第96話95.障壁24

 翌日

 南の門を抜けて一人の若い旅人がウルフィオーレの街を訪れた。細い体にはおったマントのフードを深く下しているが、細い体つきであることが見て取れる。背中に小さな荷物を背負っていた。

 昼前の広場は買い物をする人々で大いに賑わっていた。広場の南半分で市が立つのはつい最近になって復活したことだ。

 旅人は人混みをいとも容易く掻き分け、すいすいと広場を横切る。目の前にひときわ大きい市庁舎と正面階段が現れる。戦火の痕も残ってはいるが、かなり修復されつつあった。セルバローの仕事の成果である。

 彼はしばし逡巡した後、滑るような足取りで広場の北側の空間を横ごり、市庁舎の正面に立った。

「誰だ! こちらは現在ただ今、民間人の立ち入りを禁じられていると知らぬのか」

 二人の歩哨が立ちはだかって誰何すいかした。

「知ってますよ。エルファラン国の休戦使節の代表がご逗留されているのでしょ? まぁいいや。私の事はいいからとりあえず、この書状をドルトン様にお渡し願えませんか」

「何? ドルトン様だと? お前は一体……」

 歩哨の問いに、旅人は彼は小さく笑って頭を振った。フードが滑り落ち、ゆるく毛先の遊んだ黒髪が肩の上で揺れる。兵士たちは驚いて自分の息子のような年齢の少年を見つめた。


「フェル……おお! フェル!」

 レーニエが長衣のすそを翻して階段を駆け降りる。

「レーニエ様!」

 少年は約二年ぶりに会う彼の主を見上げた。レーニエは一日も忘れることのなかった記憶にあるそれよりも、更に美しく輝いている。嬉しいはずなのにフェルディナンドはなぜか心が痛んだ。

「フェル……フェルディナンド!」

 レーニエは不意に立ち止まり、自分を見下ろす背丈になった少年を見上げた。一瞬どのように振る舞えばいいのか分からなくなったのだ。

「レーニエ様」

「……よく……よく無事で…」

 少年の崇拝する赤い瞳が涙の膜を孕んで潤み、自分を映している。一瞬表情が歪んだが、彼はそれを隠すようにゆっくりとひざをついた。

「ただ今戻りました。長の私の我儘をお許しくださいませ」

 綺麗な所作は昔のまま、ただ声だけがあの頃より低くレーニエの耳を打つ。

「ああフェル……」

 たくさんの感情が押し寄せ、レーニエは自分の小姓であった少年になんと言っていいのかわからない。

 レーニエは長年忠実に仕えてくれた弟とも、友人とも言えるフェルディナンドの両肩に手を置いた。かつて彼女の腕に収まった細身の体は、そのしなやかさを残しながらすっかり逞しくなっている。

 美しい黒髪と青灰色の瞳はそのままだが、少し面長になった面ざしと低くなった声は、この少年が既に子どもの域から脱しつつあることを示していた。

「よかっ……」

 フェルディナンドの見つめる主の靴の先に、ぽたりぽたりと雫がこぼれた。

「レーニエ様」

 フェルディナンドは顔を上げ、にっこりと笑った。それはレーニエの記憶とは少しだけ違う、けれども限りなく懐かしい笑顔。

「何でお泣きになるんです? 俺、結構頑張ったんですよ。どうぞ褒めて下さい」

 昔のままの生意気な態度で少年は口角を上げた。

「り、立派になられた……フェル……私に抱かせておくれ」

 変わりのない彼の様子にレーニエはやっと破顔し、屈み込んでその頭を抱きしめる。ぎゅうぎゅうと胸に抱きしめられ、少年は少し困ってしまった。

 レーニエは静かに泣いている。またしてもチクリと胸が痛み、そっと腕を解くとレーニエを立たせ、自分より少し下になった美しい顔を見つめた。

「レーニエ様がお元気そうでよかった!」

 フェルディナンドは万感の思いを込めて主の頬に唇を寄せる。

「大きくなられたな、フェル……先年の秋に手紙を貰った時は心臓が止まりそうになった。セバストが認めなければ、間諜など絶対に許さなないつもりだったんだ、私は。フェル――」

