第9話 激襲、リカントロープ
考えられることではあった。
地図を眺めていて分かったことだが、植物が育つのに適した温暖な地域にあるせいか、蒼鏡の森の面積はきわめて広い。
オーク以外の亜人種が生息していても不思議ではなかったのだ。
襲い来る狼の群れをいなしながら、オスカーは木立の奥の闇を睨む。
――聞いたことがある。
南方の森には、狼の精霊を祖先に持つ者たちが棲んでいるのだと。
その種族は現在もなお、狼と意思を通わせることができるのだと。
夜光草が投げかける光を背に立つ、影。人のように二本の足で直立しながら頭だけが狼の形をしたそいつの名前を、オスカーは記憶の底から引きずり出す。
「
オスカーは踊りかかってくる
「やめろ! 敵対するつもりはない!」
無駄と知りつつ声を張り、両掌を見せて態度を示す。
なぜ「無駄と知りつつ」なのかといえば、リカントロープはこちらの言語を解さず、共通する身振りも持たず、何よりもエルフと狩り場を同じくする競合の種族であるからだ。
何より進化の過程で暗黒のマナを捨て去ったエルフと違い、リカントロープのような亜人種は、未だ暗黒のマナを身に宿している。本能的に冥王パウラの復活を求める彼らの行動原理は、邪教の使徒たちときわめて親和的であった。
不運にも出会ってしまったならば、戦って生き残るしかない。
「グルルルル……」
威嚇するように喉を鳴らすリカントロープ。狼たちも木の根元に集まってきている。
やはり、引き下がる気はないらしい。
「……やむを得んか」
樹上を伝って逃げたところで、狼の鼻からは逃れられまい。里に余計な面倒を押しつけてしまうことになりかねない。
つくづく来たのがヒルデガードでなくて良かったと思う。
普通のエルフではない自分だからこそ、この状況であっても獣人と渡り合うことができるのだから。
首飾りを握り締めて叫ぶ、
「
詠唱と同時、闇が闇を裂いた。
オスカーの纏った服がマナへと変換、分解され、首飾りの石片のルーン文字へと吸い込まれて消える。
全身の血が沸騰する。
筋肉という筋肉がざわめき、骨という骨がめきめきと音を立てて成長し、神経という神経が稲妻を発する。
灰色に染まった皮膚は板金のように硬くなり、眼が肥大化して吊り上がり、大きく裂けた口からは
それは、オスカーにとって忌まわしき変容。
戦うためだけに作られた破壊の化身――オークの姿だ。
「フゥ――ッ……」
暗黒のマナが体の至るところで活性化。揺り起こされた本能が爆発する。破壊衝動を両手の指先で具現化させて鉤爪としたオスカーの口から、制御しきれなかったぶんの闘志が咆哮となって解き放たれた。
「ウゥオオォォオオォォ――――ッ!!」
足場を蹴る。
オークの脚力は大人の胴回りほどもある大枝をしならせ、弓矢のような勢いでオスカーの体を射出する。
樹の下で吠える狼どもには目もくれない。狙うは親玉、リカントロープただ一人だ。
「オオォォオッ!」
「ガアァァアッ!」
爪と爪が交錯した。月夜の森に火花が咲き、一瞬の光を散らして闇の中へと溶けてゆく。
「退かないのならば、
着地して振り返ったとき、手下の狼たちが追いついてきた。
俊敏な挙動で飛びかかってきた一匹目に拳を見舞ったところに、絶妙な合わせで二匹目が急迫した。側方から腕に食いついてくる。涎にまみれた牙が灰色の皮膚を、
「――無駄だ!」
破れない。
エルフから変異したてのオークの肌が弱いのは、栄養と日光を極端に遮られた生活による劣化が理由だ。そこから自然の環境に置かれれば、まるで羽化を終えた甲虫の表皮がだんだんと硬くなるように、戦闘生物にふさわしい強度へと変化していく。
