第42話41.領主の選択 3
「そうか……フェルは決めたのか。行ってしまうのだな」
フェルディナンドの行く末について、セバストから話を聞いたレーニエはそう呟いた。
彼はファイザルの勧め通り、都の士官学校付属の教育施設に行くことになった。ここは確かな推薦人さえあれば無試験で入学できる。勿論、学内では厳しく選抜されるので、途中で止めてしまうものも少なくない。
フェルディナンドの行く末については案じていた事でもあるし、彼が自分で決めた事に自分が異を唱えることなどできない。レーニエはそう思った。
「勿論レーニエ様が反対されるのなら、フェルはお気持ちに反してまでも行こうとは思わないでしょうが」
「反対? そんな事はしない。私はフェルの将来を遮るような事はしたくない。今まで十分すぎるほど私に仕えてくれた。このまま私の従者で終わっていいはずがないよ。私からの
淡く微笑んでレーニエは養い親であるセバストに頷いた。
「そのようにいたします。お心遣いありがとうございます」
「それで……出立はいつ頃に?」
「来月の初めごろになるそうです。ヒューイも一緒で」
「そうか。ヒューイも……それではアダン殿も御決断されたのだな……ここも寂しくなる」
レーニエは、多くの優れた素質を持つフェルディナンドの将来を嘱望しながらも、そのような夢を持てない、残される我が身を憐れむようにつぶやいた。
夏は今までレーニエにとっては物憂い季節だった。
どちらかと言えば暑いのは苦手で、冬の間風邪一つひかなかったのに、暖かくなった矢先ににいきなり高熱を出したことは記憶に新しい。
さすがにノヴァゼムーリャは北国なので、都の夏のように空気が動かなくなるような蒸し暑さはなかったが、意外に気温は高く、日差しも強かったのでレーニエは日中は大好きな遠乗りも控えた。
しかし、そのことを除けば充実した夏だったと言える。
いくつかの結婚式に招待され、夏至祭には屋敷を解放して子ども達に喜ばれたり、祭りの『星娘』に選ばれた娘たちに衣装を贈ったりした。
作物の出来も平年並みで、レーニエは生れてはじめて農作物が生育してゆく様子を観察することができた。それは普段加工された食物しか見たことのなかった彼女の興味を大いに引いた。
日が傾き始めるとフェルディナンドかジャヌーと馬で村に出かけ、畑を見て回った。昨日はこのくらいだった果物が今日は一回り大きくなっている。レーニエは物差しで測ったり、時には絵に起こしたりしては村人たちに珍しがられた。小さな子ども達は、遠慮なく
領主は、そろそろ帰りましょうと促されるまでこのように過ごした。
何かをしていたかった。いつも何もしていないと、心に出来てしまったひびがじわじわと広がって行くような気がして。
強くなりたかった。心も体も。鍛え抜かれた鋼の体と心を持つあの人の前で、無様な自分を見せたくはなかった。
残された日々は駆け足で過ぎてゆく。短い夏は飛ぶように過ぎ去り、いつしか秋の気配が漂う。
「春には休暇がもらえます。すぐに帰ってまいりますので」
レーニエとフェルディナンドは、秋の色に染まりかけた領主村の風景を、露台から見下ろしながら仲良く腰かけていた。
空の色が薄まり、木々は梢の上の方から次第に色を変えてゆく。風が爽やかに露台を吹き抜ける。
夏が終わるとともに、フェルは入学の準備などで最近頻繁に砦に出入りし、屋敷を開けることが多くなっていたので、こうしてゆっくり話をするのは久しぶりだとレーニエは感じていた。
そしてもうすぐ彼は都へ出立してしまうのだ。
「ああ、そうだな。学校……私は行ったことがない」
「俺だってありません」
レーニエの心の機微が手に取るように理解できるフェルは、何でもないように答える。
「レーニエ様にお話できるように色々なものを見聞してまいります」
フェルディナンドは都で生まれたが、ほとんど王宮から出たことがなかった。だから、都での暮らしは初めてなのだ。
「楽しみにしている。寄宿舎に入るのなら、ヒューイと同じ部屋になれたらいいな。希望は聞いてもらえるのかな?」
「俺は誰と同室だって構いませんよ」
「フェルはそうでも、ヒューイは寂しいのじゃないか? 今まで大家族で仲良く暮らしていたんだし……この間訪問したら、アダン殿も、アーリアもそう言っていた」