「レーニエ様、私の方こそレーニエ様がこのような場所にお出ましになられるとは、思ってもみませんでした。知らせを受けたのはついこの間でしたが……私は」

 フェルディナンドは整った唇を噛みしめた。

「肝をつぶしました。レーニエ様はあの――ノヴァゼムーリャの地におられると思っていたので」

「私もね、私もフェルやヨシュアのように何かしたかったのだ。それで母上にお願いしてこの地に寄越していただいた。もっとも飾り物の国使だけれど」

 ようやくレーニエは涙を収める。

「フェルの消息が掴めないので、シザーラ殿に頼んで探してもらおうと思っていた」

「レーニエ様……」

「これで皆で帰れる。フェルとサリアとヨシュア……皆でノヴァゼムーリャに」

「……」

 フェルディナンドが背後を見ると、主従の再会に遠慮して見守っている人々の中にその人物がいた。その男は静かな表情で彼等を見つめている。長らく続いた戦争を勝利で終わらせた張本人―――。

 ――ヨシュア・セス・ファイザル司令官「掃討のセス」

 二人の男の眼が合った。

「……レーニエ様。俺はまだまだ半人前ですけれども、どうかこれからもお仕えさせて下さいませ」

 少年は改めて向き合うと優雅に騎士の礼をとり、片膝をつくとレーニエの手を額に押し戴き口づけを落とした。


「おいおい、またまた王女殿下に似合いの美少年が現れたぞ。どうする? 斬るか?」

 抱擁を交わす二人を眺めながらセルバローはニヤニヤしながら横に立つファイザルをからかった。二人とも昨日の酒の余韻など微塵も感じさせない。

「言ってろ。彼は殿下の大切なご家族だ。俺などよりよほど昔からのな」

「へえっ! ご家族、か……だけど、あの少年はそう思っているのかな?」

 セルバローの洞察は相変わらず鋭い。

 しかし、ファイザルは黙ってレーニエを見つめていた。


「よかったですね、サリアさん」

 ジャヌーももらい泣きししそうになりながら、既に泣いているサリアの肩に手を置いた。

「ほんとに! 後でとっちめてやらなくっちゃ。みんなをこんなに心配させて!」

「いやぁ、もう子ども扱いはダメっすよ。フェルディナンドはもう大人だ」

「……」

「男は大人になる時があるんですよ、年じゃなく」

 ジャヌーはわかった風で頷くがサリアは意にも介さなかった。

「あんたはまだ子供っぽいけど?」

「アイタタ、酷いです。これでも頑張って努めたんですよ。サリアさんをお守りすることぐらいはできます!」

「本当?」

「はい。まだまだ司令官殿のような訳には参りませんが、俺だってサリアさんの為なら粉骨砕身、鋭意努力いたします。どうぞ試してみてください」

「まぁ、そんな風に真顔で言われると、少しだけ嬉しくなっちゃうわね」

「少しだけなんですか!?」


「ラルフよ、どう思うな?」

 ドルリー老将軍のはげ頭は今日も血色がいい。

「何がだ、サイラス」

 フローレスは上品な白髪頭を傾けた。

「あの王女殿下の事なんだが」

「お美しい方だ。聡明でもあられる」

「ふむ、そうだな。真実、陛下は公にされるおつもりかな?」

 ドルリーはここ数日間の疑問を口に出した。彼等もドルトンから事情を聞いていた。

「思うも何も、陛下自身がお決めになられたのだ。あの方の意志は強固だ」

「それは確かに。だが、ブレスラウ公はその出生にも、死にも謎の多い伝説の人物だ。かつて囁かれたあの噂もある」

「私は信じておらん。あれはただの醜聞だ。口さがない奴ばらのな」

 元来慎重なフローレスにしては断定的な物言いだった。ドルリーはこの三十年来の友人に一歩先んじられたような気がする。

「何故そう言える?」

「先王アルバイン陛下はこう申してはなんだが、老獪な政治家ではあられた。が、反面猜疑心の強い、狭量な方でもあった。その方のご子息があのように大らかで天衣無縫なレストラウド様というのは解せん。第一それほど似ておらん。私は昔から信じていなかった。わが王家は、線の細い方々が多く、先王もどちらかと言えば小柄な方であった。だが、ブレスラウ公は大きな男だったからな。そう……あのヨシュア・セスのように」

「言うわ。だが、アンゼリカ様とてあの方のご息女だぞ。あの方は女ながら肝の据わった方だ。そなたの理屈はおかしいではないか」

「だから陛下と先王陛下は仲が悪かったではないか。アンゼリカ様は早くからお父上と離され、お母上の元でお育ちになったからな。先王陛下は失礼ながら誰の事も信用なさらなかった」

