第3話 籠に気付いた鳥

 教室のドアを開いて、廊下に出た。正面には窓硝子。まずは左右を確かめる。


「――突き当たりが、見えないな」


 一瞬わが目を疑った。あるべきはずの突き当たりが見えない。右にも、左にも。どこまでも続く廊下。

 窓からじかに差し込む光はなく、教室の中よりもさらに闇が濃い。通路の果ては、濁った琥珀のような闇の中に溶けこんでいた。


「どこなんだ、ここは」


 情報を求めて周囲を見回す。

 振り返って出てきた教室の入口、その上方に目をやったときに、そこにプレートが突き出ているのに気づいた。そのプレートに刻まれた文字は、『B-1』。


 これが何を意味するのかは分からない。無機的な表示だ。まるで機械の数値情報を格納するための変数名のように。


 この廊下に面して、いくつもの教室が並んでいる。よくよく見てみれば、各室の入り口にはいままで俺たちがいた教室と同じようにプレートが取り付けられていた。それを、歩きながらひとつひとつ目で追っていく。


 『B-2』と、続く『B-3』。さらにその先を確かめるために、ゆっくりとそちらへ向かう。『B-4』。そして、その向こうに見えてきたのは……『B-1』。


「逆戻りか?」


 歩む方向はそのままで、俺は再びプレートを確認していく。


 B-2、B-3、B-4……そしてまた、B-1。


 延々と続く、規則的なプレートの列。無限に続くかのような奥行き。しかしその番号は、わずかに四まで加算されるごとにループしていた。


「……『外に出られる』っていっても、今の俺たちに選べる行き先はたったこれだけってことか」


 俺がそう苛立ち混じりに呟くと、これまで黙って追随してきた桐香は、「そうみたいね」とそっけなく答えた。


「もっと広いところに出たければ、勝ち進むしかないってことかしらね。今のわたし達はまだ、何もできない籠の鳥。せっかく『外』の世界の存在に気づいたというのに、肉体と、精神と、自由。このみっつを手に入れないと、どこにも行けないまま。……さて、どうしたものかしら」


 そう言うと桐香は小さなため息を吐いた。


 俺は、そんな桐香の表情をうかがう。すこしだけ苛立ったような表情。そこには、彼女自身が挙げた「三つの動機」への渇望はあまり感じられなかった。


「どうにもならないさ。戦わなければ、な。だけど、望んだわけでもないのにこういう状況に放り込まれて『ほかにすべきことがない』ってのは、正直なところ不愉快だな」


 不愉快、というよりも、焦り。あるいは恐怖といったほうがいいのかもしれない。おそらくここで負ければ、また記憶や肉体を失って亡霊同然の存在に落ちぶれてしまう。自分が何者であるかも分からないまま、閉ざされた空間に封じ込められた人間の残骸へと成り果てる。戻りたくもない、ろくでもない結末だ。


「……そうね。まずは、勝たなきゃ」


 桐香はまるで自分に言い聞かせるかのように呟く。その声音は、どこか虚無の響きを感じさせる。空しさ。そのとおりだ。さっきの戦いにしたって、あの名前さえも知ることができなかった男女の未来を、俺たちは結果として踏みつぶしてしまったのだ。誰が、そんなことをしたいものか。


 心は、こんな下らないことをしたくはないと叫んでいる。


 だが、それはいま口に出してはならない……桐香に聴かせては、いけないことだ。


「ああ。勝たなきゃ、俺たちが消え去るだけだ」


 だから、心に刻まなくちゃいけない。逃げ場のない、この状況を――。



 その言葉が廊下の奥に響き、消えていったとき、かわりに何者かの足音がゆっくりと近づいてくることに気づいた。こつこつ、こつこつと、板張りの廊下を鳴らす踵。人数は、おそらく二人。



