第13話12.領主の憂鬱 6

「あなたには出来ると思います」

 ファイザル指揮官の湖のように深い青い目が、自分を見つめてそう言ったのだ。

 寝室に残されたレーニエは、しばし呆然と彼が閉ざした扉を見つめていた。

 いったいどういうつもりであの人は、あんなことを言ったのだろうか?

 彼は世慣れた大人で、経験豊富な軍人だということぐらい、世間知らずの自分にもよくわかる。だからその言葉は、決して軽はずみな心情から口をついたものではないことも。

 大嫌いで、ひた隠しにしてきた顔を明らかにされ、自分が女であることさえも知られてしまった。 

 彼はこれから私をどうするつもりなんだろうか?

 ゆっくりと衣服を身につけながらレーニエの思いは複雑である。

 あの人は疑っていたと言っていた。鋭い眼をもつあの人には私の浅はかな考えなど、すぐに見破られてしまうようなことだったのだ……なんて恥ずかしい……

 レーニエは彼が触れた頬のあたりを自分で触ってみる。ざらざらした厚い皮膚をもつ手のひらの感触を思い出し胸が妙に苦しい。こんな感情は初めてだった。

 思わず腕をまわし、自分を抱きしめてみる。

 貧弱な体。あの人はどう思ったのだろうか……

 ぎゅっと目をと閉じる。

 だけど――

 彼の態度は変わらなかった。いつもと変わらず、大きくて優しかった。そして、自分を諭し、励ましてくれた。

 レーニエがへたり込んでいる質素だが大きな寝台は、ファイザルがいつも使っているものだろう。それは仄かに大人の男の香りがして、まるで彼そのもののように、レーニエを包み込むような気がした。

 今はそれ以上考えられない。

 レーニエは靴を履くと、そっと扉を開けた。

「……?」

 寝室と次の間を挟んだ執務室は、その主の性格を反映しているのか、同じように広くて飾り気のない部屋だった。正面の壁には大きな書庫があり、左側には観音開きの正面扉、両側には重々しい肖像画が幾つか掛けられている。

 右の壁際に据えられた大きな机にはたくさんの書類が積んであり、その後ろに大きな窓に挟まれる形でエルファラン国の地図が貼ってあった。

 寒さを防ぐためだろう、窓には厚いカーテンが下げられているが、今は開けてあり、暗くはなかった。

 そして――

 部屋の中央でファイザルが突っ立ったまま、ジャヌーからなにやら報告を受けている。他の人間いるとは予想していなかったレーニエは扉の陰でぎくりとなり、慌てて閉めようとしたが、すぐに気がついた二人は同時にこちらを振り向いた。

「ああ……できましたね。もう正午もかなり過ぎました。空腹ではありませんか? 兵舎の食堂でご一緒に昼食でもいかがです?」

 レーニエが仮面を外しているのを、さも当たり前であるかのように話すファイザルの後ろではジャヌーが硬直している。持っていた書類の束がばさりと床に落ちて舞った。

「あ……あ……」

 ぽかんと口を開けたまま、何やら言わんとしている。視線の先には白銀の髪をおろし、胴衣姿のままの領主の姿。

「なんだジャヌー! ご領主様の御前で不作法だぞ。さっさと拾え、馬鹿者」

「こっ、これはっ! 失礼いたしましたっ!」

 ジャヌーは慌てて書類を拾い集め、その陰から食い入るようにレーニをを凝視している。心なしか顔が真っ赤である。その様子をなるべく見ないようにして、レーニエは呟いた。

「あの……食事……こちらに運んでもらえないのか」

「そりゃお望みとあれば。そうなさいますか? 俺は向こうで食いますが……では、ジャヌー、お前がお相手を……」

「う……」

「は?」

 それは困る。というか、お互い大変気づまりだろう……とファイザル以外の二人が同時に口ごもった。

「おおおお俺? 俺ですか? あああの、指揮官殿、こちらは……その、本当に?」

「ご領主様だ」

 いささか面白そうに彼の上官は部下に流し眼をくれた。だがそれ以上の説明はない。

「ご領主様? ……レーニエ様、ですか?」

「ほかにどなたがいる」

「……いえ、あの……いつも帽子と外套をお召しになっていらして……その、お顔を見るのは初めてだったもので……まさかこんな……こんなにお美しい方だったとは……や、これはとんだご無礼をっ、申し訳ございません」

 自分が何を言っているのか気づいたジャヌーは、ばね仕掛けのように腰を折り曲げた。

「……」

 レーニエはそんなジャヌーの様子を正視できないらしく、横を向いて俯いている。

「……で、いかがなさいますか? お食事は」

 いささか恨めしそうな領主の様子をまったく気に掛けない風で、ファイザルが再度尋ねた。

「……食堂にいく」

「左様でございますか。ちょうどいい具合に今頃なら空いているはずです。ジャヌー、行くぞ」


「指揮官殿、あのう……せめて帽子だけでも……」

 長い廊下をファイザル達が通り過ぎると、すれ違う者たちは一礼しつつも、皆一様にぽかんとした顔をしてレーニエを見つめる。若い領主は身が縮こまりそうだった。

 あのような視線はまだ子供だったころ、普段あまり行かない場所に出向いた折によく目にした。いつまでたっても慣れなくて、いかに自分がおかしな姿をしているか思い知らされた。その記憶がレーニエの身を竦ませている。

