レモンティーは、デジャ・ヴュ味
頭野 融
切る
「大切にしていること、ですか。ここの空間や、メニューなんかはもちろんだけど、機会をお客さんに提供することですかね。」
そんな、喫茶店「ゆらぎ」のマスターの言葉を思い出す。「ゆらぎ」は、ゆったりとしていて、少しマイナーな喫茶店だ。家からも、職場からも少し遠いが、地域限定雑誌の定番企画でもある『カフェ巡り』に「ゆらぎ」を秋にぴったりと銘打って掲載することになり、そのために8月の終わりに取材に行ったのだった。
取材してみると本当にいい雰囲気で、「運命の出会いがありそうな雰囲気」と運命なんて信じない女の子らしくない、25歳、社会人数年目の私、
その時に秋限定のメニューを取材しながらも、実際に出すのは9月に入ってからです、と先のマスターに言われ、今日、再び、プライベートで来てみたのだった。
ぜひ、楽しんでください、とのマスターの言葉が添えられた、秋限定のコーヒーは非常においしく、甘すぎないモンブランもおいしい。季節限定メニューがおいしい、他の季節も来てみたいということで、冬の限定のために12月に「ゆらぎ」に、また来ることが決定した。
カウンターの真ん中ぐらいの席から、周りを見渡すと、広めの店内に、カウンターが弧を描いており、その周りにはテーブル席が品よく、間を空けて並んでいる。木目調の壁には、童謡を再現したかのような古時計がかかっている。音楽も控えめに流れている。
お客さんもこの良い雰囲気を作り出しているのか、どことなく、落ち着いている人が多い。おやつの時間の少し前だというのに、仲のよさそうな老夫婦や、渋い紳士がテーブル席にいる。仕事がバリバリにできそうなキャリアウーマンがカウンターの端に座っていて、角のテーブル席には30代ぐらいの男性がパソコンを熱心にのぞき込んでいる。
決まったことや、学生たちと相談すべきことは、打ち合わせの時間に比例するのか大量に存在した。画面の無機質な文字を見つめるのにも、いい加減飽きたころ、川崎は自分のいる場所が、お気に入りのカフェであることを思い出したかのように、周りを見た。角からなので全体がよく見える。マスターの顔も見える。お客さんの中には、いつもいる顔ぶれに混じって、見覚えのあるような、無いような、端正な顔立ちの女性がカウンターに一人座っていた。ともすれば、マスターと言葉を交わし、注文をした。
美しい。川崎は、自分が何をするために、「ゆらぎ」に寄ったのかなんてことを忘れ、彼女を見つめて、我に返って、パソコンを見た。内容なぞ、入ってこない。でも、作業も進めなくては、そう思って、川崎はドラマや映画でも数えるほどしか見たことのない、「あちらの彼女に○○を。」をしてみようかと思った。普段なら絶対にしないことを思い付き、実行に移したのには、少なからず、彼女と話せたらという、淡い希望が関係したに違いない。○○は自分のお気に入りのレモンティーにすることに川崎は決めた。さっぱりとした良さは彼女にもピッタリだ。
川崎は、画面よりも頻繁に彼女を見つつ、マスターを呼んで、さっきマスターとも話をしていた、カウンターに座る若い女性に、云々と言って注文した。
「こちら、レモンティーです。」
マスターが、カップを私に差し出した。状況がのみ込めなかったが、マスターが微笑んでいるので、とりあえず一口飲むことにした。まず、さわやかさが感じられるが、紅茶の良さがその後に流れて来る。どこか、懐かしい味もする。もう一口と思ってカップを傾けたが、その前に訊くことがあった。
「これは、、、。」そう言い始めると、マスターが、
「あちらのお客様が、ここのレモンティーはさっぱりと美しいあなたにぴったりです。私のお気に入りでもあるので、もし良ければ。と。」と言った。視線は、あの角の男性客に送られている。
男性はさっき見た時と同じように、パソコンをのぞき込んでいる。横には、あと少しのレモンティーのカップが置いてある。後ろを向くのをやめて、頂いたレモンティーを飲む。やはり、おいしい。
「普段は、こんなことをする方ではないんですよ。」とマスターが小声で言う。
「どんな方なんですか。」そう尋ねると、マスターは野暮なことは致しません、とでも言うような表情で、もう一杯レモンティーを準備し始めた。
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