第八章

第八章

「いいか、ちゃんとやれ。やりにくいかもしれないけど、我慢して。」

ブッチャーが、水穂の背を、抱え込んで、彼を支えた。そこへ杉三が、彼の唇にかるくグラスをくっつける。

「まあ、無理矢理流し込むわけだから、せき込むかもしれないが、吐き出さずにしっかり飲んでくれよ。せえの、」

杉三が、グラスを傾けると、水穂は苦しそうな顔をして中身を飲み込んだ。グラスを取ると、約束通りせき込んで、ぜいぜいと息切れを起こす。

「苦しいかもしれませんね。まあでも、我慢してください。吸い飲み、華岡さんが持って行ってしまったんで。これでは、ちょっと飲みにくいと思うんですが、そのうち、返却すると言ってましたから。」

ブッチャーは、そっと水穂を布団に寝かせてやった。

「しっかし、持ってくんだったら、代わりのものくらい用意してやってもいいよなあ。まったく、警察もケチだよな。代用品を用意してって言ったら、グラスがあるからいいじゃないかって、冷たく言い返されちゃった。わかってないよな。こういう道具の大切さをな。」

「まあ、大体の介護施設でも、吸い飲みは、使わないよ。使うんだったら、こういう呼吸器疾患に特化した病院じゃなきゃ。俺も、介護用品店に買いに行ったんだけどさあ、こういうタイプは取り寄せになるって、怒られちゃった。まあ、でも、吸い飲みのほうが、さほど苦しくなく飲めるよな。」

「昔はよくつかってたんだけどね。ま、こういう優れモノが、今はどんどん姿を消していくさ。それよりさ、早く帰ってきてくれるといいな。なかなか、新しいのの入手が難しいんだからな。」

杉三が言うように、昔よく使っていて、今は古臭いと言われる介護用品が、意外に役に立つことは少なくない。でも、それを挽回するのは難しいと言われる。

「ほら、あの時の危ない薬のせいでさ、気道が一瞬縮まったらしくて、より一層、飲んだり吸ったりが難しくなるって、あの坊ちゃんが言ってた。だから、グラスで飲むと一苦労するんだよ。」

まさしく杉三が言う通りだった。これが快方に向かうには時間がかかりそうだ。

「杉ちゃん、こないだの賭けは俺の負けだ。気道にかなりのダメージが出たみたいで、助かっても後遺症が残るって、赤城先生言ってたもんな。俺、近いうちに杉ちゃんに、カレーライス、おごるよ。たださ、俺、杉ちゃんほど、カレー屋さんを食べつくしてないから、きっと杉ちゃんが満足できるカレー屋さんは見つからないと思う。だから、杉ちゃんさ、杉ちゃんが一番うまいと思ったカレー屋さんまで、俺を連れて行ってくれないかな。俺、その時に金を出すよ。」

ブッチャーは、そう決断して杉三にそういったが、

「そんなこと、もうどうでもいいわ。それより、この毒殺未遂事件を何とか解決しなければ。とにかくな、この危ない毒薬、さっきも言ったけど、大量に飲むと、気道の幅を急激に縮めるそうだな。それが、高じて窒息死に至るってな。あの、ブラックホールに落ちるって言ってたのは、気道が縮んだことによって起きる幻覚だそうだ。そこははっきりしている。」

無視して、杉三は耳の痛い話を始めた。ブッチャーは聞きたくないと思ったが、ぐっとこらえて話を聞く。

「だけど、確証は得られていないので、薬の名前が断定できないって言ってたよな。水穂さんが、吸い飲みの中身が青だとわかれば、確定できると言っていたけどさ。」

「ごめん。何も覚えてなくて。」

水穂は、申し訳なさそうに言った。ブッチャーは、あんまりしゃべるなと、注意した。

「仕方ありませんよ。だって陶器の吸い飲みですから、中身が外からわからないじゃないですか。それに、ガラスの吸い飲みは、病院でないと、販売してくれないんですよ。」

「わかった。もう、過去にあったことはもう、口にすんな。それにしても、どこですり替わったか、が問題だ。華岡さんもそこで、苦心してるんだよな。」

「だけど、杉ちゃん。水穂さんも眠ってしまって。」

「わかった。眠いのをせめてはいけないな。眠るのはもう、必須的なことだからな。少なくとも、眠っている間に、すり替えたことはわかるさ。だけど、それが果たして誰なのか、が問題だ。製鉄所の関係者か、それとも誰かな?」