 自らも元老院の一員であるフローレスはドルリーよりも政治の裏面に詳しい。

「確かに先王はあまり人気のないお方ではあった。だがあの方の治世の間に内政問題の多くは縮小、あるいは解決し、国力は上がったことも事実だ。人好きはしなくても政治家としては有能だったのだろうよ」

「解決なぁ……ややもすれば独裁と言う言い方もできるが。自由国境にまで鉱山開発を求めた結果、国力は確かに増したが、隣国から富を狙われる事にもなったからな。この戦争の遠因となったも言える。ともか先王陛下もブレスラウ公もとくに亡くなったお方達だ。我々は今を見なければならん」

 フローレスは孫娘のようなレーニエと、その小姓であった少年との涙の再会をつくづくと眺めた。

「確かに。だからこそ陛下は今回の件で、レーニエ殿下の事を明るみに出されるおつもりだろう。と言う事はお二人は血の繋がった関係ではなかったという事だ。それを公明正大になさりたいのであろうよ、レーニエ殿下の為にも。今頃は王宮内に根回しができているのであろうな」

「私に文句はない。レーニエ様は立派にお役目を全うされた」

 老将達は美しい娘を中心に喜び合う、若々しい人々を頼もしそうに見守り、頷きあう。

「ふむ―――これからは彼らの時代であろうよ」


 未明の風は未だ湿り気を含んで広場の上を流れる。まだ日は明けきってはいないが、後四半刻もすれば人々は起きだし日々の活動を開始するのだろう。

 市井の人たちにとって夏の一日は貴重である。

「もう起きられたのですか」

 背後の気配を察し、ファイザルは振り返った。市庁舎の正面の広い露台。ファイザルは剣こそ腰に帯びていたが、上着は身に付けていない。朝の風に長くなった鉄色の髪が揺れている。

 彼が視線を向けると歩哨に立っていた兵士達がさっと身を隠した。

「うん……目が覚めてしまった」

 レーニエは白い寝間着の上に同じ色のガウンを羽織っただけで二階のホールに立っていた。素足に華奢な上ばきを履いてふわふわと広い露台を横切ってくる。

「また、そんなお姿で……」

 ファイザルは困ったように淡い肩を引き寄せた。

「俺がここにいなかったらどうするつもりだったんです」

「ただ、街を見ようと思って」

「兵士達も若いんですからね。少しは思いやってください」

 仕方なさそうにファイザルは薄いガウンの胸元を合わせた。


 とん


 額に軽い口づけ。

「あなたは夜通しここに?」

「いえ、昨夜はさすがに休みました。今日はいよいよ出立ですし目が覚めたので。ここには先ほど来たところです」

 この日、朝餐後すぐ大使一行は都に向け出発する事になっている。

「あなたはもう少し休まれたほうがいい」

「へいき。馬車の中で眠るから……よい天気になりそうで良かった」

 レーニエはファイザルにもたれて街を見渡した。先ほどより空が明るくなっている。

「この街はあなたの故郷なのでしょう?」

「俺に故郷と言うものがあるとすればね」

 静かに応えた声には何の感慨も伺えなかったが、それが却って哀しいものにレーニエには感じられた。この街には彼だけしか知らない思い出がいっぱい残っているのだろう。

 街のそこここに残る戦の傷跡はそのまま彼の心なのだった。

「いずれ美しく甦る……人々も、この街も」

「――ええ、多分……きっと」

 応えた声はやはり静かで。

 いつかこの人の過去も聞いてみたい……頼んだら話してくれるだろうか?

 レーニエは自分を抱く腕をぎゅっと握った。

 だが、今は―――今からは未来を見なければ。

「帰るんだ」

 レーニエは遥か北の空に目をやった。

「ええ」

 そっと唇が触れ合う。レーニエのそれより少し熱いそれが啄ばむように上下の唇に触れた。

 掠めるだけの口づけが幾度も幾度も繰り返される。レーニエが焦れて身じろぎしてしまう程それはまだるっこしくて―――。

「んんん……嫌、もっと」

「ダメです。今は」

 ファイザルは指を滑らせて柔らかい輪郭をなぞった。

「あなたを本当にこの腕に閉じ込めるまでは」

 そう言った男の頬に光が当たる。


 ウルフィオーレの街は、ようやく目覚めの時を迎えようとしていた。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る