第8話 輝く花園にて

 泉のそばに半刻ほど座っていた。


 一息入れるべきかどうか悩んだのだが、悩んでいる時間があるなら休んでおこうという判断である。ただ走るだけならオークの体は三日三晩でも耐えられるが、降りかかる火の粉を払いながらとなると話はだいぶ変わってくるのだ。特に、武器を失った今は――オスカーは空っぽになってしまった腰の鞘を無意識にさする。


 大蛇の毒に溶かされた剣。パウラ教団のアジトからくすねた品に過ぎず、さしたる思い入れもなかったが、逃避行の間の頼れる相棒だったことは紛れもない事実だ。無くなったら無くなったで心細くもある。


 オークと鉢合わせるのはもとより、ここからは野生動物との接触にも先刻まで以上に気をつけなければならない。


 もちろん、嘆いたところで今更仕方がないのではあるが。


「……そろそろ行くか」


 水筒を一度あおって立ち上がる。


 ヒルデガードからもらった地図によると、夜光草の群生地まではここからおよそ四里の距離だ。一刻もあれば着くだろう。


 ――何事もなければの話だが。


 この泉よりも手前でオークやヤクルスと接触してしまった以上、あまり期待すべきではないかもしれない。いっそうの慎重さが必要と思われた。


 鏡のような水面に映る半分の月が、音もなく飛翔するふくろうの影に遮られて消え、一瞬の後に再びのぼる。


 オスカーは泉を後にし、森の深部へと歩みを進めてゆく。




 意外なことに、何事もなかった。


 言うまでもなく喜ぶべきことだ。無事に花をヒルデガードのもとまで持ち帰って初めて、この探索には意味があったと言える。危険を避けて通れるならそれに越したことはない。


 目的地はもう目と鼻の先だ。


 凹凸の激しい地面を踏み越え、藪を突っ切ると、開けた場所に出た。


「……ほう」


 オスカーの口から感嘆の吐息が漏れる。


 視界いっぱいに広がる、光の絨毯。


 月の煌めきを受けて青白く輝く花が、一面に咲き乱れていた。


 ――これが、夜光草。


 夢か幻の類ではないかと錯覚した。初めて目の当たりにする絶景に、オスカーはしばし我を忘れて見入る。白亜の森の雪景色も乙なものではあったが、これほどまでに命が息吹く光景は故郷ではついぞお目にかかれなかった。


「限られた間しか見られないのが惜しいな」


 いつでもこの景色がここにあるなら、ヒルデガードや快復したミヒェルを連れてきてやりたいところだ――柄にもなくそんなことを考える。


 ――まあ、どのみち夜の森を歩くのは危険か。


 苦笑をこぼさずにはいられない。ついさっき、自分で身をもって実感したばかりではないか。


 オスカーは屈み込み、花へと手を伸ばす。


 一本一本の夜光草は小さい。それでもヒルデガードの話によれば、十本もあれば事足りるはずということだった。


 もう何日かしたら花は枯れてしまうのだとわかってはいたが、こうも圧倒的な様子を目の当たりにしては、できるだけ景観を損ねないようにという気持ちも働く。オスカーは端のほうに生えていた夜光草を十本摘むと、腰に括りつけていた空筒に放り込んだ。


 これで、目的は達した。


 あとはヒルデガードのところまで戻るだけだ。


 小さからぬ名残惜しさを覚えつつ、オスカーは花園に背を向けた。


 そして、ぴたりと動きを止めた。


 ――何かがいる。


 こちらを狙う気配の存在に気づかせたのは、エルフとしての経験か、それともオークの本能か。


「……囲まれたか?」


 気配は一つや二つではない。七、八、九、十――数えられたのはそこまでだ。悪くすると、まだ他に後詰めがいるかもしれない。


 全方位を穴なく塞がれている。


 じりじりと輪を狭めてきている。


 木々や草葉の作る暗がりの奥で、人ならざる者たちの目が爛々と輝いた。



     ◇ ◇ ◇



 きみはゆっくり休んでいろ、とオスカーに言われた。


 もちろんオスカーの諫言かんげんは理に適っている。事ここに至っては自分が起きている意味などなく、しっかりと睡眠をとって生活の周期を元に戻しておくのが賢明ではあるのだろう。忙しくなるのは日が昇ってからだ。さっそく薬湯を作ってミヒェルに飲ませなければならないし、おいしいごはんを作って弟の命の恩人をねぎらってもあげたい。もちろん、彼を里のみんなに紹介することだって忘れてはいない。仕事はたくさんあるのだ。わかっていた。


 わかってはいても、ヒルデガードは眠れなかった。


 そもそも昼間にたっぷり寝ておきながら今更眠気もなかったが、それ以上に、乱れに乱れた心境のままで眠りにつけるわけがないのだった。


 オスカーは帰ってくるだろうか。


 そんな考えがよぎって、ヒルデガードは縁起でもないと首を振る。


 帰ってくるだろうか、ではない。


 帰ってきてくれなければ困るのだ。


「あーあ……なんで話す気になっちゃったかなぁ」


 出会ったばかりの男に――今更ながらにおかしさがこみ上げてきた。卓上のランプの灯に照らされながら、ヒルデガードはひとり居間の椅子に腰を下ろして静かに笑う。


 脳裏に浮かぶのは、数刻前のオスカーとのやりとり。


 ミヒェルのことを打ち明けるつもりはなかった。危険な行いを肩代わりさせたくて助けたわけではなかったのだ。


 それなのに、どうしてか気を許してしまった。


 ――どうせ隠し通せることじゃないから?


 ――里の仲間には頼れないから?


 ――あいつの言うことがいちいち正論だったから?


 どれもこれも理由の一つではあるような気がするし、かといって全てではないような気もする。


 深緑色を湛えたオスカーの瞳。陰の窺える面持ちと、余所者だからという以上に何かを割り切ったような態度。彼というエルフの奥に見え隠れする曰くありげな雰囲気に、自分は興味を引かれたのではないかと思う。


 集落を離れることの重さは、エルフであれば誰でも知っている。誰の助けも借りずに生きられるエルフなどいないのだ。自分は言うに及ばず、当のオスカーだってそのことを語っていたではないか。


 なのに、彼は白亜の森からやって来たという。


 只者でないことは明らかだったのだ。最初から。


 オスカーをこの里に迎え入れるならば、そのあたりの話も聞いておかねばならないだろう。


「いったい何者なのよ、あいつ……」


 とにかく間違いがないのは、オスカーが夜光草を持って戻ってきたとき、自分とミヒェルが彼のおかげで救われるということだ。あっちは恩返しのつもりらしいが、その行いは自分が与えた施しのぶんを返済してなお余りある。少なくともヒルデガードはそう確信している。


「顔、洗おっかな」


 不覚にもオスカーの前で泣いてしまったことを思い出した。たぶん目元は腫れたままだし、涙の痕もきっと残っているだろう。


 うん、とひとつ気合いを入れて立ち上がる。


 ――あいつが何者であったとしても。


 ひとまず一つ、自分にもしてやれることがある。


 オスカーが帰ってきたとき、曇りのない笑顔で迎えてあげることだ。

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