第60話59.思慕 3
なんということを! フェル、お前は!
心臓が大きく打っている。
髪のくだりを読んだとき、懐かしい日々と忠実な少年のことを思い出されて涙が零れそうになった。フェルはどんどん成長しているようだった。この地から動けない自分に代わって様々に世間を見ている。
しかし、特殊な訓練とは。そして一四歳の少年に下された命令とは何なのだろうか。
レーニエは震える手で丁寧に手紙を封書に戻した。この手紙はセバスト達、家族宛ての手紙と共に二重に封をされてもう一通の手紙と別便で送られてきていた。
先に着いたのはフェルディナンドからの手紙で、これは砦基地に送られる書簡を送るついでのような形で、軍の伝令部隊から届けられたものだった。
しかし、それより約半時後に付いたハルベリ少将と言う人物からの手紙はレーニエもよく知る商人、ドルトンからの届け物の品々の中に入っていた。
これらはいったいどういう事なのか……。
セバストにも同席してもらい、レーニエは後から来た書簡の分厚い封を切った。そこにはまず、ドルトンからの手紙が添えられてあり、ハルベリ少将の事を紹介してあった。
それによると、彼は軍の特殊部隊を総べる役職にあり、その部隊はどの師団にも属さない二百人余りの部下を従えていること。年齢は四十二歳で、これまでの軍歴などが細かく示してあった。それによるとハルベリ少将と言う人物は、かなり優秀な軍人で、元老院や国王の信頼も厚いという事だった。又、ファイザル准将とも面識があることも触れてあった。
そして、最後に。
詳しい内容は知らせていないが、これらのことは女王、ソリル二世も知っていることを述べて手紙は終わっていた。
「なぜ? どういうこと? なぜ陛下が……」
愕然としてレーニエは書紙を握りしめた。その手が震えている。セバストは慌てて立ち上がった。
「レーニエ様、ともかく書簡を私に」
「あ、ああ。ドルトン殿からはこれだけだ。次を」
セバストの声に我に返り、レーニエは同じ封筒に入っていたハルベリ少将からの書簡を開けた。分厚い書紙は軍でよく使うおなじみの物だった。
「……」
手紙を読み終えるとレーニエは黙ってセバストに渡し、ぐったりと椅子に身を沈めた。そのまま両手で顔を覆う。繊細な指が震えている。
「こんな……こんなことになるなんて」
「レーニエ様」
ハルベリ少将からの書簡を読み終えたセバストの顔も驚きでいっぱいだった。
「認められるわけがない! フェルが、フェルディナンドがザカリエ王宮に潜入するなどと! 敵国ではないか!」
「レーニエ様、どうか落ち着いて。お心を乱されませぬよう。これは機密事項だと記されております」
「わかっている!」
レーニエは忌々しそうに分厚い封筒の上に押された、
「考えるまでもない。勿論そんなところにフェルを行かせられない。さっそくやめるように手紙を書く。セバストもそう思うだろう? だが、どうしてだかフェルは行きたがっているようだ。私が止めることで傷つかないだろうか?」
レーニエはいらいらと室内と歩き回った。この娘が怒りをあらわにすることは滅多にない。だが、むしろ感情は豊かで素直なのだ。
お父上によく似ておられる……。
「……レーニエ様」
セバストはレーニエが少し落ち着くのを待って切り出した。
「僭越でございますが、父親としての意見を申してよろしゅうございますか?」
「え? ああ、それは無論。是非聞かせてくれ」
「私は、この際、フェルディナンドの好きにさせるとよいかと思います。幸い息子の意気は揚々としているようですし」
髪に幾分白髪の混じり始めたセバストは、静かに己が息子に思いを馳せた。
「セバスト! まさか……まさかこのような危険な任務にフェルを就かすつもりなのか!?」
「しかし、陛下も暗にハルベリ少将の任務に協力するようにとの御思案で、この書簡を遣わされれることをお認めになったのでは?」
セバストのもっともな意見にレーニエはぎくりと肩を震わせる。
