第2話 始まりの情景

 ――深夜。しとしとと雨の降る、巨大な建造物のたちならぶ大通り。


 そこを行き交う人々の姿はない。通りに沿ってまばらな間隔で街灯がつらなり、その光によって、なまあたたかい雨は緑色に染まる。



 一瞬にして眼前に広がった、広大な空間。慌てて周囲を見回すも、ここはもはや室内ではない。左右も、背後も、この広大な幻のなかに取り込まれていた。


 そして、慌ててもうひとりの人物である、自分の味方であるはずの彼女の姿を探す。


 彼女はいつのまにか、この幻のような世界のなかで、天を仰ぎ瞳を閉じながら、顔に落ちかかる雨粒の感触を楽しんでいるようだった。


「……先手を取られたわね。広くて、さびしくて、でも優しい感じのする場所ね。ここにはどんな意味があるのかしら」


 彼女がそう呟くと、女はこう答えた。


「この情景の思い出は……たしかにあったはず。でも、もう思い出せない。ここにどんな意味があったのか、どうしても思い出すことができないの。いまの私ができるのは、この景色を『戦い』の情景として描き出すことだけ」


 そう言い終えると、女は数歩ほど後ずさった。

 その姿は、しずしずと「情景」のなかに塗り込められていく。


 身を隠したのだ。


 それを見届けると、味方たる彼女は、女に小さく返事をした。



「そう。ありがと」



 そして、こちらに歩み寄ってくる。

 そんな彼女に、訊く。



「これはどういうことだ。なぜ、世界が書き換えられた? ……あなたは、知っているのか」


 そう訊くと、彼女は、すん、と鼻を鳴らしたように見えた。不満そうだ。


、はないでしょう、あなたは! せめて、もうすこし親しみをこめて呼んで欲しいわ。ここで勝ち残ったあなたが、わたしのことをなんて呼んでくれるようになるのかだけ、今は楽しみにしているわ。それはさておき、質問の答えね。……ええ、知っているわ。これは、戦いの舞台となる『情景』。ふたり一組のペアのうち、片方がこうやって情景を描き出すの。もちろん、ただの舞台演出としての書き割りなんかじゃない。この情景そのものも、あなたを倒す力をもっている」



 幻か、現実か……。この世界そのものが、自分を倒すことができる?


 無人の街路に、雨粒が落ち、砕ける音だけが響き渡る。頬を濡らす雨。これすらも、敵の武器なのだろうか。そうは思えないが。



 返すべき言葉を見つけられずにいると、彼女は額に落ちかかる滴をふりはらいながら、言った。



「この『情景』が、どんな力を秘めているかは戦ってみるまで分からない。だから、とにかく慎重に行動してね」


「それは分かった」と、忠告に頷く。「だけど、この状況を打ち消す方法はあるのか?」


「ある。この世界を、わたしの作る『情景』で塗りつぶしてしまえばいい」


「できるのか」


「いまは無理。彼女のつくったこの風景を、なんのきっかけもなしに塗りつぶすことはできない。そんな真似ができるほど、この『情景』は弱くない」


「じゃあ、どうすればいいんだ」


「……この『戦い』のなかで、きっかけをつくるのよ」


 彼女はそう言って、なにかを思い描くような仕草をした。



 その瞬間、掌のなかにたしかな重みが生じる。



「これは」


 自分の手の中に、いつのまにか現れていたものを見やる。それは、鉛のパイプだった。



「……これで敵を倒せ、と?」


「そうよ。いまのわたしの能力では、『情景』に注ぐ力を除けば、そんなものを作るのでせいいっぱい」


「精一杯……ってことは、敵もまた、同じような状況なんだな」


 そう訊くと、彼女は頷いた。


「そうよ。この世界に、わたし達たちが及ぼせる力にはまだ限度がある。敵になったあの女の子ね、これだけの『情景』を作り出したんだから、もう他に注げるエネルギーはほとんど残っていないはず。どんなふうに攻めてくるか……その最初の一撃を、いなすのよ。そうすれば、きっかけをつくれる」


