ノヴァゼムーリャの領主

第83話８２．障壁１１

「あ……」

　漏（も）れた声にファイザルが振り向く。

　二人の視線が絡んだ。

　彼はこのような場面を見られても特にまごついた様子もなく、抱いていた女を後ろへ押しやり、静かにレーニエに向き直った。

　いつもレーニエが湖のようだと思う瞳は矢張り静かで、感情の揺らめきは見られない。

　ただ――

　黙って、レーニエを見ている。

「ヨ……」

「これは失礼いたしました。レーニエ殿下、ご用があれば呼びつけて下されたらこちらから伺いましたものを……益体（やくたい）もないところをお目に掛けてしまい、申し訳ございませぬ」

　そう言いながらファイザルはこの上なく慇懃（いんぎん）に騎士の礼を取る。

「……」

「悪いがお前は奥で待っていてくれ」

　レーニエから何も言葉がないので、ファイザル背後を振り返って、さっきまで彼の腕の中にいた女性に声を掛けた。その声にも特に感情は籠っていない。

　その女性は豊満な体つきのファイザルちょりやや年上と思われる様子だったが、南部美人と言うのか、黒髪の大柄な女だった。彼女は複雑な表情でレーニエを見つめていたが、小さく会釈をすると黙って彼の言に従い、奥の部屋に下がった。

「申し訳ございません。お越しとは知らず、来客を受け入れてしまいまして」

　彼女の姿が見えなくなるとファイザルは再び頭を下げた。

「い……いや……私こそ突然お、おしかけたりし……したから」

　ゆらゆらゆら

　赤い瞳があらぬ方を彷徨（さまよ）う。ファイザルは黙ってそれを見ている。

「ひ……そうだ、日を改めて、出直そう」

「いえ、それは恐れながら、宜しくないと存じます。私のようなものにはあまり近づかぬ方が、殿下の御身の安全の為にも宜しいかと。昨夜、侍女殿にも申し上げたはずですが」

「聞いて……ない」

　ファイザルは敢えてサリアの事を侍女殿と呼んだ。レーニエは視線を宙に泳がせながらもファイザルを避けて床に落とす。

「そうですか。昨夜は色々とお取り込みでしたし、無理もありません。戦は終わったとはいえ、この地はまだ治安も回復せず、私や、私の軍を恨む危険分子もいると申し上げたのです――で、何の御用でしょうか？　出来れば手短に願います」

　丁寧な、だが冷やかな声は、それでなくとも崩れかけていたレーニエの意気地を更に挫（くじ）くに余りあった。

「あ、あの……私……私は」

「はい」

「ずっと思って……いた。あなたと別れてから、あの北の大地で……ずっと考えて……」

　床に視線を落としたまま、振り絞るようにレーニエは言葉を紡ぐ。

「……それは？」

「自分が生まれてきた意味を。我が身に何ができるのかを……そして、運命……運命をを変えるにはどうしたらよいかを」

「運命を」

　静かな、そして無機質な応え。

「そう。ずっとその事を民と共に過ごしながら考えて……考えて。ある時、オーフェンガルド殿から戦争が終わりに近づいている事を伺い、その時、それを見つけた――と思ったのだ。そして母上に会おうと決め、都へ……」

　落ち着いて見えるようにゆっくりと言葉を探し乍ら話す間にも、レーニエは心の内がざわざわと泡立つのを止められない。声が震えて言葉尻りが消えてしまう。

　あの……あの人は誰だろう……。

　彼の腕の中で抱かれていた女性。濃い色の髪や肌はずっとレーニエが憧れていたものだった。

　ヨシュアはあの美しい女の人を……？

　人の心が移ろいやすいと知ってはいた。自分のような取り柄のない人間を、経験豊かで、大人の男性たるファイザルがいつまでも想ってくれていると信じ込んでいたのは、愚かな幻想だったのだろうか？

　レーニエは唇が震えているのを悟られないように、柔らかい桜色のそれをきつく噛みしめた。その様子を凍てつく青い瞳が黙って見下ろしている。

「陛下に会われたのですか？」

　レーニエの心情を知ってか知らずか、冷淡な声が事務的に尋ねた。レーニエは自分を戒（いまし）めるかのようにきっと顔を上げたが、途端に表情を消し去った瞳とぶつかり――再び背けてしまう。

