いままさに人生の最終章か
ツバキモリ周
第1話 団塊世代として出生
戦後生まれです。幼稚園などはなく、小学1年生の同級生は「たったの11人」でした。卒業時も11人でした。上級生だと、「1年上は、15人」「2年上は、10人」で
した。後輩は一級したが10人、二級したは、9人だったと記憶してます。
小学校時の出来事では、「近くに住む家族(たぶん8人)がブラジル」に移民したことです。
それと6年間は、いまで言いあらわすと「雪が多かった。豪雪でした。」ということです。
どこに行くのも「馬そり」でしたね。愛馬は、すごく働く馬で距離などは、いまで言うと、だいたい10㌔~20㌔位まるで休みなく馬そりをひっぱてくれました。
遠いところは隣町の小父さん宅でした。道路は雪道で車は全く走っていませんでしたね。そこへ新年のあいさつのため母者を馬そりに載せて行くんですよ。
僕は小学4年~6年のころです。
夏場は、近くの杉山神社で毎年「招魂祭相撲」があって同級生も2~3人出場していました。ほかにはたった一か所の商店に「初売りの日」の正月2日午前1時ころ店に顔を出すと、「お土産(お金換算=1000円位)?」をいただいたことです。
中学生になって全員が同じ中学校に行きましたが、同級生は、42人でした。そこの中学校も近隣3小学校から入学しました。クラスはひとクラスでした。
部活は絵画クラブと野球でしたね。卒業するまでの3年間は「結構まじめに通学」しました。自宅から中学校までは、約5kmで自転車通学でした。
中学校に行くようになって初めて信号機を見ましたが、人口1万人の町にはまだ二か所か3か所だったんですよ。
農作業については、実家は農業一筋で、父親は農協の組合長や町会議員をしていましたが、大々的な作物といううと、まずハッカ、つぎにビート、そしてニンニク、ムギ、ジャガイモ、玉ねぎなどを収穫して農協に出荷していました。いまも同じです。
わが町を「一級河川、常呂川」が流れ、2~3年に一度くらい大氾濫していました。
氾濫すると、川の両岸の畑というか土砂などが、ドボッ・ドボッという感じで流されていくのです。この状況は「こわかった」の一語です。
そして増水した常呂川を勢いつけて「見たこともない大きなもの」が流されて行くんですよ。
全部オホーツク海に流れ込んでるんですがどうなったのかわかりません…・
いまもあれほど堤防を高く頑丈に作り直しても「じつは内側の小川などから雨水があふれ」氾濫し家屋敷・倉庫・農機械などが水没し故障してるそうです。
道立高校への進学
オホーツク海岸沿いのまさに寒々とした街中にできた高校です。
ここで何をするでなくただ進学したということでしたね。
そのころは常呂駅があってオホーツク沿岸を「JR湧網線(網走駅⇔稚内近くの湧別駅)」が走っていたほか、「常呂駅から支線が引かれ共立駅」がありました。
共立駅は「10キロ先に鉄山」があって鉄鉱石を産出し運搬のための駅でした。
そんなわけでしたが、あっという間に駅はなくなりました。
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