ヒルデガードが食事と休息を与えてくれたおかげで、一晩なりにではあるにせよ、今やオスカーの皮膚はオーク本来の強靱さを獲得していた。先のヤクルスのような怪物ならばいざ知らず、自分よりも小型の動物に噛まれた程度ではかすり傷にしかならない。
振り払った。
ここに至って、残りの狼は近づいてこなくなった。逃げ出しはせず、しかし対峙するオスカーと主人とを遠巻きに囲んだまま動こうとしない。
「動物は賢いな。勝てない相手と知っている」
だが、リカントロープは退かなかった。もとより手下で殺せねば自身が狩るつもりなのだろう、荒々しく息を吐いて臆することなく進み出る。
――やはり、そうくるか。
リカントロープはエルフほど互いに協力する習性を持たないぶん、個体として強力だ。その体格の大きさと爪牙の鋭利さは、オークにも決してひけをとるまい。
「バァウッ」
リカントロープは体躯に似合わぬ、先祖譲りであろう機敏さを見せた。ザッと地を踏み鳴らして一直線に迫るかと思えば、次に爆ぜたのはオスカーから見て左方の樹の幹。オスカーがそちらに視線を向けたときには既に、リカントロープは右方へと回り込み、低く身を沈めて攻撃の体勢を整えている。
狼のものより太く長い牙が、オスカーの脇腹を狙った。
反応した。
鼻っ面を押さえ込んで噛みつきを空振らせ、獣頭の眉間を狙ってもう片方の拳を叩き落とした。
「ギャウッ」
悲鳴をあげて身を
リカントロープが追ってくる。
やはり速い――が、
「
こちらにはルーン魔法という強みがある。
巻き起こる黒い風によって加速を得たオスカーは、リカントロープの突撃を上回る速度で後退する。狼の包囲の輪が乱れるが、ここまできて戦いを切り上げるつもりはオスカーにもない。
敵を砕けと本能がわめく。
稼いだ距離と時間を使って、オスカーはさらに詠唱する。
「
足が地面を掌握した。
時を同じくして首飾りの石片がルーン文字を輝かせる。オスカーの全身に力がみなぎり、
突っ込んできたリカントロープと衝突した。
「グ、ガ……!?」
人狼が困惑の唸りを漏らす。
オスカーにダメージは、無い。
ルーン魔法によって一時的に増強された筋力が、勢いと体重の乗ったリカントロープの突進を受け止めたのだ。
リカントロープはなおも力で押し切ろうと踏ん張っているが、もはやオスカーは微動だにしない。左手で口元を掴む。たったそれだけのことで、リカントロープは牙と顎を封じられる。
事態を理解する暇など与えない。
オスカーは右腕を高く振りかざし、最後の詠唱を重ねた。
「
掲げた右手にマナが集束し、バチバチと黒い稲妻が迸る。
次の瞬間、オスカーは腕を振り下ろした。
破壊の魔法を授けられた手刀がリカントロープの脳天を割る。何の比喩でもない。刃物と化したオスカーの手は、凄まじい力と鋭さをもって敵たる亜人の頭蓋から侵入。ほとんど抵抗もなく首へ胴へと切り進み、股の間を通って抜けた。
真っ二つに引き裂かれたリカントロープの体が、左右に分かれながら地面めがけて傾いでいき――
爆発を起こした。
「フーッ……」
行き場を失ったマナを消費し尽くした炎は、周囲に燃え移ることなくたちどころに鎮火してゆく。
いつの間にか、狼たちは何処かへと去っていた。主人の死を目の当たりにして一散に遁走したのだろう、ひとつの気配も残っていない。
――戦いは終わった。
――終わったのだ。
必死に自分に言い聞かせても、昂った心を鎮めるのに長い間を必要とした。それはやはり、この身が野蛮なオークであるからだろうか。
「……長居は無用だな」
すでに用事は済ませている。
さっきまで人狼だったものの残骸を一顧だにせず、オスカーは今度こそ花園をあとにした。
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