「これで、どうやって『きっかけ』をつくればいいんだ!」


 手にしたパイプを指さしながらそう言うと、彼女は面白そうに笑った。


「それは、今からのあなた次第」


 そう締めくくると、彼女は対面の男を指し示した。

 かれの手にしている武器もまた、粗末なものだった。両拳にはめる金属製の環。殴打の威力を増強する、ひどく原始的な武具だ。


 かれは、己の両拳を見て、自嘲するかのように寂しく笑った。


「みじめな絵面だ。さすがは底辺……といったところだね」と、男。重さを確かめるように、両拳をゆっくりと揺すっている。「でも、仕方がない。もっと華やかに戦いたければ、ここを勝ち抜くしかないんだ」



 ――雨の降りしきる、緑色に照らされた街路。対峙する二組の男女。


(こんな……こんなことで、どちらか片方が消えてしまうのか)


 状況は不明。だが、戦う。目の前の「敵」に恨みなどない。ないけれど……戦わざるをえない。


 相手がはらをくくって拳を向けてくる以上、やるべきことはひとつだ。


 粗末な鉛のパイプを、右手で顔の横にひきつけるように構えた。左手は、体側ごと相手に向ける。不器用な構え方だと、自分でも思った。



 そのとき、そっと耳打ちされた。



「――この『情景』を広げた彼女が隠れたんだから、『前衛』は、もちろん目の前の彼よ。でも、この情景のどこかから、彼女は攻撃をしかけてくるはず。――だから、わたし達は、まずどちらか一方を仕留める。いいわね」


 と、彼女はささやく。彼女の手には、描き出した武器が握られている。鉛の分銅がついた、細長い鎖だ。



 先陣を切ったのは、対面の敵たる、彼だった。



 細かく刻むような左拳で牽制したうえで、怖ろしく鋭い右拳を撃ち込んでくる。かれの凡庸な外観を、心のどこかで舐めていたことを心から後悔する。



(戦うって……どうすればいいんだ?)



 やみくもに振り回す鉛管は、かれの体勢を崩すことはできても、直撃は奪えない。

 そして、無駄な手数を繰り出しているうちに、スタミナだけが無為に失われていく。

 勝ちへと繋がるビジョンが、まったく見えない。



(――『彼女』は)



 相手から視線をはずす余裕はない。眼前で荒れ狂う、金属環をはめた両拳を回避するだけでせいいっぱいだった。どうして加勢に来てくれない? ふたりがかりで一人をまず仕留めてしまえば、楽になるかもしれないのに。


 そんな応酬のなかで、ふいに対手の側頭に小さな隙を見いだしたような気がした。



(……ここだ!)



 そこに吸い寄せられるように、渾身の一撃を叩き込もうとする。


 と、そのとき。


「……逃げて!」と、彼女が鋭く叫んだ。



 その声に突き動かされるように、跳ね飛ぶように後ろへと逃れた。そして、さきほどまで自分がいたところを、上空からの雷光が叩き穿つ。視界を灼く閃光と、圧倒的な破壊力。鉛のパイプとナックルでの争いとは比較にならないほどの「力」だった。



 へたりこんだ自分の頭上で、味方たる彼女は言った。


「……当たりさえすれば、一撃で消し飛んでしまうほどの「力」。その一撃で仕留めるためだけに、彼はわざとリーチの短い武器を選んで、わたし達を懐ふかく誘い込もうとした。いちかばちか、ね」


 その言葉に、敵の男はさも残念そうに吐息をこぼした。なまぬるい雨が降り注ぐ。かれにも、こちらにも。


「――君たちが、二人して僕を倒そうとしてくれたら、すべての注意を僕に向けてくれていたら、君たちのどちらか一人を仕留められたろうに。……残念だよ」


 そして、渾身の一撃を放ったことで、いまここを取り巻く「情景」は力を使い果たしたようだ。すみやかに薄れ、ただの暗灰色のよどんだ背景だけが広がる、不毛の空間へと変化していく。それとともに、「情景」のなかに隠れていた敵手の女がその姿を現した。


「……ごめんなさい。もう『』は、保たない」と、敵たる女。その手には、残ったわずかな力で産み出された細い棒きれがあるだけだ。



 緑の雨。それが、さきほどまで広がっていた『情景』の名前だろうか。思い出の映像、心象風景。きっと彼女にとっては、どこかで心に繋がるだいじな映像だったのだろう。しかし、それはもはや壊れてしまった。


