薄曇り、ロンドンにて
魚倉 温
FUCKin'Cloudy
懐かしい日の夢を見た。
真っ白な画廊に立つ、男の姿。
彼があんまりにもくたびれて見えたものだから、こんな輝かしい場であるのにどうしたものかと、
私は何も知らず、ひとり、思ったものだった。
白い壁に映える、美しい絵。
絵画に造詣の深いわけでもない私に読み取れるものなどきっとたかが知れていたのだろうけれど、
それでも、彼の描いた世界、彼の見た世界、それらは私には美しく見えた。
きっと彼も、こんなに美しい世界に囲まれて、それらを見て生きているのだから
美しい人なのだろうと期待した節も確かにあった。
けれど、その期待はあんまりにも身勝手なものだった。
彼は確かに美しかった。画廊を歩き、絵を追うごとに深まった期待、確信を裏切らないほどに。
彼は、確かに美しかった。それぞれの絵の下には、何の説明文もない、タイトルだけの白いパネルがあった。
誰の理解も期待しない、求めてすらいない、そんなポーズであるような気がして、私は画廊の主に声を掛けた。
展示室の奥の一室で、傾き始めた陽に照らされて、フローリングに横たわる彼は、
この世のものとは思えないくらいに美しく、孤独だった。
彼の美しさが、ひどく脆いもののように思えた。その感覚は今でも鮮明に思い出せる。
硝子細工ではなく陶器のような儚さ。
出会った当初から今に至るまでに彼のイメージはすっかり変わってしまったけれど、
その「陶器のようだ」というイメージだけは、今でもあまり変わらない。
ただそこに美しく鎮座する置物ではなくて、随分と人間を破滅させてきただろういわくつきの、
そして夜中にはきっと目をうすぼんやりと開いて動き出すだろう想いの強い人形のようだという風に変わっただけ。
私も、彼に破滅させられるのだろう人間のひとりでしかない。
まず第一に、彼はじっとしているのが苦手らしい。ひとりぼっちでじっとしているのはうんと苦手だ。
絵を描いているときなども何かぶつぶつと口の中でひとり話しているし、
せわしなく動く手と目が止まったと思えば急に頭をかき回したり、つめを噛んだり、膝を抱えたり、横に揺れ始めたり
時には部屋の反対側にまでよたよたと歩きだしてそのまま、壁に額をこすりつけたりする。
私がいるのに、そんなことをして恥ずかしくないのか、と、聞いたことがある。
彼の返答はこうだ。
「今のぼくは人間性を捨てているから、恥ずかしくなんてない。これは人間の行動じゃない。
社会性も理性もかけらもない。もちろん羞恥心もない。」
そんなもの持ったままで絵なんて描けるかぁ、と半ば喚くように言って鉛筆を振りかぶり、そのまま壁へと投げつけた
彼の姿はたしかに、かんしゃくを起こしたチンパンジーなどの仕草に似ていた。
けれど、それでも私がうんとはちみつを入れたホットミルクを差し出したときの彼は
客先を回って疲弊した日の帰路の私よりは随分と人間らしい拗ねた顔をしていたし、その後
「人間性は捨てたけど、最近理性が捨てられない。」
おまえがいると、思うように動けない、と、まるで一世一代の愛の告白のような言葉を受けたのは、
今でも時々、夢に見たくて思い出す。
あの頃の私たちはーーより正確には、私はーーお互いにとって都合の良い友人の、
その先を望むことなんて努めてするまいと決めていた。
誰もが言うようにこの愛のかたちが何より不毛だということは痛いほど分かっていたし、
耳にたこができるほど何度も聞いた。
彼が、ほんとうに、私が受け取ったような意味を持ってあの言葉をこぼしたのかどうかは今も分からない。
私は、ほんとうに、彼のこぼした言葉の真意がそうであるのだと信じたかったことだけは、今になって分かった。
夕暮れの時間なんてもうとっくに終わってしまって、
外なんて街灯のひかりがぼんやりとそこにある程度の石畳。
足音高く苛立ちと疲労をうたう誰も彼もの革靴がやけに遠く聞こえて、
彼の声と吐息と、自分の心臓の音だけがやけに大きく聞こえて。
「まさかとは思うけど、ひどくされたい気分なの」
そんな言葉になった私の想いは、きっとどうあがいたって伝わらなかった。
「あんたのでひどくできるなら、してくれたっていいけど」
「いやな言い方だな。まるで普段物足りないみたいじゃないか」
そんなふうに、ばかみたいな理由で、私たちは同棲してはじめての喧嘩をした。
素直じゃなかった。今でも素直にはなりきれないけれど、
今は私より彼の方が素直じゃない。
彼の美しさに嫉妬して、自由気ままな振る舞いにまた嫉妬して、果てはその才能に嫉妬して。
得られないものばかりを見て、彼がそれをどうしたって分けてくれやしないのを、そんなことできやしないのを思い知って、
そりゃそうだ、こんなくたびれたサラリーマンなんて、と不貞寝して。
なまじ喧嘩別れなんてそれまで珍しくなかったものだから、もうお前のことなんて忘れたとう顔もできて。
それに、傷ついた彼の表情が。
それまで一度だって否定されたことのない男のそれに思えて。
誰からも愛され、認められ、羨まれてきた男のそれに思えて、私は気が狂ったように泣いた。
彼を外へたたき出した後の部屋で泣き狂って、
ぼやけた視界で、翌日の有給を申請するメールを打って、
腫れて、いつもの半分くらいしか開かなくなった目を擦って、場末の飲み屋へ行った。
それがここだ。
「FUCKin'Cloudy」
なんてクソみたいな名前のついた、クソみたいな店主の、クソまずいぬるいビールが売りの飲み屋。
だってまさか、芸術品のような顔をして、身体をしていて
その手からは繊細な作品を生み出して、
しまいに金持ちのオヤジなんかに囲われて金だって浴びるほど持っているんだろう男は
こんな薄汚いところにいるはずがないと思うじゃないか。
薄曇り、ロンドンにて 魚倉 温 @wokura
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