第41話40.領主の選択 2

 北国の夏の訪れは遅いが、来ればあっという間の二か月間である。

 娘たちはこぞって薄着になり、髪を下ろして花々が咲き乱れる荒野をさざめきながら駆けてゆく。

 夏は若者のためのものだ。あるものは恋をし、あるものは遠くの村に嫁いでゆく。

 北の辺境、ノヴァの地にもそんな華やいだ季節が訪れ、領主村の広場ではこの夏、いくつもの結婚式が取り行われた。

 村人の歓声、祝福の拍手、舞い散る花びら、きらめく陽光。

 そうして気が付いた時には短い夏の盛りは過ぎ、季節はまた一つ歩を進めようとしている。溢れるばかりだった陽の光はやや色が褪せ、果樹園の果物の実が大きくなりはじめていた。


「フェルディナンド!」

 講義が終わり、後片付けをしはじめた少年達に後ろから声が掛けられる。

 フェルディナンドが振り返ると、少年たちの学習の世話人の士官が、講義室の出口で手招きしていた。こんなことは初めてだった。

「なんだろ?」

 フェルディナンドはヒューイを見て首を傾げた。自分はなにかしでかしただろうか?心当たりは全くないが。

「さぁ、でも早く行った方がいいぞ。門のところで待っててやるから」

「ああ、うん。でも遅くなりそうなら先に帰っててくれ」

「わかった」

 ヒューイは年下の友人に手を振って講義室を出て行った。

 この二人を除いた他の少年たちは、セヴェレ砦に住み込んでんでいる見習い兵士だから、門を出て家に帰るのはヒューイとフェルディナンドだけだ。見習い兵士達は大抵は十代半ばで、中には青年と言ってもいい者もいる。入隊の年齢は大まかなものなのだ。

「なんでしょうか?」

 呼び出されたフェルディナンドは階段型の教室を降りて、教官に尋ねた。

「ああ、呼び止めてすまんな。実は指揮官殿がお前を呼んでおられるのだ。今すぐに執務室に行って欲しい。場所はわかるか?」

「ファイザル指揮官様が? わかりました」

 フェルディナンドには彼に呼ばれる理由が見当たらなかった。しかし、ここはまぁ従った方がいいだろうと思い、素直に応じておく。

「前に伺ったことがあるのでお部屋の場所はわかります。これからすぐにお伺いしてきます」

 少年は礼儀正しく辞儀をし、きびすをかえした。

 なんだろう?

 ファイザルの執務室はセヴェレ砦の殆ど最奥である。そこへ行きつくには幾つもの廊下と階段を通り過ぎなくてはいかない。指揮官は日ごろ、執務室に籠ることはあまりないと言うが、そう言えば最近彼の姿を見ていないな、とフェルディナンドは思った。半ば走るような足取りの向こうに大きな両開きの扉が見えた。脇にフェルの知らない若い兵士が立っている。

「フェルディナンドさんですね。伺っております」と重々しい扉を叩く。

「指揮官殿、領主館の少年が来られました」

 領主に敬意を表しているのか、大人の兵士がフェルディナンドに向かって大変丁寧な態度で扉を開けてくれた。

「ああ、ご苦労。おまえは下がってよい」

「は」

 少年と入れ違いに兵士は一礼して出てゆく。フェルディナンドが部屋を見ると、中央の大きなデスクにファイザルが座っていて、何やら書類に目を通しているところだった。

 しばらくして彼が目を上げる。フェルディナンドは真正面に立っていた。

 森の湖のような青と、冬の空のような青の二つの瞳がぶつかる。

「久しぶりだな、フェルディナンド。帰り際に呼び立ててすまない」

「ご無沙汰いたしております。お呼び出しと伺いました。私に何かご用でしょうか?」

 フェルディナンドは挨拶もそこそこに、急な呼び出しの訳を尋ねた。堅苦しい真面目な表情は崩さない。そんな少年にファイザルは唇の端だけで笑い、手にした書類を脇にどかす。

「実は今度、都にある士官学校の予科生の募集があるのだが、君にどうかと思ってね」

 ファイザルは顎の下で手を組んだ。

「士官学校?」

「そうだ。都の士官学校の将校殿がこの間から滞在していてな、この砦の教練を視察された。その折に君が目にとまったらしい。学問、剣術、体術ともに非常に優秀だと褒めていた。士官候補生として、王都で教育を受けさせたいそうだ。士官学校に入学するには推薦状が必要なのだが、君とセバストさんさえよければ、俺が推薦状を書こうと思う。ご領主様にも君の将来を頼まれた事もあるし」

「……」

「予科生になったとして、必ずしも軍士官になると決まった訳ではないが、とりあえずどこかの組織に属さないと、ここではこれ以上の教育は受けられない。予科は二年間だが、しばらくでも士官学校に入れば適性も分かるだろうし、他に進みたい道が出来たのなら、しかるべき教育機関に紹介もできる。もし君が高等教育を受けたいと思うならば行くのがいいと俺は思う」