 俺と桐香は、その音の源に視線を滑らせる。暗く沈んだ飴色の闇から、ゆらりと立ち上る人影がふたつ。どうやら男女のペアだろうか。


 ふたりはゆっくりと近づいてくる。その歩みとともに、確定されるシルエット。

 男は、背が高くかっちりとした輪郭の、精悍な影。

 女は、まるで色鮮やかな花束のように華美な姿。

 ふたりの顔かたちがはっきりと見て取れたのは、ほんの十歩ほどの距離に至ったときだ。


 まずは、女がその場で立ち止まると、ぱちぱちぱちと軽い拍手をした。そして口を開く。


「――そうよ。あなたたちの行動原理は正しい。まだまだ、この世界クラスタは狭すぎるもの。勝ち抜いてもっと広いところに出て行かないと、息が詰まっちゃうわ」


 華やかで迷いのない声。おそらくは敵になるであろうこの女の声は、なぜかとても涼やかに響いた。


「お前達が、ちょうど『四組目』だ。俺たちは三組目。戦うには丁度いい」と、男。

 緊張感のあるその声は、競技者のように厳しい雰囲気をたたえている。


「じゃあ、一組目、二組目はどこにいるんだ?」と、俺は目の前の二人に訊いた。


「私たちがここへ来て、しばらくしてから……あなたたちが来る前には、もう戦いを始めたわ。今はどこか別の世界で、決着をつけてるところじゃないかしら」と、女は答えた。


「じゃあ、あなた達はあぶれたってわけ?」と、桐香は訊く。

 その問いに、女はおかしそうに笑った。


「そうなるわね。でもね、そのなかの一組……サキっていう奴のペアだけど、えらく手強そうだったから、いま戦わずに済んでラッキーだったと思うわ」


「サキ?」と、俺は訊く。


「そう。彼女の名前は、サキ・ハリード。こんな低層の世界クラスタには不似合いなくらいに、決意にみちた顔をしてたわ。ああいう『絶対勝たなくちゃ』っておそろしく意気込んでる手合いは、ご免こうむりたいものだわ。だって面倒なんだもの」


 そう言って、くつくつと笑い声を漏らす女。つかみどころのない態度と、改めて見れば、道化師のようにも見えるほどに華美な改造を施した制服。傍らに立つ男の質実剛健さ、寡黙さと比べると、まさしく好対照をなしていた。


 そんな二人を、桐香は射貫くような目で観察していた。さまざまな表情を見せる桐香の目。彼女は、かつての俺のことを記憶していた、という。過去の俺は、彼女の目にはどういうふうに映っていたのだろうか。


 女の笑い声がひとしきり響き終え、消え去ったときに、桐香は「さてと」と呟いた。


「じゃあ、まずはあなた達の名前を教えてちょうだい」と、桐香。


 いいわ、と女は答える。


「わたしは、イミナ。……イミナ〝アルルカン〟エックハルト。こうやって自己紹介できるのも、この戦いから、ね」


「俺は、ポーフィック・モルフィアス。では、お前達の名を教えてくれないか」


 男……ポーフィックの問いに、俺は答える。


「俺は、海堂樹。よろしく……というのも変な話か」


「いいや」と、ポーフィック。


「お互いの名を知り納得づくで戦う。そして、勝った者はより上層のクラスタへと進む。俺はそう振る舞いたいと願っている」


「ああ」


 たしかに、その通りだ。感傷に溺れていては窒息してしまう。

 隣に立つ桐香も、ごく自然な所作で一礼しながら名乗る。


「わたしは桐香・ベイドリック。あなた達もそうだと思うけれど、せっかく取り戻した私の名前だもの、これを手放したくはない。執着はあるわ」


 桐香の言葉に、女……イミナは頷いた。


「もちろん私もよ。イミナという名前を持ったままで、ここよりもっと広いところに行きたい。でも……そうね、戦わないまま、あなたたちと一緒にここに留まるという選択肢もあるのかもしれない。だけどまだ、わたしもポーフィックも記憶がじゅうぶんに戻っていないから、その選択をしたとしても、満足のいく話相手にはなれないわ。……きっと。あなた方もそうでしょう?」


「そうね」と、桐香。


「わたしも、肉体を、精神を、……いるべき本当の世界を、取り戻したいとは思うわ。それができなければ、待っているのは無限の退屈だから」


 しかしその言葉は、どこか気のない返事のように俺には思えた。桐香は退屈を怖れるような人間には見えなかった。この戦いに勝ち残れたとして、彼女は何を望むのだろう。


 桐香とイミナは、お互いのつぎの言葉を待っているように見えた。ポーフィックは、ただ黙ったままイミナの脇に控えている。こう言ってはなんだが、あの二人のうち、思想についてはイミナが支配しているのかもしれない。ポーフィックの意志は、まるで彼女の思考に力をもたらすことのみを目的としているようにも見えた。


 そして、わずかに数秒の沈黙。桐香が何事かを口にしようとしたときに、彼女とイミナのはざまの空間に、瞬きつつゆらめく小さな光が現れた。


「なんなのっ!」と、桐香が数歩後退った。

 イミナは、なにが起こるのか理解しているのか、片眉をぴくりと震わせただけだ。


 生まれ出た光は、球状の軌道面を不規則に移ろいながら、徐々にその明るさを増していった。明るさが瞳孔を突き刺すほどに強まったときに、ふいにその光は空中の一点に収斂しゅうれんした。

 光の一点に重なるようにして、ふたりの人間の姿が徐々に現れる。虚空から染み出してくるかのように。


 現れたのは、やはりというべきか……再び男女のペアだった。


 女は、中空の一点よりかろやかに着地する。身にまとう衣服は、しなやかな肢体に寄り添うかのような、軽快なシルエットの制服。短い袖の上衣や、閃くスカートからあらわれる浅黒い肌には、呪術的な文様が描きこまれていた。その貌は……どこか小型の肉食獣や猛禽類を思わせる精悍な輪郭のなかに、女性的なやさしさも備えている。ふしぎな印象だった。