「へ―――陛下のことは今は置いておこう。とにかくハルベリ少将は、ザカリエ王宮にフェルを間諜として潜入させると言っているのだ。しかも小姓に紛れ込ませて。こんな馬鹿げたことを、なんで父親であるお前が止めようとはしない?」
「しかし、この手紙には礼を尽くしてフェルの適性を述べておられます。あいつの外見、風貌から、性格、才能、全て
「きっとそんな事は誰にでも言っているのだろう」
これは純朴なレーニエにしてみれば珍しい、
「これは手厳しい」
「こんなことくらい、無知な私にだってわかる」
「ですが王宮の小姓と言うのなら、あいつほど適した人材はいません。機転は聞くし、立ち回りもうまい。それに親馬鹿かもしれませんが見ばもいい。宮廷に出入りしてザカリエ王室の内々の情報を聞き出すと言うのなら、あいつなら適任だと。きっとうまくやれると思います」
「セバスト……お前何を呑気な! もし事が露見したら、命を落とすことになるかもしれないんだぞ! 私は耐えられない。絶対に行かせたくない」
「ですが、これは諜報活動です。戦とは別なところで、この国にとって有利な情報が引き出せるのなら」
「それがおかしいのだ。仮にも軍の特殊部隊がなんで、たった一年前に軍の養成学校に入学した年端もいかぬ少年を、高々半年の訓練を受けさせただけで、こんな重要な任務に登用するのか? 我が国にはそれほど人材がいないのか!?」
「レーニエ様」
「……」
めったに聞くことのない、セバストの断固とした声音に、レーニエははっとなった。
「軍も馬鹿ではありません。あらゆる事態を想定した上で、フェルディナンドに白羽の矢を立てて訓練したのだと思います。そして、あいつは見事にそれに応えた」
「でも……」
「あいつはレーニエ様のお役に立ちたいと、いつもそればかりを考えている奴です。その彼が甘んじてこの務めを受け入れたのだとしたら、父親としてはその気持ちを尊重したいと思うのです。きっとあいつには何か考えがあるのでしょう」
「しかし……しかし、セバストもしフェルに何かあったら……それにオリイだって、そんな事嫌に決まっている」
「オリイの奴はきっと何も言いませんよ。寧ろしっかりやれと思うでしょうね。あいつは私よりも腹が据わっている」
「……」
レーニエは信じられない面持ちでセバストの言を聞いていた。レーニエも頭ではわかっている。しかし、それだからと言って受け入れられるものではない。
「フェルディナンドだって、覚悟はしているはずです。そう言う意味ではあいつは私以上に自分に厳しい。まったく我が子供ながら早熟に育ったものですが、私はあいつが誇らしい。レーニエ様、認めてやってはもらえませぬか? オリイのことなら大丈夫。今度の任務については母親にも漏らせないでしょうが、あいつは私以上に息子のことを知っていますよ。なにしろ母親ですからね」
「セバスト……」
「大丈夫。ハルベリ殿だって様々に入念な下調べをして、ある程度の見通しは持たれているはずです。めったなことでは命まで落としませんよ。あいつなら絶対にうまくやります。大丈夫」
セバストは微笑みながら頷いて見せた。それはレーニエが子どもの時から知っている、父親代わりの男の頼もしい笑顔だった。
「ですがフェルディナンドはレーニエ様の許しを頂けなければ、今回の任務は諦めるでしょう。あいつは自分の身はレーニエ様の物だと思っておりますから。ですから私からもお願いいたします。あいつにご恩に報いる機会を与えてやってくださいませ」
「私はフェルに恩など与えたつもりはない」
震える声でレーニエは最後の抗議を試みる。がしかし、そんなことはすべてセバストはわかっているのだ。
「御許可をどうか……レーニエ様」
「……」
形の良い眉を顰め、領主はしばらく苦渋を噛みしめていた。
なぜ?
なぜみんな私から離れていく? 私が忌まわしい運命の子どもだから、おのずと人が遠ざかっていくの?
