図書館暮らし。
宇部 松清
第1話
深緑の森の奥の奥にあるこの図書館には、
1人は黒山羊の角を持つ『夜を焦がれる人』。
もう1人は満月色の長い髪を持つ『
ある時は囚われの王子を助けに行くお姫様を陰ながら応援し、
またある時は孤独な魔女の話し相手になる。
手に汗握る冒険譚に出掛けることもあれば、
うっとり甘いラブストーリーに赤面することもある。
それから、食材の本で料理をしたり、レシピの本で出来合いのものを食べたり。
2人はそうして生きている。
本と共に。
ここは図書館、2人の家。
◇ ◇ ◇
「梯子の君、A32-8の棚から【バターの本】を取ってくれないか」
そう声をかけられた時、私はというと、【ネジの本】から中央テーブルの補修用ネジを数本抜き取っているところだった。
A30番台の棚は、確かに私の方が近い。
そう思い、【ネジの本】を棚に置いて立ち上がる。ひょいひょいと梯子を渡り歩いてA32-8の棚から【バターの本】を抜き取り、彼の元へと向かった。
「よいしょ、と。はい、どうぞ。昼ご飯は何ですか」
「ふむ。【ほうれん草の本】のほうれん草がだいぶ育って来たからね、まずはそれをバター炒めにする。そして――」
「そして?」
「どうしようか」
彼――夜を焦がれる人はそう言って、丸眼鏡の奥の瞳を細めた。そのぴかぴかの金縁眼鏡は彼の宝物らしい。
「梯子の君は他に何が食べたい?」
私が『梯子の君』と呼ばれるようになったのは、いつのことだっただろう。
恐らく、私の読みたい本が、ことごとく梯子を使わなければ届かないものばかりだったため、一日中梯子を上ったり下りたりしていることからそう呼ばれるようになったのだ。
えぇと、それは一旦置いといて。
何、何が食べたいかなぁ……。
◆ ◆ ◆
「ふむ。彼女はバターの焦げる香りが好きだっけなぁ」
ぐぅ、という腹の音でそろそろ昼食の準備をせねばと立ち上がる。
昨日読んだ【ほうれん草の本】はなかなか食べ頃の様子。
これをバターで炒めるとしようか。
しかし【バターの本】は、俺から少々遠いところにある。
その上、かなり高い位置だ。
となれば――、
「
梯子の上に腰掛けて【ネジの本】を読んでいた梯子の君は、その本を棚に戻してひょいひょいと梯子を渡り、あっという間にA32-8の棚に辿り付くと、【バターの本】を携えて俺のところへやって来た。
「よいしょ、と。はい、どうぞ。お昼ご飯は何ですか」
まずは、ほうれん草のバター炒め。そう答える。
しかし、問題は、それ以外のメニューだ。
他に何が食べたいのか尋ねると、梯子の君は、その長く美しい満月色の髪をさらりと揺らして首を傾げた。
いまの姿のまま、ぽん、と生まれた彼女を『梯子の君』と呼び始めてもう200年ほどが経つ。
君のその長い髪が、月からのびる梯子に見えたからだと言ったら、君は同じように首を傾げるのだろうな。
「――そういえば、今朝、素敵な旅行記を見つけたんです」
◇ ◇ ◇
「旅行記? どの辺りに?」
「Tの棚です。天井すれすれでしたから、今朝生まれたばかりの本みたいですね」
Tの棚と聞いて、彼は目を極限まで開いて私を見た。
驚くのも無理はない。
だってTの棚はどちらかといえば彼の管轄だから。とはいえ、新しい本というのは、そのほとんどが天井すれすれでその産声を上げるのだ。となれば、一日中梯子を渡り歩いている私の方が新刊に遭遇しやすい。
「【オリヴィエ旅行記】といいまして、旅行記というタイトルではあるんですけど、内容は9割くらいが食べ物の話なんですよ」
「ほう……。グルメ紀行か」
「お昼は軽めにして、夜はそこから食べませんか?」
「良いね。では――」
金縁の丸眼鏡を、くい、と上げ、彼はA49-2の棚に視線を移動させた。あの辺りには【パンの本】が並んでいる。
「クロワッサンか、ベーグル辺りで適当に済ませようか。その分、夜はしっかり食べよう」
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