002 青年

なんでだろう、何か作業をするには部屋の中より廊下の方が捗ってしまうのは。

共同住宅なのは理解しているつもり。でも室内での作業はすぐに気が滅入ってしまう。

ふふふ、他人には私はどう映るのだろうか。認知症かただただ薄気味悪い老婆なのか。

私だって少しは遠慮してるさ。住人の往来が少ない時間を選んでいるが深夜だと余計に気味悪いだろうから、時間は早朝を選んでいる。

さて、この編み物はいつ仕上がるのか。何だか、もう仕上がってもよさそうに思えるし、まだまだかかる様な気もする。

愛しいに渡せるように今日も明日も編み続けるのさ。

勘違いしないでほしいが、は決して旦那とかじゃないさ。私は独身だからね。

ふと左頬に視線を感じた。

すらっとした体系にぼさぼさに乱れた頭髪、前髪は視線を隠すように鼻にかかるほど垂れ下がっている。

「おはよう、中村さん」

「あら、おはよう榊くん」

珍しい事もあるもんだ、この青年から挨拶をしてくるなんて。

最後に挨拶をしてきたのは青年が引越ししてくる際にうぃっすと会釈したあの日ぶりになるのかしら。

「今日も編み物ですか?」

青年は会話をやめない。

「そうよ、もう少しで完成なの」

青年はそのまま動かずこちらの横顔に視線を運んでいた。

私も彼もこの物件に住んで3年以上になると思うが初めて思うことが今起きている。

私に興味を持ち、何かを聞き出そうとしている。

そうこんな事は初めてだ。いつもなら無言で私の前を横切り。エレベータがくるまで一度だって振り返る事もない。それが彼のはずだった。

「榊くん?」

「何か?」

「今日はいつもより遅いわ、出勤の時間は大丈夫なの?」

「ああ、今日は大丈夫ですよ」

彼は毎日、計った様に6時半に部屋からでてくる。だが今日はすでに7時を過ぎていた。

私が視線をあわさず編み物をしているといつもの様に私の前を横切りエレベータ前で背中を向けた。

背中を向けたままこう続けた。

「中村さん、その編み物。僕には進んでいるようには見えないんですが」

「完成は近いんでしょうか?」

俯瞰的に自分の手元にある編み物を見つめた。ああ、何てことだろう。いつからだろう。編み物はほとんど完成しているじゃない。最後の角をまとめれば仕上がるのに私自身がするすると毛糸をほどき、まるで波のように完成しては解きを繰り返していたのだ。

「そう、もう少しで完成よ」

掠れるような声で返答した。思いのほか小声だったので聞こえなかったかもしれない。

「そうですか」

彼は間髪おかず答えた。彼は私の声を確かに拾っていたのだ。

私は今日はじめて編むのを止めた。

彼の目を見たい。

「榊くん?」

エレベータに乗り込む彼にこちらから声をかけた。

彼は振り返り「何か?」といった。

彼の目をみてすぐにわかった。私はこの目を過去に見たことがある。彼自身の目を見たということではない。彼の目のような人を見たことがあるのだ。

諦め?決心?覚悟?一体どうすればこんな目になるのだろうか。

彼に言わなきゃいけない言葉があった。でも思いが言葉にならない。あの時と同じように沈黙するしかないのだ。

そうこうしている内にエレベータの扉は閉まっていく。

「いってらっしゃい」

閉まり行く扉の合間にみえた彼にかける言葉はこれしかなかった。

エレベータの扉がしまる。

階数のランプは下へ下へとおりていく。

今度こそ彼には私の声は届かなかっただろう。

だがいい、今度、会うことがあれば大きい声でおかえりと伝えよう。

会うことがあれば。

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