 そう言ってファイザルは少年を見据えた。

「……よくわかりました。私も教育は受けたいです。しかし、おっしゃる通り、どうしても軍人にはなりたいと言う訳ではありません」

 フェルディナンドは、はっきりと答えた。軍人になれば命ぜられたとおりの部署に配属され、前線だろうが後方支援だろうが、命令に従わなければいけない。下手をすれば、何年もレーニエの元を離れなくてはならないのだ。フェルディナンドの究極の願いはその主を守ることだから、まったくの職業軍人になるつもりはなかった。

「そうか、そうだろうな。君の望みはわかっているつもりだが……しかし、一度は広い世間を見ておくのもいいだろう……あの方もそうお望みのようだから」

「わかっています……ご配慮痛み入ります。でも、返事は少し待ってもらえますか? 士官学校に入ったら都で暮らさなくてはならないし、お屋敷にはなかなか戻れないでしょう。とりあえず両親とご主人様に相談をさせてください」

 二人とも愛しい人の名を敢えて口にしない。まるでそれが二人の間の不文律でもあるかのように。

「ああ、無論それは構わない。何ならヒューイにも声をかけてもいい」

「お気遣いありがとうございます。ではこれで失礼いたします」

 フェルディナンドは堅苦しく礼を述べた。そして丁寧に辞儀をし、扉を開けて部屋を出て行こうとした時。

「お健やかだろうか……」

 あの方は?

 退室しかけたフェルディナンドを引きとめるかのように、声が掛けられた。フェルはわざとゆっくり振り返る。

 そこには有能な指揮官の顔をした男はいなかった。

「お元気ですとも」

 ファイザルの意図をフェルは明確に受け取った。

「この季節を外で過ごすのは初めでだとおっしゃって、いろいろなものを珍しがってあちこちを見て回られておられます。時には珍しい作物なんかを写生されたり。ですが、どちらかと言うと暑い季節は苦手な方なので、両親はことの他、お身体を心配していて。姉などは日焼けをされないか気にして、いつも帽子を持って追いかけています」

 何でもない世間話のようにフェルディナンドは説明した。ファイザルの知らない館の日々は、自分にとっては何も珍しくない『日常』なのだと言外に含ませて。

「そうか、お元気であらせられるか。それはよかった」

「……失礼いたします」

 少年は再び一礼して部屋を出て行った。

「……」

 ファイザルは組んだ手の中に額を埋め、長い溜息をついた。

 いったい何をしているんだ、俺は。

 フェルディナンドへの伝言など、教育係の士官に任せればいい事だった。

 どうしてわざわざ自分が呼び立てられたか。そんなことぐらい、あの明敏な少年ならすぐに察したに違いない。

 脇に置いた書類の束を再び手にとって、目を通す。

 それはファラミア――王都からの報告書であった。都の様子、政治的な動き、南の戦況の詳細と新たに|割(さ)く部隊の数。こまごまとした報告は重要なものであるはずなのに、文字面はちっとも頭に入ってこない。

「……」

 太いため息が漏れる。

 この夏、領主と全く会えなかったわけではない。

 それは村長宅の会食であったり、アダンの長男の結婚式であったり、夏至祭の舞台の貴賓席だったりした。

 レーニエは、夏の日差しに肌を透かせながらそこにいた。

 男物の地味な服装をしていても、青年達はおろか、娘たちまで憧れの眼差しを送る美しすぎる姫。

 以前と違う所は纏う服が黒一色ではなく、明るい色も着るようになったことだろうか? 風に白銀の髪が透けると、おとぎ話の妖精のように見えた。

 いつでも、どこにいてもしなやかな立ち居振る舞いは生まれついてのもので、無意識に誰もが目で追ってしまう。本人はそんな事には無頓着で、相変わらず地道な努力を続け、近頃はすっかり村人たちの尊敬と信頼を受けるようになっていた。

 ファイザルを見かけても涼やかに挨拶をし、淡い頬笑みを浮かべてあたり障りのない会話に応じた。少なくともファイザルにはそう見えた。

 あの夏の始まり、夜明けの湖の出来事は夢だったのではないか。

 そう思ってしまうほどに。

 あの時、彼の腕の中で明らかに女の顔をしてレーニエは震えていた。半開きの唇がわななき、見開かれた赤い瞳から透明な雫が溢れ、頬を伝って彼の指を濡らしたのは――

 羽のような体の軽さまでこの腕が覚えているのに。

 ファイザルはまぶたを伏せた。無意識に差し出した腕は力なく下ろされ、拳が堅く握り込まれる。全て自分の意図したように事は落ち着いているのに、この空虚な感覚は何なのだろう。

 窓の外にはようやく黄昏が訪れようとしていた。窓外にはのどかで平和な美しい風景が広がる。しかし、ファイザルの目にそれらは映らない。

 俺は大馬鹿野郎だ!

 彼は諦めて、ちっとも頭に入らない報告書をばさりと投げだした。今日は一日机仕事だった。停滞はよろしくない。そこらの若い兵士を数人捕まえて組手でもしようと傍らの剣を取ると、上着を脱いで乱暴に席を立った。

 肉体を苛めぬけば、ろくでもない思いを持て余すことはないだろう。今までもそうやって数々の苦しみや悲しみを葬り去ってきた自分なのだから。

 彼はぎしりと愛剣の柄を握り締めた。




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