水も滴る部屋39p

 衣服を身につけたままの女性が手足を縛られて浴槽に膝を抱えて横たわっている。

 彼女の口にはガムテープが張られていた。

 蛇口からはドバドバと水が出ていて、彼女は体半分が水に浸かっている。

 彼女の長い髪が浴槽に溜まった水の上を海藻のように漂っていた。

 水の水位はどんどん上がっていく。

 このままでは彼女は浴槽に溜まった水で窒息死してしまうだろう。


 彼女は縛られて不自由な足を懸命に動かし、ステンレスの浴槽を両足で力を込めて蹴った。


 ドン!


 茅野はその音にハッとして我に帰った。

 茅野は開け放たれたドアから浴室を目を皿の様にして見る。

 今、浴室はシンと静まり返っている。

 水の流れる音も何も聞こえない。

 茅野は浴室の中に入り、中の様子を確かめた。

 蛇口はしっかり閉まっていて水は一滴も出ていなかったし、蛇口から水が出ていた様な痕跡も無かった。

 縛られた女もいなかった。

(何だったの、さっきの……女の人が……夢でも見てた?)

 茅野は体から力が抜けたのか一気に床にしゃがみこみ、そして天を仰ぐ。

 今までの異様な寒さはいつのまにか消えていて、緊張していた茅野の額からは汗が滲んでいた。

茅野は汗を手で拭うとさっきまで取り乱していた自分を笑うための引きつった笑みを作る。

「もう、何が何だか……全部気のせいだった? つ、疲れた。もう無理。今日は帰ろう」

 茅野は立ち上がろうして、ふと、薄暗い床の隅に目止めた。

 茅野は目を細めてそこを見る。

 そこには排水溝がある。

(そうだ、排水口の髪だけでも片付けておこう)

 茅野はしゃがみ込んだまま排水溝に近づくと、排水溝の蓋を外し排水口を覗き込んだ。

(うーん、暗くて分からないな。あ、そうだ、試しに電気をつけてみよう)

 茅野は立ち上がり、脱衣所の壁にある浴室の電気のスイッチを押した。

 明かりはついた。

(電気ついたわ。ブレーカー、大丈夫だったのかしら)

 茅野はホッとため息をつくと浴室に戻り、再び排水口を覗く。

「え?」

 茅野は口をポカンと開けたまま排水口を見る。

 排水口には今朝、茅野が見た髪の塊は詰まっていなかった。

「全く……どういう」

 茅野が吐き出した白い息が排水口に吸い込まれていく。

 茅野はゆっくり後ずさりしながら浴室を出た。

 そして、そのまま玄関に向かい、靴の踵を潰したまま履いて部屋を出る。

 外の、部屋の玄関ドアの前で茅野は頭を抱える。

 茅野の呼吸はとても速い。

「どういう事なのよ?」

 叫び出しそうになるのを茅野は堪える。

 茅野の呼吸はとても速い。

(えっと、えっと、私が水を出しっぱなしにして、排水口に髪が詰まってて、それで部屋が水浸しになって、部屋が寒くて、暗くて、電気がつかなくって、ブレーカを上げようとしたら水の出てる音となんか変な音がして……確かめたら何にも無くて、排水口にも何もなくて……女の人も縛られてなくて……。何なの? 何なの? 全部……全部)


『先生は怖くないんです? 以前住んでいた方が妙な亡くなり方をした事件が起こったっていう現場の風呂場で、排水溝に自分の物じゃない髪が詰まっているとか、触った覚えすら無い蛇口から水が勝手に流れ出て、部屋が浸水とか、そんな奇妙な事が起こって平気でいられるんですか?』


 カフェで聞いた紺谷の話を茅野の脳が再生する。


『ガチど真ん中の事故物件じゃないですか!』


 茅野は髪を両手で掻きむしる。


(全部……そうよ、私の勘違いで、髪は掃除して取ったのを忘れてただけかも知れないし、元々そんな物無かったのかも知れないし……私の気のせいで……。音も気のせいで、女の人が縛られてるとか、やっぱり夢よ。だって、あるわけ無いもの)

 茅野は両手に力を込める。

(そうよ。怪奇現象とかあるわけ無いもの。今日は私、疲れてたのよ、だから変な音が聞こえた気になっちゃったわけよ。うん、今日はもう寝よう。怪奇現象なんて馬鹿馬鹿しい。気にしない、気にしない!)


「事故物件が何よ」


 茅野は深く頷くと部屋に鍵を掛けてその場を去った。




 実は茅野は見逃していだが、ステンレスの浴槽は誰が蹴り上げた様なへこみが出来ていた。

 浴槽の中には茅野のものではない長い髪が数本、散らばっていた。

 この事は数日後、茅野の知ることとなるが、今日の事と関連付けて考える事はせずに茅野は特に気にしなかった。


 何かあっても気のせいにして、緑頭花荘に茅野は元気に暮らしている。





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