「そうですか……アーリアが」
アーリアと言うのは、フェルの友人ヒューイのすぐ下の妹のことである。年はフェルディナンドより一つ上の十四である。
「んん? アーリアがどうかした? 珍しいね、フェルからアーリアの名が出るなんて」
「あっ! いえ、別に大したことじゃないので……すみません」
「あのね、この子ったら、先だってアーリアに好きだって告白されたんですよ」
突然後ろからサリアがにゅっと顔を出し、話に夢中になっていた二人は驚いて同時に振り返った。
「姉さん!」
「サリアか! 驚かさないで……で、それはどういう事?」
「うふふ。すみません。お茶をお持ちしましたわ。お菓子は私が初めて作った、双子梨のパイです」
双子梨とはノヴァゼムーリャの数少ない特産品で、まるで二つの実がくっついたような面白い形の果実で、大変甘く、そのままでも美味しいが、ジャムや飲み物にもなる。
「ああ、美味しそうだ……で? さっきの話だが……アーリアが? 本当なの? サリア」
「本当ですとも」
「姉さん! 口が軽すぎるよ! だいたいなんで、そんなこと姉さんが知ってるんだよ」
フェルディナンドはかなり慌てている。心なしか顔が赤い。この少年には珍しいことであった。
「だって、下働きの子から聞いたんだもん。その子はアーリアと仲良くってさ」
「……っ!」
女って何だってこう口が軽いんだろう! フェルディナンドが思いきりしかめた眉にはそう言いたげな様子がありありと出ていたが、自分の崇拝する主人も女であることを思い出し、賢明にも口には出さなかった。
「フェル……本当にアーリアから好きって言われたの?」
真面目な顔でレーニエは聞いた。
「ええまぁ……はい」
いかにもしぶしぶという感じでフェルが告白した。人づてにある事ない事言われるより、自分で白状した方がいくらかましだと思ったからだ。
「この間、砦からの帰り道に用事があって村を通った時、俺が都に行くってヒューイから聞いたらしくて。道に飛び出して来たんですよ、急に。こっちは馬に乗っているのに。馬も俺もびっくりしました」
「うんうん、それで?」
いつの間にかサリアも加わり、興味津津で身を乗り出している。サリアほど露骨ではないが、レーニエもやはり目を丸くして話の続きを待っている。フェルディナンドは諦めのため息をついた。
女ってのはなんでこんなどうでもいいことに興味を持つんだろう……。
「いきなり腕を引っ張られて、馬から下ろされて……」
「へえ~、アーリアったらやるわね」
「ぐいぐい林の中に引っ張って行かれたかと思うと、急にそんなこと言われて。俺もどうしていいか分からなくて……それで」
「どうしたの?」
この質問はレーニエからだった。フェルは参ったように、肩を落とす。
「急にそんな事を言われてもと思いましたが、突き放すのもよくないと思って……仕方がないので礼は言いましたよ。一応」
「礼って……それだけ?」
すかさずサリアが突っ込む。
「礼を言って、それからアーリアのことは嫌いじゃないけど、俺にも好きな人がいるから気持ちには応えられないって……そう言いました」
「……はぁ~」
固唾を飲んで聞いていた娘二人は、肩を落として大きなため息を同時についた。
「あんたねぇ、アーリアはこの村きっての可愛らしい子だわ。よく断る気になったわねぇ……もったいない」
「フェルにそんなこと言われて、アーリアは泣かなかったの?」
いたましそうにレーニエが尋ねる。
「う……それがその……少しは泣いてたような気が……」
女の子を泣かしたとは、流石にレーニエに思われたくなかったフェルディナンドは、いかにも言いにくそうに付け加える。
実はその先があって、泣いているアーリアをおろおろ宥めている内に、感極まった彼女からいきなり口づけされた等とは、口が裂けても言えないとフェルディナンドは思った。突然のことにびっくりして何も言えないでいるうちに、アーリアは泣きながら走り去り、後には呆然とした自分が残されたなどと言ったら、レーニエはともかく、姉のサリアは情け容赦なく攻め立てるだろう。
幸いアーリアは、そこまでは下働きの娘に打ち明けてはいなかったのか、この場はそれ以上追及されることはなかった。サリアは無言で自分の作った菓子を口に運んでいる。フェルが恐る恐る主を盗み見ると、領主は今の話が大変感慨深かったようで、複雑な表情で考え込んでいた。