 悄然とする女の肩を、男はやさしく抱き寄せた。


「いいさ。勝敗は……時の運だよ。でも、ぎりぎりまで僕は君のそばにいるよ」と、敵たる男。ふたたび両の拳を構える。


 いたわりあう姿に、思わず手に握った鉛管を下ろしそうになってしまう。


 しかし、傍らの彼女は言う。


「あなたの心が躊躇とまどっているのがわかるわ。でも、ここで手を止めて状況を停滞させたら、彼らもわたし達も、誰もここから動けない。……亡霊のままでしかいられない。彼も、彼女も、そしてわたしも、亡霊のままでいるのはいやだから戦った。もう……続けるしかないの」


 その言葉とともに、彼女は肺の奥からの呼気をはき出し、敵手の女が行ったのと同じように、ある「情景」を描き始めた。


 暗灰色の情景を、波打つ薄膜が包んだかと思うと、速やかに奥行きが生じ世界が描かれ始める。


 足下に広がるのは、どこまでも続く草原。広大な野原は、沈みゆく太陽によって茜色に染め上げられていた。


(これは、どこの景色だろう)


 心当たりは、自分にはない。彼女の心から生じた風景。



 空の色、草原の色。全ては赤く染まっている。場所こそ違えど、自分たちが最初に出会ったあの部屋のようだった。その色彩が揺らぐことなく定着したとき、彼女は言った。


「……これが、わたしの景色。もっと力があればいろいろなものを描けるだろうけど、まだ、どこもかしこも寂しいわね」


 そう言って、彼女はくるりと振り向くと、後方へと歩き出した。その先を目で追うと、小高い丘の上に石積みの小さな建物が見えた。あれは……


「小さな、朽ちた砦。もっと大きく描ければ良かったのだけれど」と、彼女。まるでこちらの心を読み取っているかのようだ。「でも、いまのわたしには、あれが精一杯。必ず、あなたの助けになるわ。……見て」


 その『砦』の門が開き、中から数人の姿が現れる。粗末な武器を携えている。その貌をよく見ようとすると……それが、生命なき骸骨であることに気づいた。


「な、なんだ……あれは」


 動揺を見抜いてか、彼女は、あれね、と相槌をうった。


「朽ちた砦の住人といえば、死者たちと相場は決まっているわ。でも怖れることなんてない。これは私の心象風景、『不滅の軍勢』。……まだ名前負けしてるけど。あなたは戦って決着をつけなさい。この兵士たちがきっと助けになるでしょう。……頭数は、少ないけど」


 そう言って、彼女は風景のなかに溶け込んでいった。残されたのは、自分と、数体の骸骨たちのみ。



 そして、敵手たちに相対する。



 男は、もはや『情景』を失った女をかばうように、正面に立っていた。

 女は、目の前に現れた異様な兵士たちの姿を見て、飲まれているように見える。



 右手に握った鉛のパイプ。この異様で、雄大な景色のなかで、武器というのもおこがましい。


(だけど、人間の戦いは、きっと石と木で互いに撃ち合うところから始まっていたはずだ)



 そして、自分は駆けだした。


 目の前の「敵」を、斃すために。


 なんの恨みも、憎しみもなく、ただ「ここ」から抜け出すためだけに。



 敵たる男に、手にした武器を打ち下ろす。かれは辛うじて身をかわすと、こちらの脇腹を抉り抜こうとする一撃を放つ。その一撃は、戦いが始まった時よりもひどく鈍っていた。それはきっと、かれが『情景』を失ったから。


 逆に、いまの自分には、この『情景』からの力も加味されている。力も、判断力も、先ほどよりも冴えてきているのがはっきりと分かった。


 そして、かれのフェイントを交えた右拳をかわして、脇に痛撃を撃ち込むことができたときに、ほぼ勝敗は決した。


 重い鉛のパイプが、かれの肋骨を砕き、肺腑を押しつぶす。記憶も、現実感も、なにもかもが希薄なこの世界で、ただその手応えだけが異様なほどに現実感に満ちていた。


 空気混じりの血へどを吐きながら、男は倒れた。



(女のほうは)



 女のほうも、『砦』から出てきた兵士たちに取り囲まれ、敗北を目前のものとしていた。


「い……いや、こ、来ない……でっ!」


 身体のあちこちを打たれ、切り刻まれた彼女は、草原に倒れ伏しにじるようにして逃げようとしていた。そんな彼女を囲む、骸骨の兵士たち。もう、時間の問題だった。


 そのとき、いつのまにか隣に現れていた、味方たる彼女は「もういいわ。もうたくさん」そう呟くと、虫を追い払うかのように、手を数度振った。


 その動作が引き金となり、まるで絵画が壁から落ちるかのように、骸骨の兵士たちも、こじんまりとした「砦」も、どこまでも広がっていた夕陽に染まる草原も、なにもかもが消え去ってしまった。



「――終わった、のか」と、敵たる男。かれの肉体には、さきほどまでの戦闘の痕跡は残っていない。


(へし折った、あばら骨は? 吐き散らした血へどは?)