この時点で、水穂は返答するより先にせき込んでしまうのだった。

「おい、タイミング良すぎるときに、せき込まないでくれないかな。あのさ、僕、あんまり疑うのは好きじゃないが、今回はちがうぜ。水穂さんさ、何か知っているんじゃないのかよ。本当はさ、毒殺が完遂したほうがよかったんだと思ってないか?それを、恵子さんが見つけてしまったので、本当はがっかりしてないか?」

「杉ちゃん、何を言うんだよ。そんなこと考えるはずはないだろ?」

「いや、その線が一番強いと思うんだ。日頃から、自分なんて存在しなくてもいい、だったら、そいつの怨恨晴らすための道具になってやる。そういう誓いの言葉を立てて、犯人にやれるもんならさっさとやってしまえ、みたいな感じなこと、発言したんじゃないの?」

「何言っているんだ、眠っちゃったら、発言などできるわけないじゃないか。」

「いや、今は違うだろ、無理矢理眠らされるようなことはめったに減ったから、うとうとしただけであって、本当は犯人の意図も全部知ってるんじゃないのかよ!どうなんだよ!何か言ってよ!」

杉三のでかい声は、別の部屋まで届いていた。そしてそれは、ちょうど午前中だけ利用しているあの少年にも聞こえてきた。

少年は、この言葉を全部聞いて、思わずギクッとして震え上がる。と、同時に、あの時に言われた言葉は間違いかということも知ってしまい、裏切られたような気がする。


すると、骨ばった大きな手が自分の肩を掴んだ。

「こちらへ来なさい。」

振り向くと、懍であった。もう、後戻りできないとおもった少年は、がっくりと落ち込んで懍に従った。

懍は、少年を応接室に連れていく。

「ここにお座りなさい。」

少年を椅子に座らせると、懍は彼をじっと見つめた。

「これまで、個人的な怨恨などにより、製鉄所の利用者どうして暴動があったことはありました。でも、今回、まさか犠牲者が出るとは、予測していませんでしたので、正直、驚いております。たぶん理由は、今も昔も変わらないのだと思います。ただ、やり方だけは、次第に過激化し、本当に犠牲者が出ても何とも思わないという、無感情な若者が続出しているようです。あなたも、その一人ですか?」

「先生、、、。」

少年が涙を流しているのを見て、多分この人は、そうじゃないなと懍は確信した。

「若いというのは、時折罪なことになります。勝手に感情が暴走して、衝動的な行動を起こしてしまうこともあります。それが若さということでもあって、優れた作品を生み出したりすることもできます。でも、今回は違う。生み出したものが何か、それをよく確認してから、行動を起こすのを、忘れているのなら、今一度、確認に行きましょうか?」

「先生。僕、もう、いけないことをしてしまいました。だから、もう、生きていてはいけないのだと思います。」

少年は「若者らしい」答えを言った。

「ほら、そういう答えも、若い人らしい答えですね。いいですか、そこはいけませんよ。まず、理由をはっきりさせましょう。今回なぜ、このような凶行に走ったか。そこが一番解決しなければいけないのですが、それを法律関係者や医療関係者は、先延ばしにしてしまいますからね。」

「でも、その先には、自殺しか待ってないんですよね。」

「いいえ、違います。現代では、すぐに捨ててしまうことが一番の解決という風潮が蔓延ってますが、それは、すべてのことに当てはまるはずがない。例外は必ずあるんです。しかし、それのほうが、かえって重大事例に陥ることが多いのを、大体の人は、知らないというか、避けてしまうんです。ですから、そこだけははっきりしなければなりません。まず、これを一番初めに聞いておくことです。具体的な手段などは、後で話してくれればいくらでもわかる。もう一度聞きますが、なぜあなたはそのような凶行に走ったか。その理由を、嘘偽りなくはっきりと述べること。これが第一義務なのです。」

「大した理由では、ないのかもしれません。きっと、先生から見たら大した理由ではないのかもしれません。でも、僕から見たら、本当にすごいことのように思ってしまっていました。もっと、速いときから、広い世の中に出て、昔の人のようにたくさん苦労ができる環境に居られたら、こんな贅沢な悩みを持つことはきっとありませんでした。」

どうしても、口に出して言えないんだなと、すぐにわかった。きっと、自分が何をしたかはちゃんとわかっていて、それをとても後悔していることは、はっきりと取れたが、口に出したら、激怒すると思っているのか、怖くてできないのだろう。