「そ、そう。お会いした。母上とはいろいろと話をすることができて……それは初めてと言っていいほどで……」

「……」

　この娘の数奇な生い立ちを知っているファイザルは黙って耳を傾ける。

「そして……このお役目を願い出た」

「御自分から？」

　ファイザルとは目線が合わぬまま、こくりと白銀の頭が下がる。

「なぜです」

　その声は厳しい。

「何かしたかった……あ――なたの役に立ちたかった」

「私の役に？」

「そう……でも、それだけじゃなく……私は……あい――たかった。あなたに」

「私に会うためにこんなところにまで？」

「うん……だけど」

　私は間違っていたのかもしれない。この人が私の事を愛してくれていると思いこんで、必死になって……。

　考えてみれば、私のような子どもを彼がずっと想い続ける理由がない。しかも生い立ちに面倒な事情を抱えた身で……なんておこがましい。愚かだな、レーニエ……。

　短くなった前髪の影、苦しげに顰（ひそ）められた眉の下でレーニエは――笑った。

　苦悩を滲ませながら、それでもはっとするほど鮮やかに美しい、その――微笑み。

　冷たいばかりに見えた男の青い瞳が、なぜか慄（おのの）いたように見開かれる。

「……」

「――うん、そう。だから……もういいんだ……あなたに会えたから」

　ゆっくりと顔を上げてレーニエはファイザルを見た。

　不思議に透明な微笑みを浮かべた唇、万華鏡のような赤い瞳、ファイザルは魅入られたように言葉をなくした。

　この娘は……。

「レー……」

「御無事でよかった。それだけが気がかりで……心配で堪らなかったから」

「レーニエ様」

　我知らずファイザルは半歩足を踏み出した。

「あなたにはさぞや滑稽（こっけい）に見えただろう？　彼の地で皆に迷惑ばかりかけていた私が、尊大にも和平の大使等と……」

「ご立派でした」

「え？」

　意外な返答。

「お流石です、殿下。あのような重要な外交の舞台で、敵国の宰相と堂々と渡り合われ、崇高なお血筋を証明された。もう隠れて住まわれる事も、ご身分を隠す必要もない」

「そんなことは……ない」

「この一年間、破壊と殺戮に明け暮れた私とは大違いだ」

　限りなく苦々しい声音はまるで自分を貶（おとし）めるかのようで。

「そんな……あなたは戦争を終わらせたのだ。だから……」

「ご結婚されるのでしょう？」

　それは、唐突な問いかけ。

　レーニエは思わず怯んだ。

「え！？」

「ザカリエの王弟殿下と。昨夜そんな話が出たはずです」

「そ――れは確かに、でも……」

「使い古された手だが、国家間の結びつきを強めるにはこれ以上の選択はないと思われます。あなたも覚悟されてここに来たはずで……髪まで切って誓われた。そうですね？」

「違う！　私は……この髪は」

「いいえ、あなたはそうされるべきだと思います。こんな人殺しの事をいつまでも想っているのは間違いだ」

　有無をいさわぬ調子で青い瞳がレーニエを射すくめた。

「ヨシュ……何を……」

「私は言いました。どんな形でもあなたにもう一度お目にかかると。このような形ながら、それは叶った――だから俺にももう思い残すことはない」

　ファイザルは腕を半端に持ち上げ、まるで逡巡するように拳を握り締めたり緩めたりを繰り返していたが、やがてそれはゆっくりとレーニエに向かって差し上げられた。

「俺たちはこれきりです。もう会わない。これで――」

　嫌々と首が振られる。ささやかな我儘の幼い仕草。ファイザルの眉が苦しげに歪んだ。

　切ったばかりの髪が顎の横で揺れている。躊躇いがちに伸ばされた指先が揺れる毛先に触れ、ほんの暫く弄（もてあそ）んだかと思うと、直ぐに引っ込められた。

「さぁ、もういいでしょう？　こんなところに長居は無用だ。直きに衛兵の交替の時間がやってくる。それに――」

「……ヨシュア？」

「俺はこれからお楽しみの時間です。あなたにもその意味は分かりますね――さぁもう……もうお行きなさい」