 男は、傍らに立ち尽くす敵たる女の肩を抱き、こちらを見据えていた。


「決着は、ついた」と、男。「これで、君たちはひとつ上の階層へと進める。……そして」


 かれの言葉を遮って、味方たる女は言う。


「記憶を……精神を……そして、より確かな肉体を、わたしたちは手に入れる」


 彼女の言葉に、男は淡く微笑んで、頷いた。


「そうさ。泣いても笑っても、それを手に入れられるのはひと組だけ。……その資格を持っていたのは、君たちであって、僕たちじゃなかった」


 言葉にやどる、諦めの響き。そこに添えられるのは、かれにつきしたがう女の嗚咽。


「……だめ。待って。あなたのこと忘れちゃうなんて、やだよ……」


 女はその言葉を繰り返しながら、男の胸に頬をすりつけている。


 男は、やはり優しく微笑みながら、言った。


「僕も嫌だよ。でも、僕が消え去るその瞬間まで、僕は君のことを考えているから。名前は……呼べない。けれど、最後まで君と一緒にいたい」


 慰めるような言葉にどれほどの確かさがあるのか、それは、自分にも分からなかった。


 そして、抱きしめていた女の肩がすこし安らいだときに、男は女の耳元で「さよなら」と、そう言って、しずかに二人の姿は灰色の世界の奥に溶け落ちていった。



+ + +



 いつしか「俺」と、味方であった彼女は、夕暮れの「教室」へと戻っていた。



 ほんの少し前まで感じていたはずの、理解不能なさまざまなものに包まれているような気分は、すこしだけ和らいでいた。そして、目の前に自分の手をかざせば、そこにはたしかな密度が戻りつつあった。


「――初戦はこれで終わり。運は、こちらにあったわ」


 そう言いながらも、彼女の声音には勝利した者の爽快感はない。もちろん、俺にもありはしない。


「彼らは、ほんとうに消えてしまうのか」と俺が呟くと、彼女は、さあね、と答えた。


「この世界に慈悲心があるなら消えはしないでしょう。生まれ変わりくらいは、信じさせてほしいわ」


 そう言うと、彼女はどこか寂しそうに、くつくつと笑った。色素の薄い髪が、夕日のなかで、まるで陽炎のように揺れていた。


「慈悲心、ね。そんなものがあったら『まず戦いありき』の世界など生まれはしないだろう」


「そうね。……ねえ」


「なんだ」


 そう問い返すと、彼女はすこし声音を震わせながら、言った。


「あの人たちと戦ったけどさ、べつに、わたし、あの人たちのことが嫌いでも憎くもないし……戦いたくも、なかった」



 消え去るまぎわ、あの二人はしっかりと抱き合っていた。

 きっとかれにも、彼女にも、語るべきなにかはあった。

 それが、俺たちの言葉よりも価値があるかそうでないかは、もう誰にも確かめようはない。



 ただ、こちらが勝ち、あちらは負けた。こちらは残り、あちらは消えた。



 いつしか、彼女の声音に、しゃくり上げるような声が混じっていた。


「……戦うしかないなんて……バカみたい。名前を呼んで、すこしでも話せば……ちょっとでも仲よくなれたかも……しれないのに」


 彼女の涙。それを見つめることもできず、俺は彼女の手を取って、言った。


「俺もそう思うよ」



 ――戦わなければ、俺は『俺』になれなかった。彼女は『彼女』になれなかった。


 手に入れた、この肉体、この精神、この記憶。


 全てをたずさえて、俺たちは、まずはこの部屋から出る。



 だけど、何か大事なものをここで失ってしまったのかもしれない。



 何かを。



 俺は、まだ泣き止まない彼女の手をそっと引いて、この部屋の出口へと向かった。



 俺の名は、海棠樹かいどういつき。もう、忘れない。




 彼女の名は、桐香きりか・ベイドリック。二度と、この名を手放さない。

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