すすり泣く少年を前に、懍は、一度だけ憐憫を垂れることにした。

「本当に最近の若い人は、ほんの些細なことなのに、口に出して直接言えない代わりに、こういう大きな犠牲者をだすようなことを、思いつくんですねえ。あーあ、本当に、いまどきの学校というものは全く役に立ちません。杉三さんが、学校は百害あって一利なしと言いますが、まさしく、本当ですよ。いいですか、大人に対して、反抗しないで従っているだけが、よい子とは限りません。時には、口答えもするし、意見の衝突もするし、親の意思に反する進路を取ることも、あるんです。まあ、その時は多少親と冷え切った関係になることもありますけど、後で笑って済ませるなら、何も悪いことではありません。あの時は、怒鳴りあってけんかしたけど、今俺たちは幸せに暮らせるんだから、それで十分じゃないか、と、子供のあなたのほうから、親に言ってやれば、納得してくれますよ。それなのに、衝突を避けろ、反抗するな、自己主張するな、そんなほら話を教師が諳んじるから、こういうことになるんですね。あなたも、そういう話に、まんまと騙される、弱弱しい少年になってしまったわけですか。ほんと、日本の若者は、情けなくなりましたな!」

「こうするしかないと思ったんです。こうするしかないと。僕が悪いことしないと、戻ってきてくれないと思ってしまいました、、、。」

「それなら、直接言うしかないじゃありませんか。まったく罪のない男性を、犠牲者にして、個人的な欲望をかなえようとするなんて、相手の男性には、本当に、いい迷惑しか、感じられませんよ!」

「ごめんなさい。あの時は、もうそればっかり考えていました。でも、水穂さん本人の前に立った時、あの人が言った言葉で、初めて、望みをかなえてくれたんだって変な勘違いをしてしまいました。」

「本当に根無し草としか言いようがありませんね。そういうことに騙されず、そこで正気に返ってくれたら、と思わずにはいられないですね。」

懍は、がっかりしてため息をついた。

「でも、それがきっと、今という時代なのかもしれませんね。何が正しくて、何が間違いか、上がしっかり教えないから、変なところに救われたと勘違いして、それを実行してしまうんですね。」

「ごめんなさい、、、。」

「じゃあ聞きますが、水穂さんは何をやれと、あなたに言ったのでしょう?」


「馬鹿だあな。ほんとに馬鹿だなあ。もう、そんなことで犠牲になって、綺麗になれたとおもってんのか。あーあ、そのせいで、僕らがどれだけ迷惑するか、考えたことなかったんだろうね。もう、本当に笑えるじゃないか。ていうかな!こんな馬鹿馬鹿しいやりかたをして、誰かが納得すると思うのか!もう、本当に馬鹿じゃない!見損なったわ!本当に!」

「杉ちゃんごめん。ああするしかないと思ったの。」

「ああするしかないって、何やってんだよ。いいか、お前は確かに、法律的っていうか、立場的には不利なのかもしれないが、逝っちゃったら困ってしまう人間もいっぱいいるってことを、忘れんじゃねえぞ!世間の見てくれとか、体裁よりも、困ってしまう人間もいるってことを大事にしてくれよ!」

「杉ちゃんさ、そんなやくざみたいな態度はとらないでよ。かわいそうでしょうが。もしかしたら、やむを得ず言ったのかもしれないよ。それか、あの少年のほうが、でかい声で脅かしたのかもしれないじゃないか。」

ブッチャーは、杉三に反発するように言ったが、

「それはありませんでした。ただ彼には、きっとそのくらい辛いのだとわかったから、もういいやと思いました。きっと、相当つらかったんでしょう。たぶんきっとそうだと思います。狭山事件の犯人だって、そうだったんでしょう。いくら、やってないと言ったって、みんな楽をしたいから、こういう人間を犯人にしてしまえばいい。だって、そういう人は、学歴も経済力もないわけですから、そうなるしか、社会に役に立つことなんてできないんですよ。そういうことですよ。犠牲にならないと、僕たちが役に立つことはないんです。それしか、ないんです。」

水穂は静かに言った。

「バーカ。どんな人間でもな、自ら悪人の犠牲者なんてなりたくないよ。そういうことを美しいと思えるのはな、フィクションの世界だけだ。映画とかテレビってのはな、そういうところを綺麗に描くから、かっこよく見えちゃうだけなんだよ。いいか、普通に生きてる人間に、そんなこと絶対に出来はしないさ。だって、大体の人は、家族とか、恋人とか、そういうもんがいて、そういう人に妨害されて、できなくなるんだから。もし、実行できたってな、かっこいい終わり方はしないさ。皆、いい迷惑して、いい顔しないで暮らすことを強いられる。世間だって、いいところに目を向けるなんて、しないよ。誰もしない。みんな、悪いところばっかり穿り出して、大笑いすることに、力を入れるからね。そして、それを助けてくれる人なんか誰もいないから。ほんとだぜ。なんでかわかるか?できる人は誰もいないからだ!」

