第52話 Jerry Hooker ジェリー・フッカー(3)


 竜の逆鱗は今もクタラグがどこかに隠し持っている。いつか、ニアに知恵の霊薬を飲ませて、記憶障害を治療する時が来るかもしれない。

 その時には今回の事件のことを正確にニアに伝えるよう、クタラグには誓約ギアスをかけた。


 誓約とは一種の催眠術のようなもので、ある条件を満たすとある行動をする、といったような取り決めを施術者と被術者の間で定めておき、行動を強制する精神魔導士の技術だ。


 本当のことを言ったのはニアにだけで、ギルドにはいくつかの嘘やあるいはわざと言わなかったことを含む説明をした。


 ――ポーターのジョーシュは白虎の谷のサブメンバーであるマルクと一緒に死んだ。蛮竜に殺された。


 ――白虎の谷は戦闘するも、メンバーが二人欠けた時点で撤退した。


 ――しかし、重傷を受けていた蛮竜は回復が追いつかず、死亡。


 ――低階層でメンバーを失った白虎の谷は評判が落ちることを恐れ、報告を怠った。


 そういうことになった。

 ギルド長のライザは鷹揚にうなづくだけで、深くは追及してこなかった。


 エスパーでなくても俺の嘘なんて簡単に見抜けただろうに、俺の報告をただそのまま受けて、部下に書類を作るよう命じた。

 俺への依頼はそれで終わりだった。


 ライザにとっては誰が竜を殺したのかなどは本当はどうでもよかったのだろう。

 ギルドの長として、ただ事態を収拾する必要があったのだ。


 大人にはいろいろと建前が必要になる。俺はそれを誤解しなかったし、だからライザも俺の嘘を飲み込んだ。


 誰も損をしないで済んだわけだ。


 しいて言うなら、死んでしまったマルクやジョーシュ、あるいは竜の番が被害者と言えるだろうか。

 死なずに済むのなら、それに越したことはなかった。


 けれど、探偵は事件が起きてからじゃないと動けない。そこに俺の限界がある。

 善意の臨界点において、責任は問われるべきではない。それだけがわずかな慰めだろうか。


 壁に立てかけたアリザラが、小さな鈴のように鎖を鳴らした。いつか無理が来るであろう俺の善行を、今だけでも祝福しようとするかのように。


「つーか俺も報告で結構時間かかったのに、レイラはいいのかよ」


 レイラは貴族感全開の優雅さで紅茶を飲んでいる。


 こういう態度が粗暴な冒険者たちにとってはお高くとまっているように見えて反感を買うわけだが、白虎の谷くらいになると文句も出ない。

 衣食足りて礼節を知るというのは本当のことで、文化資本の重要性は言うまでもない。


 以前、一緒に食事をしたときと違うのは、レイラが甲冑も兜も身に着けていないということだ。


 ただゆったりとしていることだけが取り柄の町娘のような服に、たっぷりとした金髪を結わずに肩に垂らしている。

 顔の左側をびっしりと覆うように刺青が施されているが、レイラの美しさを少しも損なっていない。長く生きた大樹の年輪のように、彼女が歩んできた道程を表している。


「部下に丸投げしてきた。書類仕事は得意なものがすればいい」


 可哀想なオスロー。組織の悲哀を感じるね。


「もっと揉めると思ったから、すんなり片付いて安心した」


 クタラグは俺に恩を感じている。まあ、それだけのことはしたからな。

 特に、ニアの依頼を丸く収めたことで、最初に会った時に俺を殺そうとしたのが嘘みたいな態度だ。


「何がだ。報告を怠ったせいで、竜の素材をすべてギルドに没収されたんだぞ。私の金が……」


 フィルニールはちょっと前までイースメラルダスに怯えていたのをすっかり忘れたようで、失った金の額をしつこく数えている。

 がめついエルフだ。


「わたしたちは」


「竜狩りの二つ名を得られただけで充分だ」


「戦士としての名誉」


「他に何が必要なのか」


 ミーシャとシンシャはソファにだらしなく寝そべり、怪しい紫の煙を浮かべながらキセルを交互に回し呑みしている。

 ボルゾイと言うよりは、マタタビを嗅いだ猫のようだ。


 元の世界の日本だったら彼女らが吸っているものは違法薬物扱いだっただろうが、異世界にはまだそれを咎める法はない。

 だから俺もわざわざ何も言わない。もっとも、受動喫煙をしないように俺の周囲に薄く壁を作って空気を隔てているわけだが。


「いや、そこの女が横やりを入れやしないかと思っていてな」


 レイラがカップを置いた。


 トルコ石のような深い水色の瞳から視線をそらすのに、俺はかなりの労力を要した。


 兜を脱ぐことで、レイラがこちらに心を開こうとしたのがわかったので、レイラが言うことを俺は真剣に聞くことにした。


「罪に罰を与えることに意味があるのは、その重さを万人に知らしめるためだ。善良なる人が罪を犯さないように、罪人が自分のしたことを悔いるように。しかし、罪人本人が罪を自覚できないのなら意味がないだろう」


 レイラの言葉から、初めて自分自身を信じ切ってない気配がした。

 何でもかんでも白か黒で判断してきたレイラが、灰色を飲み込もうとしているのがわかった。


 レイラの言うことは間違ってはいない。しかし、すべてではない。


 ただレイラは納得しようとしているのだった。


 俺やクタラグがした隠蔽工作にも意味があると理解し、ニアに同情する気持ちもあり、法と心の間で揺れた結果、今こうして俺たちと一緒にお茶を飲んでいる。


 レイラも俺も、自分のできる範囲で自分のルールに従ってできる限りのことをした。それだけだ。

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