第81話80.障壁 9

 深更――


 レーニエは眠れない。サリアが心配して軽い酒を運んでくれたのだが、飲みほしても気持ちのたかぶりは収まらない。

 思いは千々に乱れる。

 先程のジキスムントとの折衝、そして思いがけない形でファイザルとようやく言葉を交わせたこと。

 ヨシュア……。

 大使としてやって来た自分を出迎えた彼の姿を見とめた時、駆け出しそうになった。

 母からもらった立場を必死に思い出して、涙が滲みそうになるのを堪えるため、自分でも驚くほど堅苦しい態度になったと思う。あの時ほど仮面があればと思ったことはない。

 久しぶりに会ったファイザルは、久しく戦場で暮らしていたからだろうか、髪が伸び、痩せて陽に焼け、以前より一層精悍な風貌になっていた。

 立場が上がった為か、更に立派になって堂々としていたが、彼女の愛した深山の湖のような青い瞳はそのままで―――ただ、彼女を見ようとしない。

 この数日、どのような席でもファイザルは常に下座に控え、レーニエと視線を合わせようとしなかった。彼女の方は彼の事だけ考えていたと言うのに。

 ヨシュアは私の事などもう忘れてしまったのだろうか……それとも私のようなものが、このような重要な国際舞台にしゃしゃり出てきたことを不愉快に思っているのだろうか……。

 私はおとなしく田舎に引っ込んでいればよかったの?

 そう思うとレーニエは身が縮まりそうに辛い。しかし、一年以上ぶりに彼に会えて体が痺れるような喜びを感じていることもまた事実で。

 情けない。役に立とうと決心して、母上に無理をお願いしてこの地にやって来たのではないか……こんな私だから、あの強い人に弱さを見透かされてしまうのだ。

 空しく寝返りを打つばかりの空虚な体を持て余し、レーニエはそっと寝台を抜け出た。

 窓辺に立つ。

 半ば廃墟と化した街はすっかり静まり返っている。

 しかし、レーニエは知っている。このような荒れ果てた中でも人々は逞しく生き抜き、未来に希望をつなげようとしている事を。そして自分はその布石を置くために来たのだ。

 燃料が乏しいためだろう、街の殆どは闇に沈んでいて色彩は一切ない。 春の空気は見かけほど澄んではいないのか、見える星は少ないものの、月だけが煌々こうこうと世界を照らしている夜空の方がまだしも華やかなくらいだった。

 ふと目を凝らすと、さほど離れていない距離に小さな灯りが灯っている。

 あの辺りは、確か……そうだ。

 ザカリエ国側の宿舎である。エルファランの使節に比べると規模はかなり小さい。あの中に印象的なシザーラ嬢や、王弟アラメインが休んでいるのだろう。

 ジキスムント達はとファイザルに送られて無事帰りついただろうか?

 先程の会見でレーニエはある大胆な提案をしてしまったが、この先それがどう転ぶのかさっぱり見当がつかない。明日朝一番にドルトンに報告し、判断を仰がなくてはならないだろう。

 ドルトンは今夜の事はレーニエに一任すると言ってきたのだ。もし彼女が間違ったことをしでかしたと言うのなら、彼がすぐさま軌道修正してくれるはずだ。

 それにしても……。

 明日は何が起きると言うのだろう。ファイザルにはどう接すればいいのだろう? 世慣れぬレーニエには何の見通しも持てなかった。

 彼女は今夜何度目なのか分からない溜息を漏らすと、最後に鎮まり返る街並みを見渡し、背後へ振り返った。寝台に戻る為に。

 だから気づかなかった。

 部屋の真下の闇の中に一人の男がたたずみ、彼女が立つ窓辺を見上げていた事を。


 翌日の午前中はレーニエは特に予定は聞いていなかったので、遅めの朝食を部屋で摂った後、予定通りドルトンを呼んだ。

「ははぁ、成程。そう言う事になりましたか。それで御髪を……思い切った事をなさいましたねぇ。いくらザカリエ宰相に乞われたと言え、お断りされてもよろしかったのに」

 レーニエの顎の両側でサリアが整えてくれた髪が揺れていた。ドルトンはそれを珍しそうに見つめている。ジキスムントはレーニエが断らない事などお見通しでそんな事を申し出たのだろう。

 レーニエがその見かけとは違い、思いがけず果断なところを見せた事も影響しているのに違いない。

「済まない……勝手な事をしてしまったのだろうか? 私はアラメイン殿とシザーラ殿のお気持ち……そして私情を優先してしまったのだ。もしそれが拙いと言うのであれば、すぐにもジキスムント殿を呼んで」

「いえ、それには及びませぬ」

 ドルトンはきっぱり言った。

「……このままでいいの?」

「レーニエ様」

 ドルトンは居ず舞いを正して主君の一人娘を見つめた。

「なんだろうか?」

「レーニエ様にはこの婚約のお話は進めない方がいいのですね」

 ドルトンはいつものように熱の入らない話し方で尋ねた。

「ああ」

「そしてアラメイン殿下にとっても」

「そう」

「そうですか、ならばそう言う方向で話を進めていきましょう。幸いレーニエ様が時間稼ぎのご提案をして下さったようですから、後は王都に戻ってから陛下や元老院の方々と図っていきたいと思います。

 皆驚くでしょうよ、深窓の姫君が名うての政治家と丁々発止のやり取りをした等と」

「母上に叱られないかしら?」

 レーニエは心配そうに言った。

「大丈夫です、陛下にはレーニエ様の事をよくご存じでいらっしゃいます。私も、この件についての陛下のご意見を聞き及んでいます。お任せください」

 ドルトンは四角い顔にこの人物にしては珍しい笑顔を浮かべ、うら若い王女に頷く。

「レーニエ様、自信をお持ちになって。エルファラン国の基盤は、いくら和平のためとはいえ、若い姫君に悲痛なご決断を迫ったり、敗戦国の王子を婿と言う名の人質に取ったりするほど脆弱ぜいじゃくなものではありませんし」

「……」

「昨日のレーニエ様はご立派でした。この事を聞けば陛下もさぞお喜びになると思います」

「私? 私は何もかも夢中で……ほとんど考えることをしなかったし……」

 レーニエは口籠ったが、その時、軽いノックの音がしてサリアが顔をのぞかせた。

「お話中申し訳ございませぬ」

「サリア……どうしたの?」

「レーニエ様にお客様が……ですが、先ずはドルトン様にお会いしたいと申されておられます」

「どなたかな?」

 ドルトンはさっと腰を上げて扉に向かう。サリアは小声でその人物の名をドルトンに告げた。

「……ほぅ、それは面白い。では先ずは私がお会いしましょう。レーニエ様、しばらくそのままお待ち願いますか?」

 そう言ってドルトンは部屋を出て行った。


 


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