 男は、大柄な体躯を純白の制服で包み隠していた。彫像のように引き締まった貌に鋭い眼差し。ポーフィックの精悍さとはまた異なる、兵士のようなシルエット。さしずめ、女の護衛といったところか。


 女は大きく頭を振って、額に落ちかかる乱れ髪を振り払った。男は、そんな女を守護するかのように、俺たちとイミナ、ポーフィックを捕捉していた。


 イミナが、そんな二人に声をかける。


「――サキ・ハリード、やはりあなたたちが勝ったのね。ひとまずは、おめでとうと言っておくわ」


 イミナの祝福に、サキと呼ばれた女は小さく頷き、言った。

「いまはまだ、階梯かいていの途中。この先でやるべき事をできなければ、いまひとときの勝利も意味のないものになってしまう。……私は、必ず勝ち続ける」


 それだけを言い残し、サキは俺たちとイミナたちに背を向けた。そんな彼女の背中に、桐香がためらいがちに声をかけた。


「……少し、訊いてもいいかしら?」


 サキは振り向き、桐香の目をまっすぐに見つめた。桐香はその真摯な眼差しに、わずかにひるんだように見えたが、その狼狽をねじ伏せるかのようにサキの視線を受け止める。


「何かしら」


「あなたの目的が知りたいの。これから勝ち続けたとして、この先になにが待っているというの? ……わたし、多分、負けてしまったせいで記憶の多くを無くしてしまったみたいなの。よかったら、この世界のことを教えてほしいんだけど」


 桐香の質問を、サキは黙ったまま聴いていたが、やがて静かに首を横に振った。


「その質問にこたえられるなら、そうしてあげたいとは思う。だけど、それはまだ私にも分からない。でも、私たちが無限の存在でないかぎり、この世界での有限回の戦いに勝ち抜いていけば、やがて終わりの時は来る。それを見てみたいだけ。……そして」


 と、サキは窓の外に見える空を眺める。ガラス一枚を隔てた、しかし今はまだ誰にも手の届かないところに広がる、空。


「いつかこの世界を、見渡せるところに、私は立ちたい」


 そう言い残して、女はその場を立ち去ろうとして踵を返す。そんな彼女に、桐香はなおも訊いた。


「……そんな漠然とした理由で貴方は戦い続けられるの? この世界のこと、なんにも分からないままなのに」


 桐香の質問に、サキは微笑んだ。鋭い眼光がふいに和らいだ。


「私は、この世界にもきっとなんらかのルールがあると信じているの。そのルールを確かめて、この『何も分からないまま』の状態から抜け出したいだけ。……きっと私たちも何度も敗れて、そのたびに記憶を失ったのだろうけど、その願いだけはずっと心に焼き付いていたから。……貴女の名前を、聞いていなかったわね。教えてもらえるかしら」


 桐香もまた、微笑みを返した。


「私の名は、桐香・ベイドリック。そうね、やみくもに戦うだけでは見えないものがきっとあるだろうから。覚えておくわ、あなたの願い」


 サキは返事のかわりに、小さく手を掲げた。連れの男とともに踵を返すと、その先に新たに生じた光点に向き合う。その一点は疾く正面に広がって、異界へと通じる門となった。サキと男はその門をくぐり、去っていった。


 ふたりを受け入れると、門はすぐに消え去った。


 その様子を見つめていたイミナは、ふっと笑みを浮かべた。


「どうでしょうね。サキなら、この世界のルールってのを、読み解けるのかもしれないわね。……で、あとはあなた方がどうするかって問題だけが残ったわ」


 俺は、桐香と目を合わせて頷いた。ここで選びうる選択肢は、ふたつ。

 戦うか、戦わないか。しかしいま選ぶべき道は、もう心に定めていた。

 自分と、そして桐香の行き先を決めなければいけない。


「俺たちは、君たちと戦うよ。桐香、それでいいだろう?」


 そう訊くと、桐香は強く頷いて言った。


「サキの理屈で言えば、私があなたのことだけを覚えていたのは、それが私自身の強い願いだったから。どうしてその願いが生まれたのかを……私は、この先の世界で読み解きたい」


 そうだ。俺もまた、この不可解な世界に目覚めたときに感じたのは「疑問」だった。それを読み解くという疑問は、俺のなかにもたしかに存在する。サキだけのものではない。


 だから、戦う。


 そんな俺たちを見て、イミナとポーフィックもどこか楽しげな表情を浮かべていた。


「わたしはね」と、イミナ。


「あんまりウェットな感情は持ちたくないの。『だれかの未来を潰して、自分たちが生き残る』……みたいな、ね。あなたたちがこの世界の先を見てみたいのと同じように、わたし達も、この世界の先を見てみたい。おなじ願いを持つ者どうしで戦うのだから、どっちが勝っても恨みっこなしね」

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