「いーや、ダメです。言ったでしょう? あなたがきれいだから皆見つめるのです。それとも、俺が信じられませんか?」

「そ、そう言う訳ではないが……えっと」

「はい?」

「私の……その……」

 か細い声。ファイザルはその意を解してようやく立ち止まった。

「承知しました。俺がすぐ前に立っています。どうしようもなくなったら、横に来られるとよろしい。俺の腕でくるんで差し上げます」

「……それはイヤだ」

「おや残念。ではしっかり顔をあげて堂々としておいでなさい」

 そうはいっても、長年刷り込まれた感情はすぐに消し去れるわけもない。

 レーニエはやはり顔をあまり上げられないまま、ファイザルとジャヌーに挟まれるようにして、兵士用の食堂に入った。

 そこは一度に約二百人が食事をできる施設で、料理人もまた兵士たちと言う男ばかりの場所である。

 ずらりと並んだ大テーブルの上に、大皿に盛られた料理が所狭しと乗っており、各自皿をもって好みの料理を取ってゆく合理的な形式であった。

 勿論、高級将校たちは、各々の個室で特別な献立を頼むこともできるが、ファイザルはあまりそう言うことはせず、通常は一般の兵士と同じものをこの場所で摂るのが常であった。

 だから、彼らが入ってきても誰もが驚くこともなく、ガヤガヤした雰囲気も特に静まる様子もなかったが、促されるようにして大柄な彼らの後ろから、ほっそりした長い銀髪の若者が姿を見せた時、気がついた近くの席にいた者が、隣の者を肘でこずいて彼らに注意を促した。


 おい、見ろよ。あの銀髪ビジン。誰だ?

 知らない……けど、すげぇな。なんていう……

 ああ……麗人とはああいう人のことを言うんだろ?

 いったい男か女か?

 女がこんな殺風景なところに来んだろ。そう言えば、ひと月ほど前にノヴァに赴任したとか言う領主様が今日、視察に来られるって言ってなかったか? 午前の当番のやつが儀礼の槍の練習をさせられてたような……

 あーあ、言ってた言ってた。じゃあ、ひょっとしてあれが……? 若いな。まだ子供のようじゃないか。

 こんな辺境に来るなんてよっぽどもの好きか、あ、もしかして左遷、更迭……とか?

 さぁな、お偉い方々の考えることなんざ、俺たちにわかるかよ。

 しかし、なんだ……ってことはやっぱり男か。残念。

 馬鹿。男だって女だってお前なんか目にも入れて下さらねぇよ。

 ちげぇねぇな!


「……さ、こちらが盆でこの上に皿を置き、好きな料理を好きなだけ取り分けます」

 あたりで交わされる囁きなど意にも介さず、ファイザルはまめまめしく食事の仕方を教えてやる。

「む……」

「やったことないのでしょう? できますか?」

「大丈夫だと……思う」

「しゃもじとお皿をどうぞ」

 ジャヌーが恭しく、木製の匙と大皿を差し出した。二人の後について、長い卓の縁につく。

「……」

 レーニエは唖然として彼らの皿を見ていた。

 ファイザルもジャヌーも一皿では足りずに、大皿二つに料理をてんこ盛りにしている。それだけではなく、別の器にスープやパンも入れて、二往復もして自分の分を準備した。レーニエと言えば、大皿の中心に食べられそうな料理を二、三品と、小さなパン、後は果物を入れただけだったのだ。

「それだけでいいのですか? ああ……やっぱり、こんなところの食事はお口に合わないとか……」

 申し訳なさそうにジャヌーが言いかけのを「そうじゃなくて、私はこれで普通の量だ」と、レーニエは大変言いにくそうに告白する。

「あ~なるほど。流石に都の貴公子は俺たちとは体の造りが違うんですねぇ……」

 ジャヌーは妙に納得している。その様子をファイザルは面白そうに見つめ、黙って食べていた。勿論ジャヌーも実に気持ちよく自分の皿を攻撃してゆく。

「……」

 こっそり周りの兵士たちを見ても、同じような分量の食事をきれいに平らげた後がある。

 飲み物もふんだんに用意されているが、自分の食べた分の食器は、自分である程度きれいにして洗い場に運ばないといけないので、不精なものは、同じ皿や杯に何回もお変わりをしているようだった。

「食事を済まされたら、午後の訓練をご覧になりますか?」

「う……うん」

 レーニエは、濃い味付けの煮込みを一生懸命飲み込みながら頷いた。




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