レーニエは唇を噛みしめた。
しかし、彼女の愛する男はその考えを真っ向から否定したのだ。彼によってレーニエは己を取り戻したのだった。
やがてゆっくりと白銀の頭が下がる。セバストは腕を伸ばしてその肩を支えた。
それは昔から甘えることのできなかったレーニエに対し、セバストが繰り返し行ってきた仕草。緊張で強張っていた肩の力が次第に抜けてくる。しばらくして苦しそうな声が返ってきた。
「お前がそこまで言うのなら……わかった。許そう。フェルの人生は私の物ではない」
その夜。
寝台に横たわりながらレーニエは窓の外を見ていた。天蓋の布は上げてあって、初秋の澄んだ大気を貫いて月光がまともに射しこんでくる。
今日届いた二通の書簡。それは今までのレーニエの日常を覆すものだった。
ファイザルが旅立った時にも強くそう思った。それまで自分はあまり知ることのなかった戦というものが南の地方では日常で、否応なく巻き込まれ、命を落とす人々がいる。
ファイザルはそれを最小限にくい留め、国を守り、戦を終わらせるために戦地に赴いたのだ。
そして、今度は軍人でもない彼女の大切な弟が、危険な任務を帯びて敵国と言われるザカリエ王宮に潜入しようとしている。戦争はすでにレーニエの身近なものとなっているのだった。
ファイザルから手紙が来ることはなかった。彼がどの戦場で、どんな戦い方をしているのか、レーニエは全く知らない。聞いても良いものかもわからないからこの一年ひたすらじっと待ち続けている。
昔から待つことには慣れていた。
ただもし、何かあったらきっとオーフェンガルドが教えてくれるだろうから、無事でいるのは確かなようだった。しかし、彼にもたらされる情報は都を経て送られてくるものだから、一番新しいものでも発信から一週間は経っている。
だから、昨日今日ファイザルにもし何かあったとしても、レーニがそれを知るのは何日も後になるのだ。
今まで恐ろしくて聞きたくとも聞けなかったけれど、尋ねたらオーフェンガルド殿は戦の様子を教えてくれるのだろうか?
それに、オーフェンガルド殿なら、もしかしたらハルベリ少将という人物や、特殊部隊のことをご存じかもしれない。
「ヨシュア……」
限りなく懐かしいその名を呟くだけで、恋しさのあまり涙が零れる。この一年、何度彼を想って眠れぬ夜を過ごしただろう。
会いたい。
会ってあの腕の中に、この身を投げかけたい……ヨシュア!
「う……く」
この夜も寝具の中で体を丸め、一日で一番辛い時間をどうにかやり過ごすためにレーニエは唇を噛みしめた。
それにしても――。
戦とはなんと理不尽なものであろうか?
あの揺るがないファイザルでさえ、正気を保つのが難しくなる事があると言っていた。
レーニエの父親も、同じ戦で若くして命を絶たれている。
父が生きていたなら、レーニエは全く別の生き方が出来たかも知れないのに。そんな戦いをこの国は、もう二十年もの間さまざまに形を変えながら続けているのだ。
その間にどれだけの悲劇と恐怖を撒き散らしたのだろう。まったく馬鹿げている。
「戦……! この憎きもの!」
レーニエは忌々しげに吐き捨てた。この娘にしては珍しいことだった。
怒りを声に表すと恐れおののく心に少し力が沸く。そんな気がしてレーニエは不意に身を起こした。
そうだ、明日オーフェンガルド殿に会いに砦に行こう。そして、情報を得るのだ。様子を知れば何かできる事もあるかもしれない。奥方のご様子もお知らせ出来るし、きっと会ってくださる!
レーニエはそう決めた。
決めるとまた少し勇気が湧いた。ぐっと敷布を掴むと身から払い除け、寝台を降りると窓辺に駆け寄る。月光が彼女の愛する土地をやさしく包んでいるのが見えた。
「戦のおかげで人はあるべき姿から捻じ曲げられるのだ。このままにはさせぬ!」
小さな、しかしきっぱりとした呟き。
それは
ノヴァゼムーリャの領主は、闇の中できらきらと瞳を燃え立たせた。
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