「そうだったの。そんなことが……」
好きな人から応えてもらえない哀しみはよく分かる。アーリアに同情し、自分まで哀しい気持ちになるレーニエだった。
私も同じようなものか……。
未だにファイザルのことを思うと胸が痛い。我ながらあきらめが悪いと情けないが、これはもうどうしようもない。
だが、彼に余計な心配や、気遣いをさせたくないのもまた本心であったので、彼女は努めて普通に振る舞うようにしていた。自分の気持ちを覆い隠すのは、幼い時から慣れている。望んで叶わないこともまた等しく。
夏の間、彼の顔を見られたことは数回しかなかった。同席した数少ない機会では季節の挨拶を交わし、そつなく振る舞ったつもりだった。もっとも、自分ではうまくやれていると思っていたが、実のところファイザルが何と感じているかはわからない。
ただ、会う度、彼は優しかった。この上なく温和で、大人で、レーニエを優しく気づかってくれた。
行事のせいで周りに人がいる時が多く、交わせた言葉は少なく、そしてあたりさわりのないことばかり。だが、一度だけ周りの人々の間でふと眼があった時、彼の唇が自分の名を紡いだのがわかった。
レナ……。
距離が開いていたため、声に出しては何も聞こえなかったが、レーニエにはそれで十分だった。その瞬間周りの全ては消え失せ、音まで遠ざかり、彼の姿しか目に映らなくなった。
胸が熱くなり、こみ上げて来るものを必死で耐えた。
だから、アーリアの気持ちがよく分かる。想いが閉ざされたのは自分も同じだから。レーニエは唇を噛んだ。
それにしても――
「フェルに好きな人がいるとは知らなかった……いったい誰なの? あ……聞いてもよければ」
気持ちには応えられないが、
その言葉すら貰えなかったアーリアに同情しつつ、一方で、弟とも言ってよい存在のフェルディナンドが、いつの間にか自分の知らないところで恋をしていたことにレーニエは驚いている。
「……」
一瞬、フェルディナンドは忠実な召使にあるまじき顔で主を
「ん?」
自分を見つめる二対の視線に気が付き、レーニエはお茶を飲もうとした手を止めた。
「何? フェル?」
「……いいえ、俺は好きな人なんかいやしません。嘘も方便ですよ、そう言えばアーリアだって諦めるでしょう?」
少年らしくない苦々しい口調でフェルディナンドは呟いた。
「でも、フェ……」
「そうだ、姉さん。髪を切ってくれない? 学校へ行くんだから、少しはきちんとしないと」
そう言うと、少年はレーニエの言葉も待たずに席を立って露台を後にした。
そして一月後。
その秋一番美しく実った林檎の実をレーニエに送り、フェルディナンドは都に旅立っていった。
少年の長かった黒髪は肩につくくらいでばっさり切り落とされ、レーニエに挨拶をした時、彼女より幾分低かったはずの背は、いつの間にかはっきりと分かるほどに追い越していた。
「何事も勉強だと思って一生懸命にやるんだぞ」
「規則正しい生活をして、しっかり食事を摂ること。夜更かしはダメですよ。後、なるべく小まめに手紙を書くこと」
「頭いいのだけが取り柄なんだから、全ての科目で優等を取って私に自慢させてよね」
セバストもオリイもサリアもそれぞれ別れの言葉を送っている。フェルディナンドは辛抱強く振る舞っていた。
長く仕えてくれた忠実な少年にレーニエも何か餞の言葉を掛けてやろうとしたが、声が詰まって何にも言えない。自分が情けなくて唇を噛みしめているうちに彼はきびきびと彼女の前にやってきて膝まづく。
「フェル……フェル」
「では行って参ります。レーニエ様にはどうかお元気で……」
フェルディナンドはレーニエの手を取り、口づけを落とすとそのまま踵を返した。
レーニエが最後に見たのは、馬車の窓から笑いかける青い瞳と、まだ目に慣れない柔らかな波を描く短くなった髪。
彼女が一年前にやってきた道を逆に馬車が去ってゆく。あの日もこのような薄青い空の色だった。
レーニエは街道に小さくなってゆく馬車をいつまでも見送っていた。
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