジャヌーが踵を返した。扉を通り抜ける時にちらりとサリアと目が合う。サリアはにっこりとそれに応えた。
「俺がお供できるとよいのですが、この後、どうしても外せない案件があって……できるだけ早くに都合をつけて合流しようと思います」
「大丈夫。雷神殿が付いている。あと、フェルも東門で合流してくれる」
「セルバロー、この前言ったこと覚えているな。万が一」
「わかってる。俺だってお前に首切られて晒し者にはなりたくないからな。俺と、クランプ、タッカーが常にお伴する」
クランプ、タッカーと言うのはセルバローの従卒と昔からの従者で、いずれも百戦錬磨の強者達だった。
「またガラの悪い連中を……くれぐれもお気を付けください。シザーラ様も。あなた様に何かあったら戦争再開かもしれないんですよ」
「承知いたしました」
「レーニエ様、声をかけてくる男たちは無視し、絶対にセルバローの傍から離れないように」
ファイザルは如何にも嫌そうに付け加えた。
「はい。約束する! ありがとう、ヨシュア」
嬉しそうに見上げる白い顔に接吻しそうになるのを何とか堪え、ファイザルは可愛らしく結われた髪に指を滑らせた。
「言い忘れましたが……とてもお似合いです」
「ん……」
「あなたを恋うる男の気持に免じて絶対に無茶はなさらないでください。では……頼むぞジャックジーン」
「お任せを。将軍閣下」
雷神は陽気に請け合い、一同を振り返った。
「では、お嬢様がた、早速都見物へと参りましょう! イザ!」
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