杉三の泥臭いセリフは、非常にきたない発音だったが、本当に効果のある言葉であったと思われた。

「馬鹿はどっち。」

水穂は、ふっとため息をついた。

「なんもわかってない。杉ちゃんには、わかるはずない、同和問題なんて。」

「ああ、そうだよ。そうだもん。僕は、馬鹿だもん。文字も何も読めないし、ご覧の通り、歩けないさ。学歴も、経歴も何もない、まあ、言ってみれば、のーたりんだ。それで、いいじゃないか。でもな、お前がやったことだけは、絶対に間違いだ。それだけは、自信もって言えるからな!」

「杉ちゃん、怒るなよ。水穂さんだって、苦しかったと思うよ。だって、生きているのを全部帳消しにされるんだぜ。生きてたって、報われることが一回もないって、どういうことだって、苦虫かみつぶした顔で、耐えることを強いられるんだぜ。もしかしたら、本当に役に立つんじゃないかって、勘違いしたんじゃないか。」

ブッチャーは、一生懸命杉三をなだめたが、同時に水穂もせき込んでしまうのであった。すぐにブッチャーが彼を横向きにして、背を撫でてやったりした。これがブッチャーの、彼に対する愛情なのかもしれなかった。

「俺じゃなくて、蘭さんが今の場面に遭遇したら、雷のようになって怒りますよ。もしかしたら、頭の血管でも切れて、くも膜下出血でも起こすんじゃありませんか。」

ブッチャーは、本当は自分がそうなりたいという気持ちを抑えるのに精いっぱいで、そういうせりふに置き換えたが、水穂に届いているのかは不詳だった。


「理由はわかりました。そのことは、僕が何とか手配します。よく話してくれて、ありがとうございました。」

懍に頭を下げられて、少年は再び、びっくりした顔をする。

「いいんですよ。してくれたことに対して、お礼はしっかりとしなければなりません。あなたにとって、初めてのことをやってくれたのですから、そのお礼はしっかりする必要はありますよ。それを当然として片づけてしまったら、あなたは、また悪事をしたと思い込んでしまうかもしれない。それでは、今結ばれた、信頼関係がめちゃくちゃになります。」

「先生。本当にすみません。ぼく、謝らなきゃ。」

「それはもちろんしなければなりませんが、今はやめておきましょうね。すぐに解決しようとしても、かえって意味がない場合もあります。親御さんのことは、こちらで何とかしますから、まず、事件の全容を話してください。」

「わかりました。」

犯人は、その毒殺未遂事件について、一生懸命語り始めた。

「あの時、僕は、いつも処方されてる睡眠剤を、水穂さんの吸い飲みの中に入れました。それは、精神科に行ってれば、普通に出るんですが、多量に飲むと呼吸不全を起こして死に至るということは知ってました。それを混ぜ込んだ吸い飲みを、水穂さんの枕元に置いて、何食わぬ顔して帰るつもりだったんです。水穂さんは、布団で眠っているから、気が付かないと思ったんですが。」

「なるほど、つまり、水穂さんと、目が合ったとか、そういうことですか?」

「ええ。まさしくそうでした。もしかしたら、眠ったふりをして、僕のやってたことを全部知っていたのではと思いました。でも、そこでとどめを刺すことはできなくて、僕は、吸い飲みをもったまま、そこに立ち尽くしてしまいました。その時に、、、。」

ここで犯人の自供は止まってしまう。

「その時になんですか。」

すすり泣いて、自供を止めてしまう犯人。

「何があったのです!」

懍がちょっと語勢を強くして聞くと、

「ぼ、ぼ、僕がやったことを全部わかってしまってたんだと思いました。そして、こういいました。本当にこれだけなんですけど、それに、すごい意味が入っているとわかりました。」

「なんでしょう。」

「たった一言、こういいました。すごい優しそうな顔で、こういったんです。もちろん、本当に綺麗な人なのは確かですが、その時、僕はそういうことなんだなとすべて悟りました。そして、水穂さんも同じことを望んでいるのだとはっきりわかりました。」

「そのセリフは?」

「いいよ、殺りな。」

懍も、これに対しては、あまりにも想定外過ぎて、言葉がでなかった。

同時に、自分には、まだまだ知らないことが沢山あるんだなとわかった。

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